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トップ>Hakumonちゅうおう【2010年125周年記念号】>【竜楽のおじゃまします!】世界の笑いをくらべてみれば

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【竜楽のおじゃまします!】

世界の笑いをくらべてみれば

三遊亭竜楽 落語家三遊亭竜楽 落語家
さんゆうてい・りゅうらく 1982年中央大学法学部卒。85年三遊亭円楽に入門、93年真打昇進。日本放送作家協会会員。中央大学では、学員講師として各地で講演を行う。朝日新聞夕刊で「らくごよみ」連載中。
宮丸裕二 准教授宮丸裕二 准教授
みやまる・ゆうじ 1971年生まれ。神奈川県出身。1995年慶應義塾大学文学部卒業。文学博士。2005年より中央大学法学部英語担当教員。専門分野は英国文学・文化。特に19世紀英国の小説における笑いや、自伝と伝記の関連性などを研究対象としている。

竜楽 中央大学とのご縁をお伺いします。

宮丸 僕は2005年に英語教員として法学部に着任しました。慶應義塾の卒業で、博士を取った人たちの戦国時代と言われていまして。そんな中、公募で受けたという意味では、くじ引きで当たったみたいなご縁で務めることになったのです。

竜楽 ご専門は英文学でディケンズ。

宮丸 はい、英文学です。学部のときにどういうわけかイギリス文学とかイギリス文化に興味を持って。

竜楽 英文学をやっていらっしゃると、英語教育、英語教師という方面もやるわけですか。

宮丸 英文学をやっていて結果的に英語教師になる人は多いです。英文学とか米文学、また独文学、フランス文学もそうですけれども、みんな研究者のつもりなのです。それで職業としては英語の教員をしている。つまり自分の関心や研究と、自分で教えていることが、ずれているのです。そこが専門の先生方とちょっと違うところです。

 最初は、専門を教えに行こうと思っていたのですが、中央大学法学部との出会いで、専門ではない学生を教えるのはこんなに有意義で楽しくて、面白いものかと思うようになったのです。もちろん専門もそこでは生かすのですが、英語は自分の本来の関心ではないものですよね。そこのところがずれていても、仕事というのは期待に応えるというかたちでやると面白いものだなと、本当に最近、そう思うようになったところです。

竜楽 英語はものすごく多様に変化しているじゃないですか。たとえば、英語をしゃべる国の人を集めてきてコミュニケーションを取らせようとすると、全然できないということも往々にしてあるじゃないですか。

宮丸 そうですね。英語教育の話になってしまっても大丈夫ですか(笑)。英語教育の現場でいうと、学生の需要とちょっとずれるところなのですが、一般的な学生がどういう英語を学びたいかというと、しゃべって、聴いて、ネイティブの先生がいてというイメージなのです。

 実際に英語をしゃべる授業は多いのですが、決してネイティブ・スピーカーではない。フランス人がいたり、ポルトガル人がいたりします。あるいは我々も英語で、“Hi,everybody”から始まって、英語を教えるのです。学生からすると、イメージしたものとちょっと違うらしいです。

 ところが実際の英語がなぜこれだけ重要になったかというと、世界中の人がしゃべっているからで、イギリス人、アメリカ人だけではないということです。

 ですから、学生が英語がペラペラになりたいというときに、格好良い英語を、格好良い発音を学びたいと言うのですが、僕は、それはそんなに重要なことではないと思います。むしろ世界中から来た人たちのいろいろな訛った英語が理解できるかどうかなのです。あるいはいろいろな階級の英語があって、それを広く聞けるほうが国際的に使える英語になるだろうと思うのです。

 学生たちには、そういう広くいろいろな英語を聞き取れる力のほうが重要で、下手に発音が良いと「こいつはしゃべれるんだ」と思われ、困ってしまうことだってあります。

 英語が使われる環境は、かつてイメージされるものより、どんどん変わっていると思います。

竜楽 たとえば英語の多様性みたいなものは、日本語であったら、ああいうふうにはならないのですかね。

宮丸 日本語もここ10年か20年くらいでスタンスが変わってきました。昔は、標準語の絶大な力がありましたよね。最近でこそNHKでも関西弁講座を始めたり。あとは何より歌がそうですよね。80年代くらいまでは、関西人の歌でも標準語で歌われていましたよね。そういうものがいろいろ出てきたのは、おそらく世界が多様化して、いろいろな小さな文化や、マイナーだと言われている文化に着目しようとか、大事にしようという流れの一つでしょうね。

