塚本 三夫 【略歴】
塚本 三夫/中央大学法学部教授
専門分野 コミュニケーション論、メディア論、政治情報学
65 年目の「暑い夏」が巡ってきた。私の専門講義の一つである「コミュニケーション論」の最終授業が終わった後、質問にきた二人の女子学生がなんと偶然にも広島と長崎の出身だと知ったこともあり、私はいつにもまして、65 年前の夏とその後のことについて思いを巡らせるような心境になっている。なぜヒロシマ、ナガサキが起こったのか、私たちは果たしてヒロシマ、ナガサキを「悲劇」と受け止める以上の理解をすることができてきたのだろうか。
そうした思いは沖縄についてもいえる。いわゆる普天間基地移転を巡る問題にしても、結局はやっぱり沖縄に落ち着きそうな気配が濃厚になってきている。「なぜ沖縄なのか」、「沖縄にこれ以上基地を押しつけていいのか」、そもそもなぜ「基地縮小」に向けての本格的な議論をアメリカとできないのか、という思いをぬぐい去ることができない。沖縄の本土復帰記念日の翌日、5月16日の「朝日新聞」に載った小さい記事がある。それは、戦後沖縄における「祖国復帰」運動の中心メンバーの一人として活動してきた石川元平さんという人が「孫の世代になっても沖縄は平和を取り戻せなかった。復帰したのは間違いだったんじゃないか」と語っているインタビュー記事である。石川さんをしてそうまでいわせる沖縄の実態を私たちは、どれだけ知っているだろうか、理解しているだろうか、私には少なからずショックだった。石川さんはまた、復帰後も米軍基地のほとんどが残り今も変わっていないことについて、「米国の占領から、日米両国の植民地に変わっただけではないか」ともいう。そして、「これだけの基地を押しつけて、ぬくぬくと生きているヤマト(本土)の人間に、その思いを知ってほしい」とも語っている。
私たちは、沖縄について何を理解してきたのだろう。確かに、日本における米軍基地の70パーセント以上が沖縄に集中している現実については、知っている人は多いだろう。ただ、そのことについて、沖縄は、あるいは沖縄の人は気の毒だという「同情」の思いを 持つ人は少なくないかもしれないが、いわゆる「沖縄の痛み」を自らの痛みとして「共感」 できる人はそれほど多くはないのではあるまいか。自らを省みて、私はそう思う。そして、「同情」と「共感」とは決して同じではないし、むしろ質的に違うのだと思える。簡単に言えば、「同情」はみずからを対象とは違った立場において、さらにいえば自らを一段高みにおいてものごとを見つめる姿勢のことであり、そうすることで何かそのことについて理解しているかのように振る舞うことである。それに対して、「共感」とは、まさにその対象、あるいは事柄について、問題の所在を深く理解し、それらが抱える問題や悩みをいわばわがことのように感得することであると言えるのではないだろうか。
そもそも、私たちが知っていると思っている沖縄とは果たしてどのような沖縄なのか。例えば、沖縄の人たちは気の毒だとは思うとしても、沖縄は基地経済に依存しているはずだから、基地が完全になくなったら困るのではないかと考えている人が存外少なくないような気がする。おそらく、多くの人のイメージでは沖縄経済において基地収入が占める大きさは、実態とは大きくかけ離れているような気がする。ところが実際には、今日の沖縄経済は圧倒的に観光収入によって占められており、基地収入はなんと5パーセント前後にしか過ぎないのだ。純経済的あるいは財政的にいえば、沖縄は基地収入がなくても成り立つということである。
あるいはまた、沖縄には気の毒だが、日米同盟の堅持、日本の平和と安全という視点から見て、基地移転先の問題でごたごたすることでアメリカ国民の感情を害するのではないか、アメリカのご機嫌を損なうことは日本の国益を害することでもあるから、我慢してもらうのもやむを得ないという意見もある。ところが、当のアメリカのメディアでは普天間問題に関する報道はきわめて少なく、まして一般の国民にはそれが問題になっていることさえあまり知られていない。このように、実態や問題の所在について、あまり正確な認識もないままの思い込みによる「同情」論からは決して沖縄に対する「共感」は生まれないように思う。
さらにいえば、もし日本の国益上基地は必要であるというのなら、なぜ沖縄なのかが改めて問われなければならない。また、もし沖縄を「気の毒」に思うなら、国益の観点から他府県がそれを引き受けるべきではないか。そして、もしそれもいやだというならば、やはり基地そのものを撤去すべきだという論理になるのが道理といえないだろうか。事柄を正確に知ることなく、またみずからをいわば安全地帯においたままの「同情」論は、決して「共感」にたどり着くことはないし、真に理解することにもならないのではないか。ヒロシマ、ナガサキにしても、単に犠牲者が気の毒だという同情にとどまるなら、なぜヒロシマ、ナガサキがあったのかを真に理解することにはならないだろう。