トップ>オピニオン>人を死亡させた犯罪の公訴時効の廃止・延長について
椎橋 隆幸 【略歴】
椎橋 隆幸/中央大学法学部・法科大学院教授 法学博士
専門分野 刑事法
公訴時効(以下単に時効という)制度とは、犯罪終了後一定の期間(犯罪の重さに対応して決められている)訴追(起訴)されないで過ぎると(時効完成)、国家はもはや訴追できない(公訴権の消滅ともいう)、従って、処罰できないものとする制度である。時効制度の根拠としては、(1)時の経過とともに被害者等をはじめとする社会一般の処罰感情が希薄化すること(実体法説)、(2)時の経過により、証拠が散逸し、その結果、適正な裁判をすることが困難となる(訴訟法説)、(3)(1)と(2)を根拠とする競合説、そして、(4)犯人が処罰されることなく一定の期間が経過し、その間に作られた事実状態を尊重すべきこと(新訴訟法説)との説が主張されてきた。(3)の競合説が多数説であった。
時効は時の経過により被疑者の訴追・犯人の処罰を断念するものであるから、同制度に対する批判は古くからあり、小説の題材としてもよく用いられてきた。近年、時効制度を見直す強いインパクトを与えたのは被害者等なかでも被害者遺族の時効の見直しに向けた切実かつねばり強い主張の広がりであり、それを関係各機関と多くの国民が共有したのである。殺人等の被害者等は時の経過によって処罰感情が薄れることはなく、むしろ時効完成時が近づくにつれ処罰感情はより高まると一様に述べている。また、世田谷一家殺人事件(2000年12月30日)に典型的に示されているように、犯行現場には多数の証拠品が残されており、DNA鑑定などにより犯人の特徴を示す有力な証拠があるなど、時の経過によっても散逸しない事件も少なくない、さらに、犯罪を実行し逃亡している者の事実状態を尊重することにどの程度の正当な利益があるかは疑問とされている。このように、時効制度を支える根拠の前提が相当程度失われてきているのである。
外国に目を向けてみると、ドイツでは、ナチスの大量虐殺を契機にして、謀殺罪(計画的殺人など)にも公訴時効を廃止した(1979年)。フランスでは、殺人罪などの重罪の時効は10年とされているが、「時効停止」の制度があり、捜査機関の捜査中は時効は進行せず、捜査が中断すると時効は進行するが、新事実が出てきて捜査が再開されると、時効はゼロから進行する(この時点から10年)。結果的に時効がなかなか完成しない事件も少なくない。イタリアでは複数の殺人や強姦殺人など終身刑が科せられる犯罪には時効はない。さらに、英、米では、謀殺罪にはもともと時効はない。近年のアメリカでは、テロ犯罪、性犯罪、児童虐待の罪については、時効の廃止や延長を認める立法がなされている。
法律や法制度は最終的に国民の支持が得られなければ充分に機能しない。時効の制度についての世論調査は国民の同制度に対する認識を示すものとして興味深い。毎日新聞の全国世論調査(2008年7月12、13両日、電話)によれば、殺人事件の時効を維持すべきかとの質問に対しては、「なくすべきだ」が77%で、「維持すべきだ」の15%を大きく上回ったという。また、内閣府の「基本的法制度に関する世論調査」(2009年11月26日から12月6日まで)によれば、時効制度を知っている者の約6割が殺人などの時効25年を「短かすぎる」又は「どちらかといえば短すぎる」と答えている。このように、世論の多数は殺人事件の時効を短かすぎると考えており、時効の見直しは世論調査の支持を受けているとみてよいだろう。
これまで述べてきた背景の下で、法務省は勉強会の成果、法制審議会の答申などを受けて、「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案」を作成し、国会での審議の後、同法律案は2010年4月27日に成立・公布され、同日施行された。
改正法によれば、人を死亡させた罪であって死刑に当たるもの(殺人、強盗殺人、強盗強姦致死など)については時効が廃止された。また、人を死亡させた罪のうち無期の懲役又は禁錮に当たる罪については改正前の15年から30年に延長するなど犯罪の重さに比例させて概ね時効期間を2倍に延長した。改正法は時効制度を存置しつつ、人を死亡させた罪の公訴時効について特別の取扱いをしたものであり、時効の根拠の前提事情の変化、外国の時効制度との比較、世論調査の結果などからも合理性を持つものと評価できるであろう。
法制審議会や国会の審議の過程で、時効の廃止・延長は、時の経過により証拠が散逸し、被告人から充分な防御の機会を奪い、冤罪の危険を増大させるとの批判があった。その批判にも謙虚に耳を傾けなければならない。一定の凶悪・重大犯罪につき、時効が廃止・延長されたからといって、事案の解明、適切な刑事裁判の運用のためには、事件の早期の段階での捜査・訴追・裁判が重要であることに変わりはない。初動捜査、適切な証拠収集、時宜を得た起訴がよりまして求められよう。また、時の経過による証拠の散逸(物証の散逸、証人の記憶の減退)は被告人側のみならず訴追側にも同様に当てはまる。訴追側は厳格な立証責任を負っており、被告人の犯罪につき「合理的な疑いを超える」証明をしなければならず、立証責任が果たせなければ無罪となる。当然のことながら、相当期間経過後の起訴、古い証拠に基づく起訴には、慎重に対応することが求められ、この要請は被告人の公平な裁判所の迅速な裁判を受ける権利の精神からも導かれるであろう。