コミュニケーションの難しさ

竜楽 日本語を習っている外国人同士が日本語でコミュニケーションができないということはあり得るということですかね。

宮丸 かつてあり得たそうですね。東北の人間と九州の人間で、何を言っているか言葉が通じないことがあって、これは軍事的にも問題だろうということで、お互い日本人同士の意思疎通を可能にしようと、標準語が普及した。

 そして、日本は割合素直な文明開化を遂げたので、きれいに普及したほうなのでしょうね。僕の研究対象であるイギリスなどは、先進国の一番最初を走っていたのだけれども、方言やら階級ごとの言葉は今でも残ったままですよね。だから“Sorry”とか“Hello”とか、その一言でどの水準の人だということがわかってしまうことがあります。

竜楽 2人の外国人が、同じところで日本語を習うとしますよね。その人たちが日本語でコミュニケーションをする場合に、訛りでわからないということはあり得ますか。

宮丸 あり得ると思います。つまり、標準語を習った人間が関西に行ったら、関西弁がわからないのではないですかね。

竜楽 ということは、コミュニケーションを取れないということですよね。

宮丸 取るのに障害があるでしょうね。ダニエル・カールさんが東北弁で話題になっていましたが、あの方の東北弁を、日本語を勉強した外国人がどれくらい聞き取れるか。その聞き取る力が、おそらく英語を勉強するときに我々が必要なのではないかと思います。イギリスではこう言うとか、アメリカではこう言うとか、イギリスでこういう発音の人は上流階級の人だとか、そういうことです。

竜楽 それはありますよね。たとえばポルトガルだと、「ラ※[rr]」というのは下町の人間で、上に行けば行くほどフランス風に「ハ※[x]」となるみたいですね。かつて出稼ぎのためパリに住むポルトガル人の数がリスボンの人口を上まわっていたそうで、影響がすごくあるようです。

 先ほど日本語のことで、外国人がお互いにコミュニケーションができるかと申し上げたのは、私は海外公演を一昨年くらいから始めて、今年で3年目になるのです。それは別にその国の言語が日常会話として話せるわけでも何でもなくて、イタリアへ行ったら“Grazie”とか、“Buongiorno”とか“Scusi”と、私が話せるのはその程度のことだけです。ただ、作品はイタリア語で話せるのです。フランス語もそうなのです。

 そうすると、イタリアでもフランスでも同じ現象が起こって、そこに住んでいる日本人に私の言っていることが聞き取れないのです。ところがイタリア人とかフランス人には聞き取れるのです。先ほど先生は、いろいろなかたちの発音でも、どんなことを言っているか理解できることが一番望ましいとおっしゃいましたが、なかなかそういうことはできていない。

宮丸裕二

宮丸 その言語を話す人ほど、本当はいろいろな人が話したことが聞こえそうなものなのですけれども、どうなんでしょうね。

竜楽 それが本当に不思議なのです。『長短』という気の長い人と短い人が出てくる噺をイタリアでやったら、15年くらい住んでいる写真家の人が「竜楽さん、『長』はいいけど、『短』がちょっと違うのね、イタリアと」と。打ち上げ会場に行ったら、今度は二十何年住んでいる人が「竜楽さん、『短』はいいけど『長』がだめ」と。では両方だめじゃないかと(笑)。

 それでイタリア在住の別の日本人に「どちらもだめだと言われた」と話しますと、「イタリア人の若い舞台女優がいるから、どちらがいいか聞いてみる」と。たずねた結果は「両方良かった」(笑)。それは絶対に、うまい、下手ではないはずなのです。言っていることがわかるということなんじゃないですかね。ですから、そういう耳を作れれば、どこでもコミュニケーションができるということなのでしょうね。

