東日本大震災の被災地に200億円を超える義援金を寄せてくれた台湾に感謝の気持ちを伝えようと、日本最西端の沖縄県・与那国島から台湾・蘇澳(すおう)までの約120キロを6人がリレー形式で泳いで横断―。この黒潮を泳ぎ切る前人未到の快挙を果たし、日台友好を深めたスイマーの一人は本学水泳部員であり、同時に、このプロジェクトの実現に奔走したのは140回の訪台歴があり長年、台湾との友好親善に尽くしてきた本学OBであった。
水泳部、山田選手が挑戦
「日台黒潮泳断チャレンジ」と銘打ったこのプロジェクトは9月17日から3日間にわたって行われ、日本人スイマー6人が沖縄県の与那国島から台湾北東部の宜蘭県蘇澳までの約120キロを交代しながら無事に泳断し、岩手、宮城、福島3県の知事の感謝メッセージを台湾側に手渡した。
6人の泳者の一人に選ばれたのが、福島県相馬市出身の法学部3年、山田浩平さん(東北高校出身)だった。水泳部で1500メートル自由形の選手の山田さんは、高校3年生の時、ジュニア・パンパシフィック選手権日本代表として、海を泳ぐ「オープンウォーター10キロ」で3位に入賞、海での遠泳経験があった。
ことし7月はじめ、山田さんは小学校時代の水泳クラブの先生から、「日台黒潮泳断チャレンジ」について紹介され、「プロジェクトに参加してみないか」と誘われた。
震災当日の3月11日、中大の寮にいた山田さんは、一時、福島県相馬市の家族と連絡がとれずに心配したが、その後、家族も家も無事であることがわかった。しかし、多くの友人や知り合いが津波の被害を受けたという。
「福島は水泳ができる状況ではありません。水泳をやめようと考えている友達もいます。でも今は泳ぐことができなくても、僕が海で泳ぐことで、被災地の子供達に水泳を続けようと思って欲しい」。そう考えた山田さんは、プロジェクトに参加することにした。
6人の泳者のなかで、山田さんは最年少。6人全員で練習する機会はほとんどなく、山田さんは1日に15キロは泳ぐという水泳部の練習で、本番に備えた。「不安はなく、泳ぐのが楽しみだった」というが、プロジェクトは前人未到のチャレンジであり、危険な要素は少なからずあった。
夜間は真っ暗闇を泳ぐ
山田浩平さん
泳断する日台間には速い海流の黒潮が待ち受ける。海域はサメも生息する。刺されると死傷することもある「ダツ」という魚もいる。このため選手に伴走するカヌーにサメ除けの電磁波を発する装置を取り付けることにした。ただ、「ダツ」は照らされた光に突進する習性があるため、夜間は無点灯の暗闇のなかを泳ぐことになる。
チャレンジは9月17日午前7時、与那国島のナーマ浜をスタート。台風15号の影響で、すでに波の高さは2メートル50センチあり、「海の流れは速く、方向も変化していた」という。そんな難しい状況のなか、6人は30分交代で泳いだ。山田さんは「泳いでいる間は無心でした。少しでも速く泳ぎ、距離を稼ごうとしていました。泳ぐことよりも船酔いの方が辛かったです。ご飯も全然食べられなくて、泳いでいた方が断然楽でした」と振り返る。
巨大クラゲに刺される
しかし山田さんを襲ったのは船酔いだけではなかった。夜、真黒な海の中を泳いでいる時だった。急にチクッと何かが刺さり、全身が激痛に襲われた。あまりの痛さに山田さんは泣いた。その様子に気付いた仲間がすぐに山田さんを船に引き揚げた。すると全長2メートルもの巨大クラゲが一緒に引き揚げられた。
「カツオノエボシ」という最悪の場合はショック死する毒性の強いクラゲだった。山田さんはその場ですぐに治療を受け、次の順番まで休んだだけで、また泳ぎ続けた。
台風の影響による4メートルを超す高波で、一時、6人は船に避難して停泊する事態に見舞われたが、19日午前10時、予定通りにゴールの台湾・蘇澳に泳ぎ着いた。浜では県知事はじめ大勢の地元の人が出迎えて、無事120キロを泳ぎ切った6人を大歓迎してくれた。
