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トップ>オピニオン>宮内庁の「昭和天皇実録」編纂事業に対する国民の熱望

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佐藤 元英

佐藤 元英 【略歴

宮内庁の「昭和天皇実録」編纂事業に対する国民の熱望

佐藤 元英/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代史・日本外交史

国の事業として国民に応える責務

 昭和天皇の87歳8ヵ月にわたる生涯を記録する、宮内庁の「昭和天皇実録」の編修事業が1990年に16年計画で始まったが、1998年に計画が見直され、5年遅れの今年3月度完成する予定であった。しかし、さらに3年延長され完成年度を2014年3月とした。戦後65年を経て、アジア太平洋戦争の時代を体験した人々もすでに高齢に達し、激動の昭和天皇の同時代史は、人びとの記憶の歴史から記録の歴史にさしかかろうとしている。まさにこの時期に、国民の多くは「昭和天皇実録」の公開に期待をよせている。だが、宮内庁は今上天皇のご意思も確認せず、公開の予定はないとしている。

 「天皇は日本の政治と社会においてどのような役割を果たしてきたのか」、という知る権利は国民上げての一大関心事である。また、歴史研究者はこの機会に、「昭和天皇とその時代」の研究の基軸になり得るような資料蒐集と、その編修成果を望んでいる。1915年より18年10ヵ月を要して完成した「明治天皇紀」は、極めて客観的に天皇の行動を記録していると、今日なお高く評価されているが、国家事業として蒐集した資料とそれを基に編修した「昭和天皇実録」も、国民に還元されてしかるべきであろう。

国民の文化遺産として後世に残す好機

 宮内庁では、天皇の側近である侍従が記した「お日誌」と呼ぶ動静記録を始め、庁内に保存されている資料や、また、国立公文書館、国立国会図書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所図書館等に所蔵されている、公文書・個人文書の資料(複写)を蒐集し、あるいは元侍従など50人近くから、聞き取り調査などもおこなったという。さらに、在位に訪問を果たせなかった沖縄県を除き、全都道府県に書陵部編修課職員が出張して、各自治体に残る昭和天皇の「行幸」記録(複製)なども入手し、蒐集した資料は膨大なものになっているという。実録編修の執筆にとりかかった1998年12月、「ご動静が明らかにできる資料はすべて押さえたい。実録は正確な資料に基づき、事実関係を記述するもの。現在も資料蒐集は続行しています」との宮内庁の発表があった。作業は現在16人で進めており、これまでに2億円を要したというが、この額が適切かどうかは別として、人件費、出張費等を含めれば、とてもこの数字の額とは思えない。

 昭和天皇に関する資料は、東京裁判の法廷に提出されたり、天皇側近関係者の日記などが刊行されたり、研究者の努力でかなり明らかにされてきた。近年では、「徳川義寛日記」「田島道治日記」「小倉庫次日記」「高松宮宣仁日記」などが公刊された。しかし、関係者の日記・記録・文書などには、遺族が今も非公開にしているものも多い。そこで、大規模に宮内庁が非公開の資料を集めた今回の事業は、国民の文化遺産として後世に残す好機と成り得たことと想像する。

対米「宣戦布告」の通説を再検討

 不幸にして、東アジア・太平洋地域を戦争の渦中に引きずり込んだ70年前の「日米交渉」の破綻を「昭和天皇実録」ではどう記述されるのか。そして、日米開戦経緯の政策決定過程の実体を、我々自身も正しく検証してきたのであろうか。戦後の極東国際軍事裁判にあわせて意図的に集められた証言、回想録、記録調書にあまりにも依拠した歴史像を、我々は安易に受け容れているのではないか。