宮丸 耳と、最終的には舌なのでしょう。でも舌はパターンですからね。よく日本人は「l」と「r」が苦手だといっても、口でかたちを覚えてしまえば、自分では聞き分けができなくても、向こうには伝わっていることがあるみたいですね。

竜楽 私にフランス語を教えてくれた方は、いっさい舌の位置とかを言わなかったです。「これと同じ音を出してください」と(笑)。そうしたら、舌の形でどうなっているかわからないですけれども、「その音でいいです」と。

宮丸 言われたときのものを覚えるしかないですよね。「今の形だ」と。

竜楽 あとは音をずっと聞いて反復するだけでした。フランスで7公演、イタリアで8公演やりました。聞いている人たちはほとんど、現地の人でしたが、まったく障りなかったです。

 ただ、落語に限らず、コミュニケーションは言語以外のものがかなりの割合を占めるので。

宮丸 おそらく落語のアクションとかは、しゃべる言葉以外の部分で惹き付けるのではないでしょうか。

竜楽 そう思いますね。日本人は何を考えているかわからないとか、表情が乏しいとか言われるじゃないですか。実際に江戸落語のやり方だと、国際的にはやはりかなり乏しいのです。つまり、江戸のわりとお座敷芸的なものになっていった時期が早かったのに比べ、大阪は大道芸の時代が長かった。あとはもともと関西人の派手さもあった。大阪の演技が国際スタンダードなのだと感じましたね。

国や地域による共通点と違い

宮丸 アクションのことで言うと、イギリス人がよく知られているのは、日本人と同じくらいシャイな人たちだと。それこそ笑いの話になると、自分でジョークを言ったときに、絶対に自分からは笑わないです。しれっと面白いことを言うのだけれども、わかる人だけ笑う。それと同時にアクションとか、顔が笑ったりとか、「今、面白いことを言いましたよ」ということがないので、そこのところが言語も含めて難しいところですよね。

三遊亭竜楽

竜楽 私はイギリスではまだやったことがないのですけれども、イギリスはそういう点で言うと、日本人の笑いのツボにはドンピシャだと聞いたことがあります。

宮丸 そんなところがあると思います。ドンピシャなのはそういう「今、面白いことは言っていませんよ」という顔で面白いと思っていることを言うところですかね。あれはたぶん最初は、受けなかったときの予防策だと思うのです(笑)。「面白いことなんて最初から言おうとしていません」という。ただ、それが素人と思えないような、一個の芸になっているようなのです。すごく意地悪なこととか、すごい皮肉を言ったときに、聞いたほうは笑うのですけれども、言っているほうは顔が少しも変わらない。大英帝国という大きな国ですけれども、神経としては内向的なところがあって、わかる人だけわかればよいということがあるので成立するのだと思います。

 ですから、大きい声を出したり、オーバーアクションをするというのは、芸としては一つあると思うのですが、三島由紀夫などは、文学とかでダーンとか、ガーとか、擬態音だとかアクションというのは、言葉の退化だと言っています。そこのところを考えると、言葉だけがすべてではないですが、言葉を追求すればするほど、顔、表情とは離れていくのではないかと思うのです。

竜楽 地域の違いもあるんじゃないですかね。狂言でも、江戸の狂言と、京都を本拠地とする茂山家の狂言は全然、違いますよね。満面の笑みをこしらえて、こうやって客席を向く。ところがこちらでやっている野村万作先生などだったら、「なぜ顔を変えるのだ」と怒られるでしょう。

 その違いは、イタリアとフランスでやって感じたのですけれども、イタリアは派手にやればやるほど受けるのです。途中で拍手がなりやまなかったりします。フランスではまるでウケ方が違いました。

 たとえば『ちりとてちん』という話だと、知らないのに知ったかぶりする人が来る。彼に腐った豆腐を瓶詰めにして出して、「これ知ってる?」というところから佳境に入るのですが、その前にうまい酒を出す。「こんな灘の酒、本物があるわけねえ」と言って呑みます。呑むときにすごくうまいという表情をするのですが、目が合うと、「うっ……」と相手の顔を見て、「まずい」という顔。そういう心の動きが表情に現れている部分は笑いが少ないフランス人の方がより細やかにキャッチしている気がしました。

