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オピニオン一覧

丹保 憲仁

丹保 憲仁 【略歴

日本は明治維新後第3回目の革新サイクルに入ろうとしている。

丹保 憲仁/中央大学研究開発機構教授(専任研究員)
北海道開拓記念館長 北海道大学・放送大学名誉教授
専門分野 環境工学

日本近代化「坂の上の雲」サイクル

 大日本帝国が世界屈指の大海軍国となり、陸軍でも巨大国に仲間入りし拡大を続けた末の、大東亜戦争の最大膨張線は短期間ながら、アリューシャン・マーシャル・ソロモン・ビルマ・中国中部・沿海部・旧満州にまで至った。敗戦後に廃墟から復興膨張した日本経済は、巨大な産業技術国家「ジャパン・アズ・NO1」と言われつつ世界の隅々にまで優れた製品を送り出し、経済戦争の覇を競い、1980年代の後半から1990年代にかけて、日本の地価総計が米国のそれよりも大きいなどとびっくりする話を平気で新聞が書いたりする経済大国になった。最大膨張期は、あまり長い時間ではなかったが、国のGDPも個人当たりのGDPも確然として世界第2位を誇った。両時期ともに先立つ30年以上の国民の営々とした努力の積み重ねで社会体制と産業構造を調整し蓄積を増してきた結果の大膨張である。戦前は軍事強勢国家としての膨張であり、戦後は平和国家を標榜しつつ、軽武装で経済大国を目指しての膨張である。これらはともにエネルギー・資源・先端技術・統治システムの不十分などで陰をきたした。

戦争を知らない世代の描いたサイクル

 私は軍事教練を受けた戦中の旧制中学の最後の学年である。昭和20年(1945年)中学一年生であった私の祖父は、屯田兵であり日清・日露の両戦争に出ている。話をあまり聞いた記憶はないが、日清・日露戦争は当時すでにそれぞれ50年・40年の前の話である。「坂の上の雲」の時代は、中学生であった私にとってすでに話に聞く歴史であった。現在昭和20年(1945年)に戦争に負けてから既に、65年がたっている。今の子供が太平洋戦争・第二次世界大戦を知らないのは不思議ではない。大学紛争などで戦後の日本がいろいろな意味で曲線を描きだしたのが1960年代の後半から1970年代の初期である。戦後25年をへている。「坂の上の雲」の主人公たちは、価値観が大転換した明治維新前後生まれの25-30年目の若者が日本近代化の核となって戦った。大学紛争で暴れた学生は、この頃殆ど定年に達しているが、敗戦前後の価値観の大転換期に生まれ、仕切られる掟が不在の中で、大きな同世代の数を頼りに時代を闊歩し、「坂の上の雲」世代の次のサイクルを担ぐ日本近代化の中核的勢力として挙動した。

 大正生まれの先輩は、太平洋戦争では大変な苦労と犠牲を出し、アジアに向き合ってきた挙句の果てに、日本近代化の第一サイクル「坂の上の雲」の幕引きをした世代であろう。昭和一桁の私の年代は、今上天皇陛下と同年代で、敗戦は経験したが、戦闘の現場を殆ど知らない。第二サイクルの日本近代化を戦後経済大国化として担ってきたリーダー達が同世代に多くいるが、数からいえば実務を担ってきたのは敗戦前後の境際に生まれた昭和二桁以後の「ポスト敗戦世代」である。敗戦によって価値観が完全と言ってよいほど揺らぎ、公教育を担う人々が殆ど伝えるべき秩序を失った中で、私が肥大化し、私の利益が組織化されて国の経済発展が個人の益となるであろうと国民多数が認めて、被爆国でありながら米国の核の傘の下での軽武装で、経済の発展に全力を傾倒してきた。

 「坂の上の雲」世代は直前まで刀を腰にさし丁髷を結っていた魂を受け継いで、西欧近代を取り入れた。「ポスト敗戦」世代はすべての価値観が崩壊したように見えても、戦中までの人の振る舞いが基礎にあって、田舎がまだあり、家族、親子の絆はまだ固く、集団で挙動することが無理なくできた。価値観を疑った学生たちの異議申し立ても、今になって見れば「そう思われたくない多くの人がいるであろうが」集団形態の紛争であったように思う。親を看取らねばならぬと自然に思うけれども、子供に看取ってもらうことをあまり期待しない世代であろう。

