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須田 朗

須田 朗 【略歴

「そこから立ち上がらなければならない」――パスカル

須田 朗/中央大学文学部教授
専門分野 ドイツ近・現代哲学

 東日本大震災で被災された皆様に改めて心よりお見舞い申しあげます。

 私は東北大学出身で、友人・知人・恩師などがかなり仙台や東北地方に住んでいます。大津波で宮城県の亘理町や仙台市の若林区が大きな被害にあったと報じられたとき、同じ住所の恩師や知人の身を案じたものでした。幸いこれらの知人に人的な被害はなかったようですが、それでも皆さん地震とその後の不自由な生活に苦労されていると聞きます。また十年ほど前に息子が岩手県の三陸町と大船渡に三年間暮らしていたこともあって、とくにこの地で被災され家族を失った人たちの報道は、とても他人(ひと)事とは思えませんでした。大切な人を失った悲しみはいかばかりだろうと、胸がつまる思いで日々のニュースを呆然と見ていました。

 震災後報道で知る被災地の惨状にはすさまじいものがあり、涙なしでは読めない・聞けない報告がたくさんあります。また、優れた励ましの言葉もたくさん聞かれました。しかしどんな言葉も、あまりの悲劇の前には、むなしくなるということがあります。先日朝日新聞の「天声人語」(2011年4月3日)に同じことが書かれていました。記事に同感し、またその文章がとてもいいという感想をもちました。被災地の只中に立って記者は、言葉を失ったと書かれています。そのうえで、かつてアウシュビッツを訪ねて開高健が発した「うめき」の声を紹介しています。「すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった」。重い言葉、いやうめき声です。二〇世紀ドイツの哲学者アドルノも「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」と述べましたが、東西の思想家が同じ場所で筆舌に尽くしがたい惨状を体験し、語ることのむずかしさ、いや、むなしさを語っているのがとても印象的でした。

 この見事な天声人語にはかなり共感を覚えたのですが、ひとつだけ違和感をもったことがあります。それは、大津波の被災地での沈黙はアウシュビッツでの沈黙とは意味が違うのではないかということです。アウシュビッツはヒトラー・ナチスが生み出した歴史的愚挙です。人が人に加えた犯罪です。同じくすさまじい惨劇ですが、それは人による人の虐殺であって、地震とは次元が違います。自然現象がいかに悲惨な結果を人々にもたらそうと、自然に憤りを感じることはできないし、自然に対して責任を問うこともできません。この地球上では今も残念ながら、人間同士が殺し合いをおこなっています。戦争や虐待は犯罪ですが、震災は犯罪の結果ではありません。ともに目を覆う惨状ですが、その前に立って強いられる沈黙の意味はおのずから異なると思う。戦争犯罪の悲劇の前で生じた沈黙には怒りが続きます。大津波の被災地のただなかで起こる沈黙には悲しみが続く。怒りには向かう先がありますが、悲しみはどこに向けていいか分からない。われわれは自然の巨大な力の前で自分たちの弱さ・小ささをただただ感じるばかりです。悲しみは、怒りや憎しみよりも一層深いところ、人間存在そのものの根底から湧き上ってくるからです。

 この大震災の報道を受けとめながら、この間(かん)私が絶えず意識していた哲学者の言葉がひとつあります。誰でもよく知っているパスカルの断章「考える葦」です。通常引かれる有名な文章はこの断章全体の一部分ですが、文章全体を読むと、どうしてこの断章がこのところ私の心に浮かんでいたかをお分かりいただけると思います。

 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶすとしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら彼は、自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。

 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある」(パスカル『パンセ』347、下線は須田)。

 人間は水辺に生える一本の葦にすぎない。自然がほんのちょっと動けば、あっという間に波にさらわれてしまう弱々しい存在者である。宇宙は時間空間的に無限に広がっているが、人間は、空間的に無限に広がっているわけでも時間的に永遠に存続するわけでもない。しかし自然的肉体的には弱々しくみじめな人間は、考えるという力において偉大である。パスカルはここでそう宣言しているかのようです。考えるという能力にこそ、自然の天変地異に負けない人間の尊厳がある。だから、考えよう、よく考えよう、そしてそこから立ち上がろう――そんなふうに、パスカルは人間を、いや被災地を励ましているかのようです。

 しかし実はこの断章、さらに別の断章(『パンセ』365)につながっているらしく、それによると、たしかに人間の偉大さは考えることにあるが、しかしその人間が考えることは、なんとちっぽけなこと、愚劣なこと、欠陥に満ちたものだろうと続きます。震災への政治的対応、とりわけ東京電力福島第一原発の過酷事故とそれへの対応を見ていると、今度はこちらのパスカルの指摘を意識してしまいます。

 パスカルはこのような人間の偉大さと悲惨さを力説することで、中間者としての人間の存在性格を『パンセ』のなかで浮き彫りにしています。大自然の巨大な威力を前にして、しっかりと考えることができるかどうか。よく考えることができるかどうか。偉大さと悲惨さ、どちらに傾くのか。これはまさに道徳の(ということは、政治の)問題ではないでしょうか。パスカルの「考える葦」の断章に励まされて、東北が、いや日本が、よく立ち上がることを願わずにはいられません。

須田 朗(すだ・あきら)/中央大学文学部教授
専門分野 ドイツ近・現代哲学
千葉県出身。1947年生まれ。1969年山形大学文理学部哲学科卒業。
1971年東北大学大学院文学研究科修士課程(哲学)修了。
1973年東北大学大学院文学研究科博士課程(哲学)中退。
1973年東北大学文学部助手、1975年弘前大学専任講師、1978年弘前大学助教授、1984年中央大学文学部助教授を経て、1989年中央大学文学部教授(現在に至る)。
カント哲学から始め、最近はハイデガー哲学も研究している。東北哲学会会員。
主要著書:『哲学の探究』(中央大学出版部、1993年)[共著]、『<ソフィーの世界>哲学ガイド』(NHK出版、1996年)など。
主な翻訳書:カッシーラー『認識問題』 (みすず書房、2010年)[共訳]、アドルノ『否定弁証法』 (作品社、1996年) [共訳]など。