その日の夜、謝恩会が開かれ、山田さんは6人を代表して台湾の楊進添・外交部長(外相)に、携えてきた東北3県の知事からの「台湾のみなさま、ありがとうございました。このたびの震災で多額の支援をしていただき、感謝しています」という内容のメッセージを手渡した。
プロジェクトに参加し、貴重な体験をして「自分にももっと何かができる」と考えるようになったという山田さんは、「夢だった消防士になって、福島の人たちの役に立ちたい」という思いを強めている。
奔走したOB、松本彧彦氏
一方、今回のプロジェクト実現に向け中心的な役割を担ったのが、本学OBの松本彧彦(あやひこ)さん=昭和38年(1963)法学部卒=だ。松本さんは「日台黒潮泳断チャレンジ」実行委員長として、計画段階から実施まで日台の関係者の理解と協力を得るためにかけずり回り、プロジェクトを成功に導いた。
現在、日台スポーツ・文化推進協会理事長を務める松本さんが、台湾と交流するようになったのは昭和42年(1967)に当時の小渕恵三・自民党衆議院議員とともに設立した「日華青年親善協会」がはじまり。それから今日までの45年間、140回もの訪台を通じ、日台間の政治、青少年、スポーツ、学術交流の推進に貢献してきている。
その功績が認められてことし3月には、台湾外交部から外交奨章が授与された。また、かつて海部俊樹元首相の秘書を務めた松本さんは、本学と交流協定のある台湾・國立中央大学で3月11日に行われた桜の記念植樹式に出席する海部元首相の訪台実現にも尽力した。
被災知事メッセージ集める
こうした松本さんに3月18日、今回のプロジェクトの発案者である明大水泳部OBで会社員の鈴木一也さんから連絡があった。「台湾に感謝を伝えるため、日本から台湾まで泳いで渡りたい」という鈴木さんに対し、松本さんは「奇抜なことを言う」とはじめは思ったが、その熱意を聞くうちに「泳ぐだけでは注目されない。被災した東北3県の知事のメッセージを自分が集めるから、それを届けよう」と提案した。
ただ、流れが強い黒潮を本当に泳ぎ切れるのか不安ではあった。そこで松本さんは5月に鈴木さんに試泳してもらい、あらたな決意を確認したうえで、6月になって本格的に実行委員会を立ち上げた。
それからが大変で、まず沖縄・与那国島から出国するのが異例だった。石垣島に出入国管理事務所があるが、与那国島にはないため出国手続きができない。困った松本さんを救ってくれたのが、石垣島入管事務所の所長だった。「松本さんは中大OBなんですね。実は僕も中大なんです」と所長は、「今回は異例なんですが」と言いながら、22名のクルー全員のパスポートに出国の判を押す手続きをしてくれた。「中大の絆を感じましたね」と松本さんは振り返る。
ゴールの台湾・蘇澳も「ここから入国した人はいない」とスタートの与那国島と事情は同じだったが、プロジェクトに強い関心を示した台湾側がサポートしてくれた。このほかにも「スポンサーがつかなかったので資金集めが大変だった」という。船のチャーターにも「おカネの工面で苦労した」と松本さんは話す。
人脈と情熱でチャレンジ実現
計画も煮詰まってきたあるとき、松本さんは日台間を泳ぐスイマーが明大OBばかりなので、「中大の水泳部は大学1強い。いい選手がたくさんいる」と中大生をメンバーに入れるように鈴木さんに要請。その結果、関係者があたって探し出されたのが、震災被災地出身で中大水泳部の山田さんだった。
「黒潮をわたるという過去にないチャレンジだったけど、新聞やテレビでも大きく報道され、日本と台湾との友好関係を日本人に気付かせることにもなったと思う」。こう語る松本さんの台湾との深い友好親善の人脈と情熱なくしては、今回のプロジェクトは実現しなかったに違いない。
(学生記者 橋本あずさ=法学部4年)