トップ>オピニオン>プリウス(トヨタ自動車)のブレーキ不具合は「欠陥」か?
平野 晋 【略歴】
平野 晋/中央大学総合政策学部教授・米国ニューヨーク州弁護士
専門分野 民事法学、サイバー法学
トヨタ自動車が「プリウス」車を製品回収(リコール)するのは、「欠陥(defect)」が理由ではない――念のためにリコールするのだという。筆者は事の真相を知る訳ではないが、報道を見る限り、ハイブリッド車のブレーキが運転者に違和感を与えるに過ぎないと、トヨタは当初説明していた。自動車の不調のことを、昔から業界では「不具合(problem)」と呼んできた。不具合の程度は様々なだけではなく、その発生数も多様である。だから不具合が必ずしも「欠陥」ではないとされる。しかし、それならば、自動車の「不具合」の中でも、どの部分を「欠陥」と扱うべきなのか?
アメリカでもプリウスのブレーキ問題は、「ニッツァ(NHTSA)」と呼ばれる「国家道路交通安全局」に苦情が殺到するなどして、非常に関心が高い。そのアメリカで最近マスコミが取り沙汰し始めている論点は、PL(製造物責任)訴訟等の増加である。リコールは、メーカー自身が不具合を広く公に「自白」する行為である。だからその後に訴訟が増えるのは、筆者の法務経験からいっても「常識」でさえある。そしてもし、危険性を知りながらリコールを故意に遅らせたと認定されれば、莫大な額に上る制裁的な賠償金――「懲罰的損害賠償」という――も課されてしまう。トヨタ自動車の試練は、今回のリコールに掛かる膨大な費用や、信用の失墜(リピュテイション・リスク)だけに止まらない――リコールという大地震の後に、怒涛のように押し寄せる訴訟の津波(tsunami)に曝(さら)されるのである。
世界で最も先進的なアメリカのPL法では、製品が「誤作動(マルファンクション)」した場合には欠陥がほぼ推認されるといわれている。誤作動とは、製品の明らかな意図に反して作動したことをいう。例えば典型的には、誤使用(ミスユース)せずに使っていた新品のテレビから突然発火し、火傷(やけど)を負わせてしまった場合が誤作動といえよう。なぜならばテレビは、そもそも発火せずに画像・音声を発することが明らかに意図された製品だからである。
それならば、ブレーキの利(き)きの違和感は「誤作動」であろうか? ……まだ多くの事実情報が足りないから、軽々に断定すべきではない。しかし、トヨタが訴訟の防禦で苦戦を強いられることは容易に予想できる。なぜなら自動車に不可欠な機能(=意図された機能)は、「走る、曲がる、止まる」の三つである。これら三機能は、自動車という製品を定義付ける程に基本的であるばかりか、安全性にも直結する。そこでもし「止まる」機能に多くが疑念を抱くと認定されれば、「誤作動=欠陥」であったと推認される度合いが大きくなろう。
ところで報道によれば、ブレーキの違和感の原因は、新技術を採用したことにあるようだ。スリップを抑制できる制動装置(アンチロック・ブレーキング・システム:ABS)に対し、ブレーキの制動力を電気に換えて蓄電できる「回生ブレーキ」と、従来型の「油圧ブレーキ」をハイブリッドに組み合わせたために、違和感が生じたという。すなわち新規なハイブリッド製品に対し、運転者の〈従来型〉な感覚が追いついていない問題が示唆されている。
機械製品の世界では、人が慣れ親しんでいない新技術ほどリスクが高い(≒信頼性が低い)というのは常識である。例えば、宇宙飛行士の野口壮一さんを、宇宙ステーションに運んで行ったロシア製の旧式ロケット「ソユーズ」を思い起こして欲しい。アポロ計画(1960~‘70年代)と同世代のソユーズを、今でも使って平気なのかと多くの読者は心配したかもしれない。しかし航空宇宙の機械分野では、例えばかつて華々しくデビューした、世界初の実用ジェット旅客機「コメット」で事故が多発している――金属疲労が原因だったとは直ぐには判らなかったのである。近年でも、コンピュータ自動制御で最先端を誇った旅客機で、パイロットの操縦感覚が馴染めずに事故が多発した例が有名である。従って、まさかタイルが剥げ落ちて翼に穴が開くなどとは予測できなかった新技術満載なスペース・シャトルよりも、むしろ灯油で飛べる(!?)古びたソユーズの方が、ある意味、遥かに〈安心・安全〉なのである。
もしプリウスが、「回生ブレーキ」やABSのような新技術・高度技術を採用していなければ、そもそもブレーキの違和感問題は生じなかったであろう。しかし、〈従来型〉なガソリン・エンジン車のように油圧ブレーキだけを使っていれば、石油燃料の枯渇化は進んでしまう――延いては地球環境も汚染され続け、挙句の果てに濡れた路面での急ブレーキの利きは悪いままになる。だから敢えてリスクを冒してまでも、新・高度技術を市場に投入した挑戦と勇気は萎縮させるべきではない。
たまたま筆者は、ロボットの法制上の安全性に関する経産省の様々な研究会に参加して、介護や家事など〈家庭で役立つロボット(生活支援ロボット)〉の実用化に向けたお手伝いをしている。そこでエンジニア達が最も心配するのは、ロボットという〈新〉技術に対して「萎縮効果」が生じるおそれである。短絡的で近視眼的な批判や萎縮効果が生まれれば、結局のところ国民の福祉向上を妨げるからである。
そもそも製品に〈完全な〉安全性はありえない。例えばナイフという製品は、切れるからこそ効用がある。切れる「効用」と切れるがゆえの「危険性」は、実は切り離せない(!?)のである。ナイフよりも高度な製品である自動車の場合は更に複雑で、安全性を向上させれば使いにくくなる。地球環境も悪化して、価格も上昇してしまう。消費者は安全性を重視すると言いながらも、実際には高額過ぎたり使いにくい自動車は買わない。真に消費者が〈期待〉するのは、実は安全性の向上だけではない。だから欠陥の判断においても原則として、「安全性」「価格」「便利さ・効用」等の相反(トレードオフ)する諸要素を、〈総合政策〉的に衡量する必要がある――バランスのとれた、〈最適な〉安全性を目指さねばならないのである。