昨年8月21日~9月23日、34日間にわたった旅は、私のこれまでの人生の中で最も長い海外滞在期間でした。アフリカのガーナ、トーゴ、エチオピアの3カ国を見聞し、韓国・仁川と中国・北京に立ち寄りました。
今回の旅は航空機、宿泊場所を全て自分で手配した個人旅行です。きっかけはアフリカ開発会議(TICADV)の学生サミットに参加し、政策提言をしたのですが、現地に行ったことが一度もなかったため、行ってみようと思ったことです。
主な目的地はガーナで、3週間半滞在しました。そのうち2週間は首都アクラから乗り合いバスで3時間の距離にあるベゴロという町の孤児院でボランティアをしていました。約40人の孤児が暮らしていました。
食事は、成人男性でも多いほどの量が3食出るのですが、米やパンといった炭水化物がほとんどなので、子供たちは栄養失調になっていて、お腹が膨らんでいました。
水道はなく、水は歩いて500mほどの井戸からバケツで運びます。子供たちのシャワールームがないため、思春期を迎えた女の子も屋外の仕切りのない場所でバケツの水を被って体を洗っていました。
子供たちは3段ベッドで寝ています。木製のベッドフレームは塗装がされておらず、虫食い状態。木の中にはムカデのような虫が大量にいて、衛生面からみても、とても良いとは言えない状態でした。
一緒に孤児院に向かったのは日本人学生4人と私。ガーナ集合、ガーナ解散で活動しました。私たちは13万円を活動費として現地に持っていき、腐食防止のためにベッドフレームにペンキを塗り、シャワールームの建設工事の発注、そして継続的に栄養のあるものを食べられるよう、土地を開墾し、畑を作る作業を2週間行いました。
他の1週間半は観光を含め、ガーナ各地を見て回りました。奴隷貿易で有名なケープコーストに行ったほか、うち2日は隣国トーゴの首都ロメに出かけました。トーゴは見た限りではガーナの20年前といった感じ。
ガーナの村の小学校
私たちはアフリカとひとくくりにしがちですが、国によって状況は全く異なるのだということを改めて認識しました。
ガーナの道路がアスファルト舗装約7割であるのに対し、トーゴの舗装化は主要幹線道路のみで、脇道を1本入ると、そこには土・砂・石の凸凹道路が広がっていました。
今回の旅では、多くの方に出会い、支えられました。
ガーナでは現地の自動車会社に単身赴任中の日本人宅に泊めていただきました。日本大使館書記官、国際協力機構(JICA)職員、青年海外協力隊(JOCV)の方々、ガーナ大学に留学している日本人学生。
ガーナといえば、チョコレートを思い浮かべる人もいるでしょうが、現地ではチョコレートはご飯一食分の値段。人々がチョコレートを口にする機会は、多くはありません。ガーナでチョコレートを作り、日本のバレンタインデーに日本国内販売を企画中の日本人学生とも会いました。
刺激的な日々
旅は初日から、とても刺激的なものでした。フライトは仁川、北京、エチオピア経由でガーナへ向かうという旅程を組みました。
北京からエチオピアに向かう便では乗客の8割が中国人労働者でした。彼らの多くはエチオピアを経由して、他のアフリカの国々に旅立って行きました。
孤児院近くの道
中国では、トイレで使用した紙はごみ箱に捨てる風習があります。便器に流すと下水が詰まるからです。国際線の機中でも同じことが行われていました。
北京からエチオピアまで約8時間。5時間が経過したくらいから、ごみ箱が満杯になり、トイレの悪臭が機内に充満し始めました。駆けつけた客室乗務員が手にしていたのは芳香剤のスプレー。トイレに噴射させると、芳香剤とトイレの嫌な臭いが混ざって、何とも表現しがたい時を過ごしました。
エチオピアからガーナに向かう機内では、隣席のガーナ人と親しくなって名刺を交換。“連絡して”と言われ、ガーナで別れました。翌日、恐る恐る連絡してみると、その方がドミトリー(相部屋の宿舎)まで車で迎えに来てくれ、市内観光にランチ、夜はナイトクラブにまで招待してくれました。
あっという間に2週間半が経ち、ガーナを離れる日が来ました。ここからエチオピアで4日間、その後、北京に4日間いて帰国しました。 エチオピアは今回訪れた国の中では最も所得が低い国でした。人々の月平均所得は現地通貨で1,500ブル前後、日本円で7,500円前後。
中国資本による建設ラッシュで、首都アディスアベバにはガーナよりも多くのビルが建っていました。貧困層もガーナに比べると圧倒的に多い。一方でアフリカ連合(AU)本部があるせいか、1泊100ドル以上する高級ホテルも数多くあり、所得と現状とのギャップに驚かされました。
ここでも青年海外協力隊(JOCV)の隊員、国連開発計画(UNDP)日本人職員、日本大使館領事と面会できました。JOCVの隊員には、施設やドミトリーを案内してもらいました。
