小木曽 綾 【略歴】
小木曽 綾/中央大学法科大学院教授
専門分野 刑事法学
今年8月の衆議院議員選挙による歴史的な政権交替で、さまざまな政策・事業の見直しが波紋を広げている。象徴的なのは群馬県の八ッ場ダム事業で、先ごろ国土交通大臣は当初示した建設中止の方針は変えないものの、治水・利水効果の再検証を行うと表明した。
国民生活の幸福増進を目的とした種々の政策決定過程に国民自ら参加する統治の仕組みは民主主義と呼ばれるが、民主主義は良くも悪くもその時々の多数派の選好に従った政策決定を善しとするから、政権が交替すれば建設途中のダム事業中止も制度としては想定範囲内のことである。ただし、ダムにしても道路にしても、その建設をめぐっては様々な権利・利益が複雑に絡むから、多数派に支持されさえすれば問答無用の決定を下してよいわけではない。政策推進の過程では、もっとも大きな影響を受ける地域の住民に、事業の必要性(または不必要性)や、事業予定地の選択理由等々を充分に説明し、その意見を聴かなければならない。最終的には、住民投票や選挙を通じて多数派の支持する政策が選択されることになるが、公共の利益のために父祖伝来の土地を提供しなければならない人々には、正当な補償を受ける権利が保障される。すべての人々の利益を満足させる政策などというものはまずありえないから、選択された施策に不満な人々にもそれに従うことを求めるためには、このような手順を踏むことが極めて重要である。法学の分野では、このような手順のことを「デュー・プロセス(due process)」ないし「適正手続」と呼んでいる。
さて、一般国民が刑事裁判の有罪・無罪の判断や刑の量定に参加する裁判員制度が今年5月21日から始まった。裁判所の資料によると、9月17日現在で第1審の判決があった事件は9件で(10月末までで46件と報道されている)、5月21日から9月11日までに全国の地方裁判所が受理した対象事件は566件(殺人132件、強盗致傷126件、覚せい剤取締法違反51件、現住建造物等放火45件、強姦致死傷39件など)で、こうした事件がこれから順次裁判員と裁判官の協働による審理を受けることになる。
裁判員の参加する刑事裁判に関する法律1条は、「裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」としているので、この制度の目的は「刑事裁判への国民の理解と信頼の促進」にある。これをめぐっては、裁判員になりたくない人の割合が世論調査で6~7割にも達していたことや、どのような場合に辞退が認められるのか、裁判員だった人の守秘義務が重すぎるのではないか、といったことがマスメディアでよくとりあげられた。ところが、そもそも「なぜ今、一般国民が重大な刑事裁判に関与すべきなのか」、という根本的な問い、換言すれば、制度の理念が国民に共有されたかどうかは定かでなく、一部には「民主主義国家なのだから、裁判にも国民が参加するのは当然」という言もあった。
たとえば、姦通行為を処罰すべきかということ、つまり、どのような行為を犯罪とすべきかということは、国民の多数の意見に従って法律で定められなければならない(念のため、姦通罪は昭和22年の法律で廃止された)。しかし、刑事裁判は先のデュー・プロセスが保障されるべき最たる場面である。そこでは、どんなに疑わしく人気のない被告人にも自らの言い分を聴いてもらう機会と手段が与えられたうえ、有罪/無罪の判断については、科刑権限をもつ国側(検察官)が、被告人を有罪とすることに合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の証明責任を負い(beyond the reasonable doubt)、検察官がこの責任を果たすことができなければ、必ず無罪判決が言い渡されなければならない。これを無罪推定の原則というが、この他にも無辜の処罰を避けるために歴史的な試行錯誤を経て多くのルールが定められてきた。被告人が真実犯人であるかどうかの判断(事実認定)や、そうした裁判ルールの適用の是非は、時々の国民の選好に委ねられてよいものではない。
刑事裁判の有罪・無罪の判断を一般の国民に委ねる陪審制度は13世紀ごろにイングランドで確立したといわれ、アメリカ合衆国のほか、革命期にこれを採り入れたフランス、その影響を受けたドイツなど大陸諸国にも広がった。大陸の制度は、ドイツ帝国成立後に陪審員と裁判官が共に評議する参審制度へと姿を変え、これがヴィシー政権下のフランスに逆輸入されて今日に至ったもののようである。日本の裁判員制度は、評議の形態からして参審制度に類似するといってよいだろう。
陪審裁判を受ける権利は、しばしば隣人による裁判を受ける権利であるといわれるが、その精神はアメリカ合衆国最高裁判所のダンカン事件やテイラー事件で雄弁に語られている。すなわち、「陪審裁判は、地域社会の良識を反映する人々の判断を受ける権利を被告人に保障することで、政府の圧政を防ぐことを目的とする。隣人による裁判を受ける権利の保障は、腐敗した検察官や熱心すぎる検察官、従順すぎたり、偏見をもっていたり、常軌を逸していたりする裁判官から被告人を守るかけがえのない保護策である。」このような性格ゆえに、陪審による評決には理由が付されず、その判断の正しさを上訴で争う機会は設けられていない。
隣人による裁判は、民主主義というより、国家の専横から個人を守る自由主義の盾なのである。