飯塚 容 【略歴】
飯塚 容/中央大学文学部教授
専門分野 中国現代文学、演劇
改革開放から30年あまり、今世紀に入って中国文学はますます多様化と商品化の傾向を強めてきた。多様化は作家の年齢や階層、作品の内容や形式、そして媒体の分化(図書、雑誌、インターネットなど)にまで及んでいる。従来型の純文学が周辺化する一方、脚光を浴びているのは1980年代生まれの「80後」(バーリンホウ)と呼ばれる若い作家たちの文学である。その代表格は二人の青年作家、郭敬明(グオジンミン)と韓寒(ハンハン)だろう。
郭敬明は1983年生まれ。2003年にファンタジー小説『幻城』でデビュー、これが150万部を売り上げて一躍注目を集めた。2004年からは『島』、2006年からは『最小説』という文芸誌を刊行し、自作を発表するほか、同世代の作家の作品を掲載している。2007年と2008年には作家長者番付の第1位を獲得した。他方、しばしば剽窃疑惑が持ち上がるところに危うさもある。日本の漫画家集団CLAMPからの影響も指摘されているので、これを「またぞろパクリか」と批判するのはたやすい。しかし、即座にそのような反応をするのは不毛ではないか。注目すべきは、中国の若年層の読書傾向が急激に変化し、そこに日本と同質の巨大な市場が形成されているということだ。前述の雑誌『最小説』の発行部数が50万部、郭敬明の単行本がみな100万部を超えるベストセラーになっている現実は無視できない。いまや中国の既成文壇も、その存在と影響力を認めている。彼が2007年に中国作家協会に加入したこと、2009年に伝統ある全国版の文芸誌『人民文学』が彼の作品を掲載したことは大きく報道された。
もう一人の作家・韓寒は旺盛な批判精神に特徴がある。1982年生まれ。2000年に、自身の体験をもとにして苛酷な受験戦争を描いた『三重門』(邦訳は『上海ビート』)で登場。これがベストセラー(総計200万部)になり、「80後」ブームの先鞭をつけた。その後は作家活動と平行してカーレーサーとしても活躍し、人気を集めている。最新作の『1988:ぼくはこの世界と語りたい』は昨年出版された。1988年製のポンコツ車で旅をする主人公の見聞、思い出、人間関係を描く。初版の部数が70万部、限定版100部の豪華本の価格が988元(約13,000円)と話題は尽きない。しかし、最近国内外の耳目を集めているのは、彼のブログでの大胆な発言である。昨年の尖閣諸島沖の衝突事件が騒動になったとき、「内政の問題でデモをできない民族が、外国に抗議するデモをしても意味はない」と語ったことは、日本の新聞でも報じられた。昨年6月に彼が創刊した雑誌『独唱団』が続かないのも、検閲の結果らしい。韓寒には一貫してアウトローのイメージがつきまとう。
しかしながら、郭敬明も韓寒も日本人にとっては遠い存在である。私たちは、こうした若い作家たちとの接点をどこに見出せばいいのだろう。昨年9月に北京で開催された日中青年作家会議は、その意味で一つの試みだったと言える。この会議は中国社会科学院外国文学研究所の主催、筆者も「評論家・研究者」枠で参加した。中国側のメンバーに郭敬明と韓寒の名前はなかったが、「80後」の女性作家・張悦然(ジャンユエラン)のほか、李浩(リーハオ)、魏微(ウェイウェイ)、葛亮(ゴーリャン)、安妮宝貝(アニーベイビー)、崔曼莉(ツァイマンリー)ら「70後」世代、そして団長は「60後」の麦家(マイジア)と、多様な若手作家が集まった。対する日本側は、中村文則団長以下、綿矢りさ、青山七恵、山崎ナオコーラ、西加奈子、村田沙耶香、羽田圭介という顔ぶれで、中国の言い方にならえば、すべて「70後」と「80後」である。彼らが真剣に相手側の発言に耳を傾ける、まじめな姿は印象的だった。この会議は2007年の北京に続いて2回目。次回は日本での開催を模索していると聞く。一部の作家は連続で参加しているので、回を重ねるごとに少しずつ理解は深まり、ある程度の価値観の共有ができたようである。
思うに、かつての日中間の文化交流には前提として、日本側に中国伝統文化に対する一種の畏敬の念があった。現在の日本ではそれが失われ、また新たな土台作りが求められているのだろう。中国側もすでに、日本を単純に「目標とすべき理想の先進国」とは見ていない。だからこそ、衝突も起こるのだと思う。日本じゅうが、いわゆる「嫌中感」に包まれている昨今、文化交流の重要性はますます高まっている。交流はまず個人レベル、文学では個々の作品レベルから始める必要があるだろう。文学が改めて、隣国の人々のありのままの姿や思いを伝える窓口になることを願ってやまない。