Chuo Online

  • トップ
  • オピニオン
  • 研究
  • 教育
  • 人‐かお
  • RSS
  • ENGLISH

トップ>オピニオン>臓器移植と解剖

オピニオン一覧

見市 雅俊

見市 雅俊 【略歴

臓器移植と解剖

見市 雅俊/中央大学文学部教授 中央大学図書館長
専門分野 イギリス史

改正臓器移植法

 今年7月の「改正臓器移植法」により、たとえ本人の臓器提供についての書面による明確な意思表示がなくても、家族の同意さえあれば臓器の提供が可能になった。この原稿を書いている9月初旬の段階では、その8例目が報じられている。

 まだ8例目というよりも、もうそこまで実行されたのか、というのが私の率直な感想である。今後、さらにその件数は増大し、いつかは、こうして新聞紙面にそれなりのスペースを割いて報じられることもなくなるかもしれない。とはいえ、医療技術の進歩によって救済される領域が拡大することをよしとしながらも、このような急展開に対してなんらかの違和感をおぼえる。それは、たぶん私だけのことではないはずだ。

 西洋医学の歴史では、かつて解剖をめぐって同じように悩ましい問題がおきていた。臓器移植の問題を考えるうえで、なにかの参考になるかもしれない。

解体新書

 解剖が近代医学の発展に大きく寄与したことはよく知られている。日本でも、明和8(西暦1771)年、杉田玄白や前野良沢らが、千住にあった刑死場、小塚原において遺体の「腑分け」、すなわち解剖を「見学」して(実際に執刀したのは「老屠」と呼ばれる人物だった)、そこでドイツ人医学者、クルムスの解剖書のオランダ語訳、『ターヘル・アナトミア』におさめられた身体図が正確なものであることを確認し、その後、苦心惨憺して同書を翻訳、『解体新書』として安永3(1774)年に公刊した。誰もが知る日本の近代医学の夜明けである。

 では、その際に解剖されたのは誰だったのだろうか。私たちは、杉田や前野のような医学史上の偉人たちと同じくらいに、身体を提供した人物に対しても関心を向けなければならない。杉田玄白の回想記、『蘭学事始』(文化12(1815)年)にはこうある。「その日の刑屍は、五十歳ばかりの老婦にて、大罪を犯せし者のよし。もと京都生まれにて、あだ名を青茶婆と呼ばれしものとぞ。」

西洋解剖史

 西洋において、医学研究の目的で遺体にメスが入るようになるのは、ルネサンス以降のことであり、かのレオナルド=ダ=ヴィンチもひそかに解剖をおこなったことが知られている。解剖の件数が飛躍的に増加するのは、18世紀以降のことである。この時代の西ヨーロッパは、ごく最近まで人びとの生活を脅かしていたペストの流行と飢饉からようやく解放され、また「商業革命」と呼ばれる経済の著しい発展もあって、一般の人びとも「豊かさ」を本当の意味で実感できるようになった。そのように生活に「ゆとり」が出てきたときに、考えようによっては逆説的なのだが、医療行為への需要も高まる。

 つぎに、今日では、公的な資格制度によって医師の免許があたえられるわけだが、それ以前は、医学校を卒業した正規の医師と並んで、いわゆる「民間療法」の医療従事者も堂々と開業していた。ところが、時代が進むにつれて後者は「にせ医者」として淘汰され、医師になるためには、きちんとした医学教育をうけことが必須条件となってゆく。そして、医療行為への需要の高まり。医学校と医学生の数が急増する。必然的に解剖体に対する需要もたかまる。

 では、その解剖体をどのように確保したのだろうか。18世紀のイギリスについてみると、解剖体として正式に認められていたのは、さきの青茶婆のような刑死体であった。しかも、死刑囚のなかでも、とくに極悪人とされたものについてのみ追加的懲罰として解剖に付することが許されていた。

墓荒らし

 かくして、解剖体の絶対不足という状況になってしまった。1828年のイギリス議会解剖問題特別委員会報告書には、医学校がどのようにして解剖体を確保したのかの生々しい証言が収録されている。高名な医学者、グランヴィル・パティソンの証言からいくつかを抜粋してみよう。

私は……アレン・バーンズの晩年の最後の四年間(1809-13年)、その助手をつとめました。当時は、墓荒らしで遺体を入手しておりました。教師に直接ついている学生は、自分たちでいつも遺体を入手したのです。
それぞれの講師には、私兵と呼ばれるものがおりました。ふつうは8人の学生からなり、それが遺体の発掘に出かけたのです。
じつにいやなものでしたし、命がけでした。発掘作業の途中で発砲されることもしばしばありました。
処刑場から解剖教室に遺体を運ぶさいには、かならず群集がついてきて、運んでいる人間に石を投げました。

 最後の証言は、たとえ極悪人であろうとも解剖をおこなうことに対しては、処刑そのものには喝采をあげていたはずの同じ見物人たちでさえ、強く反発していたことがうかがえよう。

