トップ>Hakumonちゅうおう【2011年春季号】>【メジャーリーグに挑む!】(1)クリーブランド・インディアンス支配下1A 中村尚史投手(2010年卒)の闘い
マイナーのルーキーリーグからメジャーリーグに挑む―。その頂への道のりは高く険しい。しかし、「絶対に後悔はしたくない」という秘めた闘争心は、熱く燃えている。中央大学硬式野球部出身の中村尚史投手(2010年法学部卒)の「夢」への挑戦は、周囲に大きな勇気を与えてくれる。1930年創部の中大野球部初のメジャーリーガー誕生なるかー。中村投手の奮闘ぶりを追う。(聞き書き・構成 編集長 伊藤博)
メジャーリーグのクリーブランド・インディアンスのスカウトが、僕を見に来ていると知ったのは、大学4年、2009年春のリーグ戦のときでした。僕は知らなかったんですが、立正大学との3戦目に先発したときに来ていて、試合が終わったあとにマネージャーから聞かされて、初めて知りました。
高橋善正監督からは、次の日に監督室に呼ばれて、スカウトの人の名刺を見せられて、「こういうところから来ているけど、お前にはまだ早いな」って言われました(笑)。
その瞬間は、やったというか。もちろんインディアンスは知っていますし、小学3年のとき、MLBのオールスターで野茂英雄さん(注:日本人2人目のメジャーリーガー)が先発したのをテレビで見て、すごいと思ったことがあったので、そのメジャーリーグのチームから自分を見に来てくれているなんて、すごいなって思いました。
でも、実感はなかったです。もともと日本のプロ野球を目指していて、メジャーを考えるというのは、現実味のある話ではないですから。まず、日本のプロ野球に行って、そこで成功してアメリカに行くというのが普通じゃないですか。直接、アメリカに行くという想像は出来てなかったです。だから、茶化しに来たのかな、と思って(笑)。
夏休みに監督室に呼ばれて、監督さんから「お前、社会人とプロ、どっちに行くんだ」って聞かれたんです。「お前の今の成績で、プロでとってくれるところはないぞ。社会人に決めた方がいい」って監督さんに言われたんです。しかも「決めたらインディアンスも断っちゃうから」と言われて、そのときは自分も社会人に行くのかなって思っていて、「じゃあ、社会人でお願いします」と言ったんです。
中村投手を紹介する地元の新聞
でも、プロ野球選手になるのは小さいころからの夢じゃないですか。それで、その日に考え始めたんです。やっぱりプロ野球選手になりたい。社会人野球が決して悪いというわけではないですが、自分の場合、性格みたいなもので、社会人に行って、お金をもらって安定して、普通の暮らしができて、「これでいいや」と思ってしまう気がしたんです。
社会人に入っても上を目指して行けるような人間だったら、いいと思うんですが、自分の場合は、このまま社会人に行ったら、たぶんだめだと思ったんです。日本のプロ野球がだめなら、メジャーリーガーってもっと大きな夢じゃないですか。行けるんだったらアメリカに行った方が絶対いいし、2、3年でクビになったら、あきらめて野球をやめよう。それで、アメリカでやってみようと考えたんです。
でも、監督には「社会人に行く」と言っちゃったので、次の日に監督さんに、「自分はプロに行きたいです」と言いました。「このまま日本にいたら自分は親に甘えてしまうだろうし、結局、今と変わらない気がします」って監督さんに話したんです。
親から、「若いうちは苦労は買ってでもしろ」と言われていたのが、ずっと頭にあって、チャンスだし、一回、自分の力で、やるしかないだろうと考えて、監督さんにもそう言ったんです。そしたら監督さんは前の日まで、社会人に行けと言っていたのに、「あ、そっか。お前がそう思うならそれでいい。でも、そんなに甘いものじゃないぞ」と言われて、「もちろん、わかっています」と言いました。
その日、監督室に行くの「怖え~っ」と思ったんですが、でも、俺の人生だから、監督がだめだと言っても絶対に(アメリカへ)行ってやると思って。それで監督室に行ったら、監督さんが「あっそう。いいよ」って言ってくれて、自分も拍子抜けしちゃいました(笑)。
それで寮の部屋に帰って、親に電話したんです。親はインディアンスからオファーがあったことは、それまでまったく知りませんでした。「アメリカに行く」といったら、親父(中村潔さん)は笑っていましたね。「まあ、でも、お前が決めたんだから、そっちのほうがいいよ。お前が決めた道を頑張れよ」と言われました。まったく反対はされなかった。むしろ、後押ししてくれました。母さん(春江さん)からも、「あらそう、よかったわね。お前が自分の力で何とかしようとするのは嬉しい」って言われたんです。