第三のサイクル「後近代化」が始まっている

 この頃に至って、第二サイクルの近代化の進展が難しくなってきたことに人々が気付き始めた。いくつかの兆候を挙げれば、「200年以上にわたり近代社会を駆動発展させてきた石炭・石油などの化石エネルギーさらに原子力エネルギー源のウラン235も100年とはもたず、水力・太陽輻射・風力・バイオマスなどによる再生可能なエネルギーを開発しても必要量の20-30%くらいがせいぜいであるといったエネルギー問題の緊迫化」「食糧供給が水文大循環型の水資源だけでは増加する地球人口と高級化する食の質への対応が難しくなり、1978年のマルサスの人口論の説く罠(人口増加はいずれは食料の供給可能量を上回るであろう)にはまりつつある。しかも近代の緑の革命をもたらした石油化学の成果としての化学肥料と高度農業機械の駆使が石油枯渇で次第に難しくなると共に、それ以上に、すでに近代大規模農業は循環型の水資源では足りずに、非循環型の深層地下水(化石水など)のかなりの割合を使いきっており、水でさえも持続可能性を失ってしまった」といったことで成長型の近代世界は終わりつつある。

 2050年にはインドとフィリッピンを除くアジアの国全てが日本と同じように少子・高齢化、総人口の減少に突入するという。近代の次の時代への用意を、世界に先駆けて2005年を境に人口が大きく減少することを予想される日本が、世界のリーダーとして、最先進国として、新しい地球人類の生き方を創造することを求められる位置にいると思う。人口を上手にかなり大幅に減らす、マス生産・財貨の大量獲得だけに価値基準をおく近代世界をどう卒業するか、近代の物質的充実をひたすら求めたことの過剰拡大をどの様に止揚して、新しい「ひとの生き方」の価値をどう創造するかが求められている。アダムスミス以来分業が近代的活動の価値を高めてきた。その基盤をなした定型的学部学科型の高等教育は、これからの学生に何をもたらしうるのかを考えることも必要に思う。戦争に負けてすべてに近いものを失ったと思った時に戦後の繁栄がはじまった。日本の失われた10年、さらにはサブプライムローン問題はもっと多くのものを捨てよということを意味しているのではなかろうか。粗放ではいけないが、規定されない思考と行動回路の確保がこれからの若者、教師に必要ではないのであろうか。

転進作戦が一番難しい

 江戸時代の200余年で本州・四国・九州の三つの島で日本の人口は2000万人から3000万人に増えた。新田開発とバイオマス利用でグリーンに(太陽エネルギーだけで)生きる成熟文明の最高到達点の人口である。北海道が内地に加わり、いささかの技術的進歩があったとしても、江戸の成熟度から類推して、この日本列島弧にグリーン文明だけで自立的に生存できる人口は4000万人程度であろうかと愚考する。1900年がその人口に日本が到達した時であり、日清・日露戦争を経て日本は大陸に進出していった。「坂の上の雲」の時代である。

 その結果の大東亜共栄圏の迷夢から覚めた敗戦の1945年、大陸と東南アジア全域から復員・帰国した日本人一億人近くがすべて国内に住むこととなった。世界最大最長の閉鎖的グリーン文明である江戸期の人口を基に考えれば、6000万人過剰である。ポスト敗戦世代が第二サイクルの大貿易戦争を戦い、世界最大の東京・太平洋沿岸メガロポリスを拠点として日本の最大人口である1億2500万人を世界第2位のGDPで昭和末期から平成にかけて食べさせた。自立人口としては8500万人過剰である。内需だけで生きられないこの国の性(さが)である。エネルギーの96%、食料の60%(カロリーベース)、金属材料など殆どの原料を輸入に頼り加工貿易で生きてきた。GDPがこの時代の近代文明の指標である。エネルギー、食糧、原料に地球規模の限界が見えてき、発展途上国が日本の戦後に近い近代化路線上での展開を見せているが、世界の近代化はあらゆる国々で22世紀には飽和に近付き価値を失いだすであろう。

 2100年には日本の人口は7000万人を割るのではないかという大減少が予想されている。戦もなく、大災害も、大疫病もないのにである。7000万人でも満州事変を起こして、過剰人口処理のために中国侵略を始めた時の人口と同じである。新しい価値観の創生と輸出交換できる新技術・新社会システム・新文化を自らの手で作り続けない限り、全滅を玉砕と称し、敗退を転身と称した旧日本軍の大本営発表と同じことになる。本当に新しい文明の創生者となり、22世紀の世界人口大過剰時代の好ましい人間活動を導く超先進国になるべく努力をしたいものである。日本国の生きていくための大目標である。

丹保 憲仁(たんぼ・のりひと)/中央大学研究開発機構教授(専任研究員)
北海道開拓記念館長 北海道大学・放送大学名誉教授
専門分野 環境工学
1933年 北海道生まれ
1955年 北海道大学工学部土木工学科卒業
1957年 北海道大学大学院工学研究科修士修了
1965年 工学博士(北海道大学)
1969年 北海道大学教授
1993年 北海道大学工学部長
1995年~2001年 北海道大学総長
2001年~2007年 放送大学長
2007年~2010年3月 中央大学研究開発機構教授
2009年 瑞宝大綬章
この間、学術会議会員(2期)、土木学会会長、国際水協会会長など歴任