谷口 洋志 【略歴】
谷口 洋志/中央大学経済学部教授
専門分野 経済政策論、公共経済学、インターネット経済論、中国経済論
1993年1月に誕生した米国クリントン政権は、ゴア副大統領のリーダーシップの下で、ICT(情報通信技術)基盤の全国的整備やICT機器の保有・利用の拡大などの科学技術政策を推進した。1990年代半ば以降、ICTの基盤整備と共にインターネット利用が急速に普及した。その背景には、ICTにおけるイノベーション(革新)があった。
ICTを、CT(通信技術)とIT(情報技術)に分けて考えると、CT面では、市場競争と技術進歩によって通信機器や通信サービスの価格・料金が下落する一方、通信速度が加速的に向上した。IT面では、低価格のPC(パソコン)・周辺機器やブラウザー(閲覧ソフトウェア)の普及拡大、Windows 95の登場と全世界的な普及、ヤフー・アマゾン・イーベイなどのネット企業の誕生と急成長があった。インターネットは、こうしたCTとITにおけるイノベーションを背景として、米国で最初に普及し、次いでそれが伝染するかのように欧州やアジア、さらには全世界へと急速に普及拡大した。
こうして今や、携帯電話やPCによるインターネット接続、とりわけPCによるインターネット常時接続は日常的な出来事となった。いつでも、どこでも、誰でもアクセスできるようになったインターネットは、自動車以上に社会に浸透し、ビジネスやコミュニケーションの方法を大きく変えた。
インターネットの普及拡大と共に、ネット上での商品やサービスの購入も増大した。音楽データの有料ダウンロードに代表されるように、多くの人がネット・ショッピングを利用している。そして2008年後半のリーマン・ショック以降、消費や小売販売が停滞する中で、ネットワークを介しての電子商取引が比較的順調に伸びており、1990年代後半の熱狂以来、再び注目を集めている。
米国では、2000年3月以降、商務省国勢調査局が公式電子商取引統計を公表するようになった。公式統計によると、小売販売総額に占める電子商取引の割合は上昇傾向にあり、1999年第4四半期の0.6%から2010年第2四半期の4.1%へと上昇した(http://www.census.gov/retail/#ecommerce)。年間ベースでは、小売売上総額4兆ドルに対し、電子商取引は0.2兆ドルに近い。
4%程度で0.2兆ドル(17兆円)と聞けば、電子商取引はまだ主流でないと思う人がいるかもしれない。しかし米国商務省統計における電子商取引は小売業に限定したものであり、旅行サービス、金融仲介、チケット販売、不動産取引などは含まれていない。また、インターネット上で収集した情報をもとに格安量販店で家電製品を購入した場合にも、米国統計では電子商取引に含まれない。このように定義次第では、電子商取引の規模は相当大きくなる可能性がある。
電子商取引とは、インターネットを中心とするコンピュータ-・ネットワーク上での商取引をいい、取引相手の区分から、企業・消費者間(B2C)、異なる企業間(B2B)、企業・被用者間(B2E)、異なる消費者間(C2C)、政府・企業間(G2B)、政府・消費者間(G2C)などに区分される。米国の電子商取引統計は、B2Cの一部をカバーしたものである。
これに対し、経済産業省が1998年度から行っている日本の電子商取引市場規模調査では、B2Cだけでなく、B2Bもカバーされている。また、インターネット技術を使っての電子商取引を狭義とし、これにインターネット以外のVAN(付加価値通信網)・専用線等を使っての電子商取引を加えたものを広義として公表している。2010年7月公表の2009年データによると、広義B2Bが205兆円、狭義B2Bが131兆円、B2Cが6.7兆円とされている(http://www.meti.go.jp/policy/it_policy/statistics/outlook/ie_outlook.htm)。