 このように医学校側がみずから墓荒らしを決行することもあったようだが、同じ報告書によると、ロンドンには数十人規模の墓荒らし人がおり、掘り出した遺体を医学校に売っていた。しかし、パティソンの証言にもあるように、遺族側は、地下の遺体が腐敗するまで見張りをおくなどの対抗措置をとった。また、首尾よく入手できても、すでに遺体の腐敗が進行していて役に立たないこともしばしばあった。

解剖学殺人事件

 この解剖体確保の苦労話は、行き着くところまでゆく。高値で売却できる「新鮮」な遺体を入手するための殺人事件がおきたのである。イギリスでは、二つの解剖学殺人事件が知られている。

 英語に、“burke”(バーク)という動詞がある。「窒息させて殺す」という意味で、実在の人物が語源である。このバークなる人物は、1827年11月から1828年10月にかけてエディンバラにおいて事件が発覚するまでに16人を殺害し、遺体を医学校に売却した。ついで、ロンドンにおいてビショップとウィリアムズという二人組みが1831年10月から11月にかけて少なくとも2人を殺害し、同じように遺体を売りつけたのであった。

 医学校は世論のごうごうたる非難を浴びた。ある新聞はこう皮肉る。解剖学者ともあろうものが、「バークされて持ち込まれた遺体が殺されたものなのか、それとも寿命が尽きたものなのか」の見分けがつかなかったようだ。いや、まさか殺害されたものと知りながら遺体を購入したのでは……。

 1832年6月、議会で解剖法が成立し、死刑囚に対する追加懲罰としての解剖制度は廃止され、本人が生前、解剖されることを明確に拒否していた場合、もしくは家族が解剖を拒否した場合をのぞいて、遺体を解剖に付することが合法化されたのであった。

 法案に反対する人びとは、これは結局のところ、引き取り手のない貧しい人びとの遺体を解剖し、医療技術を向上させ、そうして富裕者の寿命を伸ばすものだと批判した。事実、20世紀のある段階までイギリスでは、「貧民を収容する施設」が解剖体のほとんどの場合の供給源となった。自発的な「献体」が解剖の中心になるのは、第二次世界大戦以降のことである。

青茶婆と杉田玄白

 より根源的な議論も展開された。解剖法案賛成派の『タイムズ』は、1832年12月6日、前日のビショップとウィリアムズの処刑の模様を克明に報じたが(もちろん、二人の遺体は解剖された)、その同日号で、高名な外科医、ヘンリー・アールによる手術の模様を伝える病院関係者の投書を掲載した。顔面の悪性の腫瘍を取り除く手術だった。投書者はいう。

このような時期であればこそ、反解剖派の人びとにこの手術のことをよく理解していただきたい。……アール氏は頚動脈を縛って出血が命取りにならないようにする方法をどのようにして考えついたのであろうか。解剖のおかげなのだ。

 他方、悲惨な児童労働の実態を暴いたことでも知られるマイケル・サドラーは、議会において解剖法案をつぎのように批判した。

手足の骨折を治療するなどの単純な外科手術は、高度の科学的知識など必要とはしない。下層階級の人びとにとって、もっとも必要なのは、この種の手術なのである。
……たとえ解剖学の進歩によって人間の寿命が数時間ほど長くなったとしても、そのために人間の自然の感情を踏みにじってもよいものだろうか。

 医療技術のレベルは違っていても、今日の臓器移植をめぐる問題と本質は同じである。そして賛否両論それぞれに説得力がある点も変わらないようにおもう。私自身は、臓器の提供については本人の明確な意思表示がある場合を除いては慎重にという、ごく常識的な意見しかもたない。ただ、医学の発展は、杉田玄白のような「偉人」だけではなく、影ながら彼らを支えた青茶婆のような存在があってこそのものだ、ということを忘れないようにしたい。

見市 雅俊(みいち・まさとし)/中央大学文学部教授 中央大学図書館長
専門分野 イギリス史
【略歴】
1946年東京都生まれ。1969年東京教育大学史学科西洋史専攻卒業。1973年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。 1974年一橋大学大学院社会学研究科博士課程中退。1974年京都大学人文科学研究所助手、1981年和歌山大学経済学部講師、 1985年中央大学文学部助教授、1989年より現職。2009年4月より中央大学図書館長。 専門分野 西洋史(イギリス史・世界病気史)
【著作】
単著
『コレラの世界史』、晶文社、1994年
『ロンドンー炎が生んだ世界都市』、講談社、1994年
共編著
『青い恐怖・白い街』、平凡社、1990年
『記憶のかたち』、柏書房、1999年
『疾病・開発・帝国医療』、東京大学出版会、2001年
共著
『ヨーロッパー1930年代』、岩波書店、1980年
『路地裏の大英帝国』、平凡社、1982年
訳書
『ダウニング街日記』、平凡社、1990、1991年
『清潔になる私』、同文舘、1994年
『帝国』、岩波書店、2003年
『啓蒙主義』、岩波書店、2004