宇佐美 毅 【略歴】
宇佐美 毅/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学
村上春樹『1Q84』が発売1週間で96万部(2冊合計)、現在までの累計で220万部以上を売り上げた。しかし、「文学の不振」「若者の活字離れ」が言われている中で、『1Q84』はなぜこれほどの売れ行きを見せたのか。
その理由として、「発売前の情報隠し」がある。普通の本なら内容を簡単に紹介し、「泣けるラブストーリー」とか「驚愕のミステリー」とかのキャッチコピーを付けて、読者の購買意欲をそそるように宣伝する。しかし、作者も出版社も『1Q84』の内容を発売まで隠し、しかも村上春樹7年ぶりの長編小説という理由もあって、逆に「どんな作品だろう?」という読者の興味をかきたてたのである。
ただし、情報を隠せばどんな本でも売れるというわけではなく、それは村上春樹だから成功した販売戦略なのである。重要なことは、何が村上春樹をそういう地位(作品の内容を知らせなくても本が売れる作家)に押し上げたのか、である。
もちろん、村上春樹の30年に及ぶ作家活動が読者に評価され、その間に固定的なファンをつかんできたことも理由にある。しかし、固定的ファンだけが本を買うなら、『1Q84』がこれまでの作品以上に驚異的な売れ行きを示した理由にはならない。
その点を考えると、前作からの数年間のうちに村上春樹の作家的地位が急速に高まったことがあげられる。それも一部の研究者による評価ではなく、いわゆる「世間的」な関心が高まったのであり、その原因になったのは「海外における評価」だったのである。
2006年にチェコのフランツ・カフカ賞を受賞し、ノーベル文学賞を受賞するのではないかという噂も広がった。さらに『1Q84』発刊直前の2009年2月にはイスラエルのエルサレム賞を受賞した。このように海外で村上春樹を評価する動向が、日本における村上春樹評価をさらに高めるという「高評価の逆輸入現象」が起こったと考えるべきである。
パレスチナ問題もあって、村上春樹にエルサレム賞を辞退するよう促す意見も少なくなかった。しかし、村上春樹は受賞した上で「英語で」スピーチをおこない、「壁と卵」の比喩を使って間接的にイスラエルの姿勢を批判し、「私は卵の側に立つ」という立場を明確に宣言した。このニュース映像は、無料動画サイトにもすぐに登録され、まるでテレビに出ない有名ミュージシャンの画像のように繰り返し閲覧されたのである。つまり、村上春樹はエルサレム賞のような議論の分かれる賞を受賞することでかえって世間的な有名人となり、自分の知名度と名声を一気に高めた。こうして「海外で評価される日本人」という村上春樹の名声は、ここ数年のうちに不動のものとして確立したのである。
「海外で評価される日本人」という位置づけは、日本人にとって特別な意味をもつ。北野武(ビートたけし)監督の映画がこれほど海外で評価されていなかったら、はたして多くの日本人は北野映画を認めていただろうか。中田英寿が引退まで日本のJリーグでプレーしていたら、はたして日本人は今ほど彼をもてはやしていただろうか。日本人は自分たち自身で日本人の価値を評価するのではなく、「海外」という他者に評価してもらって、後からその評価を追認したがるのである。
「海外で評価されている村上春樹」の本だから読まないわけにはいかない。そんな風潮に促されて、内容のまったくわからない本に3780円(2冊合計)を出してしまった人も多いはずだ。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、近代の権力を「生の権力」と呼んだ。王の命令に背いたら死刑になる、という恐怖心で人を操るのが近代以前の「死の権力」なのに対して、近代の権力は、情報操作によって自分から喜んで従うようにしむける「生の権力」だと言っている。我々は自分で判断する力を養わなければ、知らないうちにこの「生の権力」にとらわれてしまう。
研究者の立場から言えば、『1Q84』は、これまでの村上春樹が取り組んできた多くの課題がすべて扱われているという意味で、たいへんな力作である。「二つのストーリーを併行して進行させる」「現実と異なる世界に迷い込ませる」「カルト宗教の世界を描く」「邪悪なものの権化のような存在を描く」「子どもの頃の初恋相手を思い続ける」「ものを書く人間の成長を描く」……といった、村上春樹作品にしばしば登場する課題がすべてこの作品には込められており、その意味では、『1Q84』は村上春樹渾身の総力戦である。とても完成された作品とは言えないものの(現に続編が準備されている)、読む価値は十分にある。
だが、研究者は本を読むことが必須の義務だが、多くの人にとってはそうではない。一般読者が中身を知らないまま買わなければいけない本など存在しない。我々は自分で判断する力を養わなければ、いつか知らないうちにフーコーの言う「生の権力」によって、姿の見えない何者かに支配されてしまうのである。