2009年の夏にそういうことがあって、実際にインディアンスから連絡が来たのは、10月29日のプロ野球ドラフト会議が終わって30分後くらいですね。監督さんにスカウトの人から電話が掛かってきて、それで次の日に会いました。
「はじめまして」と挨拶して、そしてすぐスカウトの人から「欲しい」と言われて。自分が「はい、行きます」って言って(笑)。契約金はいくらですと言われて。それでご飯食べて、監督さんが練習設備とかはどうなっているか、などと聞いて、それくらいです。実際に契約したのは11月で、そのときは口約束みたいな感じでした。テーブルにインディアンスの資料が並べられて、「Welcome to Indians, Takafumi Nakamura」と書いてあったです。それがドラフトの次の日の夜でした。
マホーニング・バレー(所属チーム名)での公式戦
マイナーリーグに対する知識ですか? それまで知識は無かったです。想像ですよ。野球も荒い野球をしていて、施設もボロボロで、でもみんなメジャーリーグに上がりたいからガッツリと野球をやっている、そんなイメージでした。インディアンスのことやマイナーリーグの情報は、契約までの間に、スカウトの人とご飯食べに行ったりしたときに、いろいろ聞いて、情報をいただいたりしました。
高橋監督に、勇気を出して「インディアンスに行きます」と言ったときが、人生のターニングポイントですね。本当に。考えたのは1、2時間です。もし30年後、50年後に自分が死ぬときに、あのときにあっち(アメリカ)に行っていたら、どうなっていたんだろう、と思いたくなかった。死ぬときに、あのときにああしていたら、どうなっていたんだろう、と悔いを残すのが嫌だった。やってみないとわからない。それで行こうと決めました。
気負いですか? 気負いは別にないですが、もし自分がメジャーに行けたら、それをアピールできるというか、そういう気持ちはあります。卒業してから、箱根駅伝を見ていてもそうですが、中大で良かったって思います。俺は中大なんだ、という意識はあります。
2010年3月6日にアメリカに発ちました。監督さんからは、中大の野球部が2月にキャンプに行くときに、もう会えなくなるので、「頑張れよ」と言われただけです。契約時のときに監督さんからは「とりあえず3年は死ぬ気で頑張れ」と言われました。「それでだめだったら、帰ってきて勉強すればいいんだ」と。
成田を発つときは、家族と中学高校の同級生、中大の関係者の方々が見送ってくれました。ありがたかったです。でも、ゲートをくぐって、飛行機を待っているときはすごく寂しかったですね。もう一人なんだと。あのときは本当に寂しかったです。
親父や母ですか? 親父はちょっと泣いていました。たぶん家族だけだったら自分もやばかった、と思いますが、周りに友達がいましたから、「失礼します」と言って発ったんです。サンフランシスコ経由でアリゾナに行ったんですが、機中では別に「ああ、もう乗っちゃった」と思って覚悟を決めていました。
現地では、インディアンスの人が迎えに来てくれて、「Nakamura Takafumi」と書いたのを持って待っている、と言われていたんです。ところがアリゾナのフェニックス空港に着いたら、誰もいないんです。というのは自分の乗った飛行機が1時間遅れて、それでいなくなったらしいんです(笑)。でも、自分は何もわからないので、空港で2時間くらい待ったんです。
だけど誰も来なくて、日本に帰りたいと思って、もう半ベソですよ。ここからどうしていいのか分からないし、でも、日本に帰っちゃうわけにはいかないじゃないですか。それで半ベソで、とりあえずタクシーに乗って、インディアンスがスプリングトレーニングするグラウンドの住所をもらっていたので、その住所を見せたんです。タクシーの運転手は「分かった」と言ったのに、乗って1時間くらい経ってから、「分からない」って言い始めたんです(笑)。
「ここでいいか」とか言われて、まったく分からない場所に降ろされて、65ドル払わされました。それで大きなスーツケースを2個持って歩いたんですよ。途中で人がいたので、グランドの場所を聞いたら、「すごく遠いよ」と言われて、でも、まあ歩いていたら着くだろうと思って、歩いていたら、さっきの人が車できて、「乗せていってやるよ」と言って、乗せていってくれたんです。それでやっとグランドに着いたんです。あのときは行方不明になるんじゃないか、と本当に思いました。