 1941年12月8日未明(日本時間)、日本海軍機動部隊はハワイの真珠湾に碇泊中のアメリカ太平洋艦隊主力を攻撃し、その大部分の戦闘能力を喪失させた。対米戦争の幕開けである。開戦外交を指導する立場にあった東郷茂徳外相は当初、攻撃開始の20分前にアメリカのコーデル・ハル国務長官に対米最後通牒の「覚書」を渡すつもりであった。しかし、実際駐米大使の野村吉三郎からハルに「覚書」が手渡された時には、すでに攻撃開始から1時間あまりが経っていた。ワシントンの日本大使館の怠慢が招いたとされるこの通告の遅れが、真珠湾攻撃を「騙し討ち」にし、日本の卑怯さを強調しアメリカ国民の反日感情を高揚させる「リメンバー・パールハーバー」という言葉を生んだ、というのが、これまで知られている史実である。しかし、この“史実”は本当に正しいのだろうか。

今なお残る疑問に応えることは単なる日本の釈明か

 対米「覚書」は「開戦宣言」の事前通告を意図していたのか。また、ワシントンの野村大使経由以外の方法、たとえば在京グルー大使への手交やラジオ放送等の手段を採ろうとしなかったのはなぜか。開戦直前11月27日の大本営政府連絡会議において、「開戦ニ関スル事務手続順序ニ付テ」が決定され、開戦後に宣戦布告を閣議決定することが記されているが、開戦(自由行動)の事前通告が明示されていないのはなぜか。昭和天皇は宣戦布告の通告をいつ裁可したのか。対米「覚書」の手交が攻撃以後になったという事実が発覚した時点で、昭和天皇はじめ外務省がなぜその責任を自ら追及しなかったのか。極東軍事裁判でなぜ日本の「無通告開戦」を裁けなかったのか。こうした疑問に応えようとすることは、単に日本の一方的釈明に過ぎないと片づけられる問題ではない。

日米開戦経緯に関する研究の今日的意義

『御前会議と対外政略―「支那事変」処理から「大東亜戦争」終結まで―』

 外務省記録によれば、「日米交渉」において最後まで妥協できなかったのは、(1)中国および仏印からの撤兵・駐兵問題、(2)通商の無差別問題、(3)「日独伊三国同盟」の撤廃問題の三大難問とされている。これらの問題は、東アジアの諸地域に大きく係る問題であったはずである。中国にとっては、日米両国の妥協そのものが国運を左右する重大事であった。さらに、そこには東アジア・太平洋地域における国際秩序の日米両国の理念の対立(スチムソン・ドクトリンおよびハル四原則に対抗する東亜新秩序)、植民地支配と資源獲得競争がみられ、開戦経緯を東アジア地域という視座から問い直す必要がある。

 日中戦争の終結と南進(援蒋ルート遮断問題)、資源獲得構想と仏印・蘭印関係、東亜新秩序構想と東アジア諸地域関係、日米交渉と中国問題、等々の諸点を検討し、戦争原因、戦争回避の問題も東アジア諸地域との関連から問い直す時期が来た。なぜなら、こうした問題視座は、現代の東アジアの共同体構築、資源・エネルギー問題、貿易自由化問題、人口・食糧問題、環境問題等を東アジア地域問題としてどのように解決すべきか、という模索につらなる極めて実践的なものに成り得ると考えるからである。

 昭和の激動を国民と共に歩んできた史実を示す昭和天皇の資料、国家事業としての「昭和天皇実録」編纂事業の成果を、日本国民の文化遺産として公開するよう宮内庁に強く要望する。史実の解明なしに戦争の反省は生まれない。

佐藤 元英(さとう・もとえい)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代史・日本外交史
秋田県出身。1949年生まれ。1973年中央大学文学部史学科卒業。1978年同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(史学)
外務省外交史料館「日本外交文書」編纂官、在カラチ日本総領事館副領事、宮内庁書陵部編修課主任研究官、駒澤大学文学部教授などを経て、2004年より中央大学文学部教授。現在、中央大学政策文化総合研究所長
2001年、『近代日本の外交と軍事』(吉川弘文館)で吉田茂賞を受賞。
主な著書・論文に、「東郷外相は日米開戦を阻止できた」(『文藝春秋』平成2009年3月号)、『昭和初期対中国政策の研究―田中内閣の対満蒙政策―』(改訂増補版、原書房、2009年)、『御前会議と対外政略―「支那事変」処理から「大東亜戦争」終結まで―』(原書房、2011年)などがある。