エチオピアでは独自の暦を使っていて、9月11日が元日です。私がエチオピアに入国したのは16日。新年最初の1週間、街はお祝いムードでした。
この街で、私は苦い経験をしました。街を歩いていると、1人のエチオピア人が声をかけてきました。私が日本人だとわかると、彼はJICAの運転手だと名乗りました。その名がトーフ。「日本には豆腐って食べ物があるんでしょ。僕の名前それと同じ。覚えやすいでしょ?」とか言いながら、初めは「コーヒー・セレモニー」に招かれました。
トーゴ市内で
食事をごちそうになったガーナのいい経験が思い出され、興味津々でその後も一緒にいると、次は「グリーンケーキ・セレモニー」に行こうという。
何も分からずに付いていくと、店で出てきたのは葉っぱでした。これを食べると記憶力が増し、目が覚めるという話を聞き、結局4時間ほど語り合いながら葉っぱを食べました。
この葉っぱが実は「チャット」と呼ばれる麻薬の一種と知ったのはホテルに帰ってからでした。
グリーンケーキの会計の場になって、相手はお金を持っていないと言いだし、月収75ドル相当の国で、私が請求額95ドルを支払いました。
JICAのドライバーを名乗る男に「今度は俺が(お金を)持つからバーに行こう」とまたまた誘われたのですが、どう考えても怪しいので、メールがしたいと言ってネットカフェへ一時避難しました。
JOCVに連絡を入れたら、“危険なパターンだからすぐに逃げなさい”との返信があり、トーフと名乗る男とは別れました。当日はさすがに落ち込みましたが、次第に1万円で貴重な勉強ができたと考えるようになりました。この経験も忘れられないものです。
旅を通じて、今まで遠い異国の地であったアフリカ大陸が身近になりました。テレビなどのニュースで見ていたアフリカの中国人労働者の問題も、自分の目で見ることができ、とても衝撃を受けました。
日本を出発する前、ガーナは「アフリカの優等生」という話を聞き、高層ビルが立ち並び、人々はスーパーマーケットで買い物をしているのだと思っていました。実際に行ってみると、高いビルは外国人移住区でした。テント張りのマーケットが立ち並び青空マーケットが賑わう、素朴な国でした。
渡航中、多くの方が「現地に行ってみないと物事の本質は分からない」と話していました。データや本などに書いていない世界が目の前にありました。自ら足を運ぶことの重要性を改めて学んだ34日間でした。
最後に私を支えて下さったすべての方に、心から感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
エキサイティングな34日間
- ▼8月21日(水)
- 成田→韓国・仁川→中国・北京→機内泊。
- ▼8月22日(木)
- →エチオピア・アディスアベバ→ガーナ・アクラ着。空港で日本人学生2人と合流。首都アクラのオス地区にあるドミトリーに宿泊(1泊約500円)。
- ▼8月23日(金)
- アクラからオファンコという都市に移動(乗り合いバスで2時間)→ガーナ政府認定・優良孤児院見学→ケープコートに移動して(バスで3時間)、奴隷貿易で有名なケープコースト城を見学→アクラ・オス地区のドミトリー泊。
親切なおじさん
青空マーケット
- ▼8月24日(土)
- 機内で会った親切なおじさんと共にアクラ市内観光をする。深夜にはナイトクラブへ連れて行ってもらう。→アクラのドミトリー泊。
- ▼8月25日(日)
- アクラから乗り合いタクシーに乗ってトーゴとの国境アフラオへ(3時間半)→トーゴに入国し、首都ロメの中流ホテル泊(1泊2,000円)。
- ▼8月26日(月)
- 国連食糧農業機関
(FAO)トーゴオフィス訪問→国境アフラオへ行きガーナに再入国→乗り合いタクシーで首都アクラへ戻る(3時間半)。アクラのドミトリー泊。
- ▼8月27日(火)
- ガーナ大学にて日本人留学生2人に話を聞く。→国際協力機構(JICA)ガーナ・オフィス訪問。職員から話を聞く。→在ガーナ日本大使館訪問。書記官から話を聞く→日本から到着した学生2人と合流。ここからは孤児院プロジェクトとして5人で行動する。(9月13日まで)アクラの中流ホテル泊(1泊約2,000円)。
- ▼8月28日(水)
- 乗り合いバスで孤児院のあるベゴトという町に移動→孤児院泊。
- ▼8月29日(木)
- 孤児院で手伝いをしながら孤児院運営者と今後のプランを練る。孤児院泊。
- ▼8月30日(金)
- ベッドフレームの腐食防止のためのペンキや釘などの買出しをする。→子供たちのためのシャワールームを作ることになり、セメント、砂、石を発注する。水道がないため、壁と排水設備を作るというもの。孤児院泊。
- ▼8月31日(土)
- ベッドフレームのペンキ塗り→日本食作り(カレーライスと白玉あずき)孤児院泊。