着いたら、「なんでお前、タクシーで来たんだ」みたいに言われて、「迎えに来ていなかった」と言ったら、「それはおかしい。そんなことない」と言い始めて。でも、「そういえば飛行機が1時間遅れたんだ。じゃあ、しようがないね」って。待っていて欲しいですよね。こっちは2時間も待っていたのに、あっちは1時間しか待っていなかったんですから…。その日の夜はぐっすりでした、もう本当に…(笑)。
スプリングトレーニングの練習は、即練習ではなくて、1日目にフィジカルチェックがあって、レントゲン撮ったり、体脂肪計ったり。その次の日に体力チェックをして、練習は着いて3日目からでした。
マイナーリーグのランクは、3A、2A、そして1AはハイA、ローA、ショートシーズンの3ランクあって、その下のルーキー、ドミニカまで7段階あります。ドミニカはアカデミーのようなもので、中南米の選手とか、日本人もときどき参加したりしています。自分は、ルーキーリーグからスタートしました。スプリングトレーニングは、想像していたのとは違っていましたね。実際にキャンプ地の施設はすごいです。半端じゃないです。日本とは比べものにならないです。グランド見た時は、感動しましたね、本当に。
野球場が6面もあって、天然芝がピシャッと刈られていて、ものすごくきれいなんです。内野だけの球場が2面あって、それに大きな室内練習場が2つあって、ウエートトレーニングをする大きな建物があって。大きい食堂が一つあって、すごかったです。
マホーニング・バレーのホーム球場
大リーグもキャンプをするところは一緒です。メジャーリーグとマイナーリーグのロッカールームが、少し分かれているだけです。ジムはメジャーもマイナーも使うところは一緒です。有名なグレイディ・サイズモア選手(注:インディアンスの看板バッター)とか、WBCのときに韓国の3番を打って、今、インディアンスで5番を打っている韓国のチュ・シンス(秋信守)選手とか、そういった大リーガーが自分たちのすぐそばにいるんです。
自分も初めは英語しゃべれなかったんですが、チュ・シンスは、日本語で「コンニチハ」と言って来て、サイズモアを紹介してくれたことがあるんですよ。アメリカの文化なのかもしれないですが、メジャーリーガーは、アメリカでもトップ選手じゃないですか。その人が自分と対等にしゃべって、普通にジョークを言って笑うし、それはすごいなと思いますよね。フレンドリーなんですよ。
トレーニングは楽でした。大学の練習より全然、楽でした。投内連係(投手と内野手の連係プレー)はぶっ通しで3時間やったりしますが、3時間やったら、その日はもうそれで終わりです。練習は9時からはじめて、12時で終わります。長くても午後1時ですね。そのあとに試合をやって、3時、4時。試合に出ない人はそのまま帰っていいんです。だから、練習はすごく楽でした。
ただ、大学の時と比べて、これでいいのかなとは思いましたね。それで、練習が終わってからの練習はしてはいけないので、練習がはじまる前に自分で練習しておかないといけない。朝5時くらいにグランドに行ってご飯を食べて、6時から自主練習を3時間する。それから全体練習をして終わりという感じです。スプリングトレーニング中はずっとそうでした。
自主練は、ボールは投げないで、走ったりとか、重いボールを使って腹筋を鍛えたりとか、そうした筋トレをやります。朝4時からトレーナーが来ていて、こういうことをやりたいと言うと、指導してくれるんです。
ただアメリカのコーチは、こちらから聞かないと何も言ってきません。「カーブよりストレートをいっぱい投げた方がいいよ」とか、そういうことは言ってきますが、細かいことは選手の方から聞きに行かないとだめなんです。自分から聞きに行けば、段々コーチからも言ってくれるようになるんです。
僕は練習で良いと思ったこと、悪いと思ったことを毎日、ノートに書いていました。はじめは英語があまりしゃべれなかったので、夜のうちにパソコンで英語に翻訳しておいて、それをコーチに見せていました。自分から、こういうことを考えているということをコーチに伝えると、コーチが集中して見てくれます。だから、別に何か聞くというのは、そんな怖いとは思わなかったです。英語はしゃべれないですけど、野球なので何とかなると思って聞きました。
スプリングトレーニング中にクビになる選手もいます。話には聞いていましたが、それはもうビックリしましたね。始まって10日目くらいの日の朝、自主練が終わって、ソーシャルセキュリティカードを作りに行って帰ってきたら、朝9時半くらいに、知っている選手が5人、大きな荷物を持ってバンに乗ろうとしていたんです。「どうしたの?」って聞いたら、「頑張れよ」と言われて、握手されたので、よく分からないまま、自分も「頑張れよ」と言ったんです。それで、その日の練習が終わったあとに、「あれ何だったの?」って聞いたら、「クビだ」と。