中国でも電子商取引が盛んであり、2009年のB2B市場規模は3.28兆元(40兆円強)、B2CとC2Cの市場規模は2600億元(3兆円強)であり、2010年にはこれらの合計が4.28兆元(50兆円強)になると予測されている(中国電子商務研究中心編「2010年(上)中国電子商務市場数据監測報告」2010年8月5日、http://b2b.toocle.com/zt/down/2010jc.pdf)。電子商取引の成長によって、B2Bのアリババ(Alibaba)、B2C・C2Cの淘宝(Taobao)、旅行サービスの携程(Ctrip)、ゲーム・メッセンジャー(QQサービス)の騰訊(Tencent)などの有力ネット企業が誕生している。
インターネットや電子商取引の普及によって、事務所や家や外出先で端末を操作しながら商品やサービスが購入できるようになり、ビジネスや生活の利便性が大きく向上した。
ネット上での電子商取引は、経済学的には取引費用を大幅に削減することで、物理店舗での商取引を浸食したかのように見える。しかし、ネット上のビジネスしか行っていないケースは希であり、一般には電子商取引(クリック)と物理店舗(モルタル)を融合した「クリック&モルタル」ビジネスが主流である。消費者においても、ネット・ショッピングをする一方で、毎日のように物理店舗での購入を行っている。
ところで、インターネットや電子商取引の普及拡大は利便性だけでなく、リスク(危険)も増大させている。ネット・オークションにおける詐欺行為だけでなく、掲示板を使っての個人や企業の誹謗中傷、知的財産の違法コピーやダウンロード、無垢な利用者から個人情報を巧みに引き出すことで大きな被害を及ぼすフィッシング詐欺、ネットワークに不正侵入してデータを改ざんするクラッキングなど、その犯罪手法の広さと被害の大きさは振り込め詐欺の比ではない。なのに、いったいわれわれは、そして政府はどれだけ安心・安全のための対策を講じているだろうか。
数千円のアンチウイルスやファイアウォール(ネットワーク防御用)のソフトウェアの導入を惜しんだり、これらの定期的なアップデートを怠ったり、さらには安易に危険なウェブサイトを閲覧したり、見知らぬソフトウェアを安直にインストールしていないだろうか。また、ネット・ショッピングを行う場合、相手の信用情報を十分に得た上で取引を行っているだろうか。
いつでも、どこでも、誰でもネットワークにアクセスできるユビキタス社会は、決して理想的な夢の世界ではない。1人の犯罪者による悪質な行為(例えばウイルス作成やフィッシング詐欺)が、基礎知識を持たない1利用者のワン・クリックを通じて、世界中に巨額の被害を発生させる可能性をもった社会、それがユビキタス社会の現実である。また、自分の知らないところで自分の個人情報が扱われ、自分のことが良くも悪くも勝手に語られる社会、それがユビキタス社会である。
ネットワークの先進的・先端的利用者といえば、多くの人は銀行・証券・保険といった金融機関や技術系企業を連想するかもしれないが、多数の犯罪者集団も含まれることをわれわれは忘れるべきでない。犯罪者集団の餌食となることを避けるには、われわれは最低限のネットワーク基礎知識をもって防衛する必要がある。また、ネットワーク利用の共通規則の整備と共に、犯罪行為者を適切に処罰する法的システムを確立する必要がある。いずれにせよ、日本を含む世界の現状では、こうしたリスクへの対応が不十分である。
さらに、毎日のように、宛先・氏名も送信者の氏名も書かずに送られてくる多数のメールを目の当たりにすると、リスクへの無関心・無防備と共に、モラルやマナーの低下も気になる。宛先人氏名も送信者の氏名も書かれていない郵便物が届けば、多くの人は不審を抱くに違いない。しかしメールならば氏名やニックネームを明記しなくても無礼が許されるとでも思っているのか。なりすましの可能性を考えたことがないのか。
リスクと不道徳が蔓延するユビキタス社会は、実にストレス多き社会である。われわれが待ち望むユビキタス社会はどうあるべきか、多くの人に熟考していただきたいテーマである。