- ▼9月1日(日)
- 孤児院の隣にある教会で日曜日のミサ見学→孤児院お手伝い。孤児院泊。
- ▼9月2日(月)
- ベッドフレームのペンキ塗り。午後には発注していた砂が届く。孤児院泊。
- ▼9月3日(火)
- 庭の開墾作業に入る。まずは雑草取り。孤児院には広い庭があったが、これまで作物は何も育てておらず、雑草が生えているだけだった。そこでキャッサバなどの作物を植え、食糧として収穫できるようにしよう、という計画。午後には孤児院のある地域の周辺を散策。孤児院泊。
- ▼9月4日(水)
- 庭の開墾作業を行う。シャワールーム建設のために使う大量の水を井戸からひたすら汲む。孤児院泊。
- ▼9月5日(木)
- いったん孤児院を離れ首都アクラへ戻る。道中で優良孤児院(8月23日に出向いた所)に再び立ち寄り、どのようにして優良孤児院に認定されるまでに至ったのか運営者に事情を聞く。→アクラにあるガーナトヨタに勤務する日本人駐在員宅にこの日から2泊。
- ▼9月6日(金)
- ガーナ大学の日本人留学生をプロジェクトメンバーで訪問。午後にはアクラモールというショッピングモールで買い物をする。夜にはJOCV、JICA職員、ガーナトヨタの駐在員と会食をする。アクラ(駐在員宅)泊。
- ▼9月7日(土)
- 孤児院に戻る。子供たちと遊びながら、精神的なケアを行う。孤児院泊。
- ▼9月8日(日)
- 孤児院周辺の農家からバナナの木をもらってきて、庭に植える。孤児院泊。
- ▼9月9日(月)
- 歩いて片道2時間かけて、山奥からキャッサバの枝をとってくる。庭を開墾すると同時に、畝を作り始める。孤児院泊。
- ▼9月10日(火)
- 今日から孤児院に併設する学校の授業が始まる。しかし先生が来なくて、授業が始まらないクラスもあった。引き続き開墾作業。シャワールームも作業員によって壁ができ始める。孤児院泊。
- ▼9月11日(水)
- 引き続き開墾しながら畝を作る。授業の手伝いもする。午後は地域散策。病院やマイクロファイナンスの事務所を見学する。孤児院泊。
- ▼9月12日(木)
- この日で孤児院を離れる。午前中で畝づくりを終える。午後に日本人5人のフェアウェルセレモニーが全学規模で行われる。その後コフォルディアという町にある孤児院運営者の自宅へ。まだ建設途中で電気は一切通っていない。運営者の自宅泊。
ガーナ・チョコレート
天気のいい日、孤児院では子供たちの寝具を干す
- ▼9月13日(金)
- この日でプロジェクトメンバーとはお別れ。一人で一度首都アクラに戻り、本物のメイド・イン・ガーナのチョコレートを作って日本にバレンタイン時に空輸しようとしている日本人の大学5年生と合流。カカオを生産している村へ。その学生が泊まっている一軒家泊。
- ▼9月14日(土)
- チョコを作ろうとしている学生に同行。村の家庭を周り、カカオの聞き取り、調査を行う。学生が泊まっている一軒家泊。
- ▼9月15日(日)
- 学生と別れアクラに帰る予定日だが、急に体調不調となる。立っているのが辛くなるほど具合が悪い。マラリアの危険性もあると言われ、とりあえず風邪薬を飲みつつ首都アクラに戻る。アクラでマラリアの治療薬を買うが、風邪薬が効いてきたのか、徐々に体調が回復してくる。ドミトリー泊。
- ▼9月16日(月)
- ガーナを出国する日。ガーナを離れ、一路エチオピアに向かう。エチオピアに夜10時に着くも、泊まるホテルが決まらず。ガーナで調べた中流ホテルに電話し、送迎に来てもらう。1泊30USドル。
やられた
- ▼9月17日(火)
- アディスアベバ市内観光。昼ごろにJICAのドライバーを名乗る男に話し掛けられる。中流ホテル泊。
- ▼9月18日(水)
- ガーナでアポを取ったJOCV隊員と合流。職場を見学させてもらう。翌日には同隊の中間報告会があると聞き、参加を求める。中流ホテル泊。
- ▼9月19日(木)
- 同隊の中間報告会を傍聴した後、日本大使館へ。領事にあいさつ。夜は同隊員にごちそうになる。その後空港に向かい、深夜1時50分発のフライトで北京に向かう予定だったが、飛行機が6時間半遅れた。一晩を空港で明かす。空港出発ロビー泊。
- ▼9月20日(金)
- 北京に到着したのは午後10時。空港を出たのは同11時。その後タクシーでホテルまで移動。運転手ともめる。ホテル泊(1泊5,000円)。
- ▼9月21日(土)
- 天安門広場と故・毛沢東主席の遺体安置所、故宮を見学。ホテル泊。
- ▼9月22日(日)
- 万里の長城に行く。北京市内の路線バスでたまたま会ったフランス人(フランス原子力庁勤務)と共に観光する。夜は北京ダックを一人で食べる。ホテル泊。
- ▼9月23日(月)
- 北京市内のイオンで買い物をし、その後北京空港へ。仁川でトランジットののち、夜成田着。