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加賀野井 秀一

加賀野井 秀一 【略歴

現代社会における「言語」「記憶」「想像力」の低下をどうくいとめるか

加賀野井 秀一/中央大学理工学部教授
専門分野 言語学

 「言語って何だろう?」と問われて、あなたならどう答えるだろうか。これまでの私の経験からすると、返ってくる答えのほとんどは「コミュニケーションの手段である」というものだった。もちろん、そこにはいささかも間違いはないのだが、こうした考え方の中には、実は、言語の本質を捉えそこねてしまうかなり危険な陥穽(カンセイ)がひそんでいる。

 ここでは、あらかじめ個々人が頭の中で物事を考え、それを相手に分からせようと、二次的に言語化するのだということが前提とされていると言っていい。だが、本当にそうだろうか。むしろ私たちが頭の中で考える時、すでに言語はそこに介入しているのではないだろうか、と、そんなことを詮索し始めると、もう大変。そこには言語抜きの思考というものがあるのかどうか、哲学的な大問題が提起されてくるのである。

言語は思考そのもの

 なるほど、画家は色で考え、音楽家は音で考えると言われるし、犬にも猫にも、彼らなりの考えはあるだろう。私たちだって、目の前に障碍物が現われたら、とっさに身をかわすのは必定で、これをしも身体的な思考と呼んだとて、そこに何ら不思議はない。けれども、もう少し考えていただきたい。「きのう私はカレーライスを食べた」という事実を想起するような時、私たちは果たして、言語なしの思考ができるのかどうか。

 画家ならば、カレーライスを食べている自分の姿を描くことはできる。だが、それが「きのう」であることをどうやって表現するのだろうか。音楽家はその「美味さ」や「辛さ」の等価物を音によって再現できるかもしれないが、それが「カレー」であったり「味」であったりすることを示すのはおぼつかない。ましてや、犬・猫については言わずもがな。

 つまり、時間性のようなものは、言語以外の何ものによっても考えられはしないし、「愛」や「人権」などの観念ともなれば、言語なくして思いつかれることすらあり得ない。私たちの「記憶」も「歴史」も「文化」も、すべては言語の膨大な蓄積の上に成り立っているわけだ。そうなると言語とは、コミュニケーション手段などというところをはるかに越えて、思考の道具であるとともに、思考そのものでもあるということになってくる。

便利ツールが引き起こす言語力の低下

 では、この言語の能力が低下すればどうなるか。言わずと知れた、思考力の低下をひき起こすことになるのである。昨今、若者の言語力が落ちてきたと言われるが、別に若者に限ったことではない。おそらくは私たち全員が、パソコン、ケータイ、電子辞書といった便利ツールに囲まれながら、文字を覚えることも、文を暗記することも、彫琢(チョウタク)された文章を書こうとすることもなく、日々の多忙におし流されているのではないだろうか。

 パソコンで文章を作っていると、機械がうまく変換してくれるので、よく漢字を忘れるという。だが、そればかりではない。パソコンにインプットしてしまえば、いつでも必要な時に呼び出せるからと安心してしまい、さまざまな事柄を覚えようとしなくなる。つまり「インプットした。だから忘れた」症候群が現われてくるわけだ。

 そんなわけで、最近の学生さんたちは、暗記の努力ができなくなってきている。フランス語の初歩でも、時によると、英語のbe動詞にあたるêtre動詞の活用を暗記することさえままならない。こうした記憶力の低下は、そのまま歴史意識の低下にも、空間的・地理的意識の低下にもつながることになるだろう。ことほどさように、彼らは、グローバル化の時代と言いながら、世界の国々と首都をあげさせてみても、国内の県と県庁所在地をあげさせてみても、時代の順序を言わせてみても、いずれも惨憺たる結果を示してくれることになる。さらにインターネットは、ちょいとした疑問を解決するにはもってこいのツールであり、検索をかければたちどころに答えを見つけてくれる。だから、誰もが推理力や想像力を働かせなくなってくる。

現代社会の病理にうってつけの特効薬――読書

 こうした諸君には、寺山修司流に、まずは「便利ツールを捨てて街に出よ」と言ってみたくもなるのだが、ケータイ中毒になっている彼らには、はなから相手にしてもらえそうもない。仕方がないので、目下のところ私は、せめてもの埋め合わせにまずは読書をしなさいと勧めることにしている。なにしろ、最近の大学生の中には、一年間に一冊の本も読まないという者さえ珍しくはなくなっているのだから。

 活字だけしか並んでいない書物は、想像力と推理力を要求する。もとより言語力は必要だし、読むにつれて出来もする。書かれた内容は古今東西にわたり、歴史も地理もふんだんにちりばめられている。現代社会の病理に、これほど容易で、これほどうってつけの特効薬もあるまいもの。読書という提案をこの社会が受け付けなくなったら、まあ、その時はもう、まさしく「終わりの始まり(コマンスモン・ド・ラ・ファン)」なのだろうね。

加賀野井 秀一(かがのい・しゅういち)/中央大学理工学部教授
専門分野 言語学
1950年高知市生まれ。中央大学文学部仏文科卒業。同大学大学院を経て、パリ大学大学院で学ぶ。専攻は仏文学、現代思想、言語学、メディア論。モーリス・メルロ=ポンティ、フェルディナン・ド・ソシュールなどを研究する一方、日本語論も専門とする。主な著書に『メルロ=ポンティ 触発する思想』(白水社)、『20世紀言語学入門』(講談社)、『知の教科書 ソシュール』(講談社)、『日本語は進化する』(NHK出版)、『日本語の復権』(講談社)、『日本語を叱る』(ちくま書房)、『メルロ=ポンティと言語』(世界書院)、『「音漬け社会」と日本文化』(講談社)、訳書など多数。