スプリングトレーニング・アリゾナのロッカールーム
3年目くらいで切られるんです。短くて2年です。1年目が悪くても次の年には切られない。だいたい2年連続で悪いと切られます。スプリングトレーニングが終わるまでに、全部で200人くらいいるなかで、40~50人の選手が切られます。ロッカールームで僕の隣の選手が、朝来たらクビになって、泣いていたということがありました。それはもう気が引き締まります。
ロウAで60~70%、ハイAで残り10%くらいがクビにされます。2Aに上がれれば、だいぶメジャーが近いんですが、ハイAから2Aに上がるときが難しいんです。日本にいたときは、3Aで日本の2軍くらいかなと思っていたんですが、3Aはメジャーとほぼ一緒。ちょっと落ちるくらいで、2Aが2軍だと思います。
給料は、1Aにいれば1カ月で9万円。3Aにいれば、日本円で1カ月27万円くらいです。自分の最初の給料は420ドルでした。キャンプ中は給料が出ません。キャンプ中は、ミール代として1日12ドルしか出ないです。4月からルーキーリーグの練習というか、スプリングトレーニングのエクステンデッドと言うんですが、そのときに初めて給料が出るんです。
アパートはチームメイトと部屋をシェア
420ドルは、今だと3万5000円弱ですか。それがシーズンに入る6月まで続きました。6月からは800ドルもらって、そこからアパート代を200ドル払うと、残りは600ドルです。自分は、昨シーズンの終わり近くに、1Aのランクが一つ上がってロウAになったので、給料がちょっと上がりました。でもわずか10ドル、20ドルくらいです。
生活ですか? 別に遊びに行ったりもしないし、野球しかしないので…。アパートではテレビも見ないし、お金を使うにしても、みんなでビールを買ってきて飲むくらいです。あとはパソコンをしているだけで、お金は食費しかかからないので、別に生活は苦しくないです。
食費は毎日10ドル以内に抑えるようにしていました。朝と昼はチームから食事が出ます。夜は試合が終わってから、自分で食べるんですが、レストランに行って10ドルの食事を頼んでもチップで2ドル取られるので、12ドルじゃないですか。だから一番安いのを頼んで、チップを入れて9ドルです。でも9ドルって高いじゃないですか。
遠征先のホテルでチームメイトと
だったら、ファストフードに行って、ガッツリ食べても6ドル、7ドルでおさまる。だから、行くのはだいたいファストフードですね。それでルーキーリーグは、通称ハンバーガー・リーグと呼ばれるんです。でもクラブハウスのご飯に野菜がいっぱい出るので、そこで野菜、フルーツを食べまくっています。クラブハウスで出される食事は、ほとんどがチキンとターキー、鶏肉だけです。牛とか豚は脂質が多くて、あまりいいたんぱく質ではないので、チキンとターキーしか出ないです。
日本の選手はすごい食生活に気を付けていますが、そんなこと言っていられないです。一度、遠征先でレストランに入ったら食中毒になって(笑)。チキンとシュリンプを食べたら、その次の日の朝に嘔吐して、食当たりで2日間動けなかったです。
体重ですか? 昨年の1シーズン終えて、7~8キロ痩せました。アメリカの食事は、油っ濃いので、すぐお腹いっぱいになっちゃう。でもアメリカ人の誰よりも食べていましたよ。友達とチキンウィングの食べ放題に行って、自分がダントツの一番でした。でも痩せましたね。何ですかね。緊張とかじゃないですか。しゃべれないし、ストレスもあるじゃないですか、やっぱり。7月、8月は、いろいろなことに対してイライラしていましたから、ちょっとしたことで怒ったりとか。
人種差別されるのって初めてじゃないですか。それが思ったよりきつかったですね。初めは差別されても、まあ別に、という感じだったんですけど、段々にふざけんなとか畜生って思ったりしました。だから絶対に、野球で負かしてやるって、考えがいい方に作用しましたね。でもストレスにはなりました。そういうことで少し痩せたんだと思うんです。
日本にいるときは、日本人であることを意識しないじゃないですか。でもアメリカに行ったら、日本人は外国人だし、自分のチームの中には10カ国の選手がいて、日本人は自分ひとりだけで、強烈に俺は日本人だというふうに思いました。いろいろな国の選手をみて、日本人ってすごいなって思ったし、日本人で良かったって思いました。
アメリカは夢があるし、すごく好きです。昨年1シーズンやってみて、日本人であることを意識できたし、外から客観的に日本人というのを考えられたので、すごく良かったと思います。
(夏季号に続く)