日本の笑いの特徴

宮丸 僕も一回だけ外国で落語の真似ごとをしたことがあるんです。落語の真似ごとをしたというだけで、本当は師匠に100回ムチで叩かれていいのですが。

竜楽 いえいえ(笑)。

宮丸 ディケンズの『クリスマス・キャロル』という作品を僕の先生の一人である小池滋先生が落語風に訳しているのです。先生が落語をお好きだというのもあるのですが、ディケンズの作品の書き方はまさに口術、話術を文字にしたものだと。ディケンズはしゃべるのが好きだったのです。しゃべり言葉で書いているのが本当だから、これはしゃべり言葉として訳すのが正しいという理論に基づいたものなのです。それで落語風に訳されているのです。

 外国でディケンズの集まりがありまして、それを紹介したらお前が読んでみろとなりましてそれでやったのです。向こうもディケンズのファンたちなので、細かいストーリーがわかっているから、「ここでこう言うはずだ」とわかっている。これは何人かが出てくることを一人の芸でやるので、やりやすいことはやりやすいのです。それをやるときに、仕草が面白いのか、違っているから面白いのか。タイミングよく笑うというのは、自分のような素人がやっても確かに経験しましたね。

竜楽 そのときは、一人何役かを右向いて、左向いて、っとやるんですか。

宮丸 一応、素人なりにやりました。逆にならないように気を付けて。

竜楽 私が知っている限りでは、海外のもので小噺はあっても、小噺を演ずるのはあまり文化としてないのかなと思って。つまり、右向いて、左向いてしゃべっていると、2人の会話だということは日本に生まれ育っている人だったらだいたいわかるのです。ところが向こうへ行ったらそれが伝わらないのです。

 噺をやるときに『気の長短』をなぜ選んだかというと、極端な2人しか出てこない噺なのです。それでいて、こうやって、こうやっていると(大きく左右に首を振る)、2人の人物が余計にクリアになるので、やったのです。

宮丸 一人で話す話芸自体はあっても、「と、彼が言った」とか「と、次のやつが言った」と入りますよね。確かに。

竜楽 ナレーションが主体の講談のようなかたちに近いのかもしれないです。だだ落語の形式を事前に説明してあげたら、ネタがそういうネタだったせいもあるのですけれども、イタリアもフランスもほとんど寄席と同じ間で笑いましたね。ただフランス人は絶対に拍手はしなかったです。

宮丸 それは国民性によるものですかね。

竜楽 そうですね。あと「ちりとてちん」を口演した時、すごいなと思ったのは、日本食が欧米社会に行きわたっているので、酒、豆腐、醤油、刺身、わさびくらいまでは、その会に来る人はほとんどわかっていて説明する必要がなかったことです。

 ただ「腐った豆腐」を「カビが生えた」と訳したらピンとこなかったのです。外語大の元先生で、イタリアへ行って何十年も住んでいる大学者に、「これでいいんじゃないかな」と言われたのがあまり受けませんでした。

 よくよく考えると、「カビが生えている」という表現は、向こうでは必ずしもまずいものではないのです。

宮丸 そうですね、調理法の一つというか、加工の一つなんですよね。

竜楽 チーズなどはそうですよね。それで結局、ミラノの友達の意見を入れて、“andato”(「いく」という意味)と訳しました。日本語で言うと「いっちゃってるよ、これ」という感じらしいです。だからちょっと俗語的に使うらしいのですが、大ウケしましたね。

 そのイタリアの大先生もおっしゃっていたのは、「僕はこっちがいいと思うけど、本当のことはイタリア人じゃなきゃわからない」と。三十何年住んでいる方がそうおっしゃるんですから海外の方に日本の笑いを理解していただくには相当レベルの高いコミュニケーション能力が必要だと思いましたね。

宮丸 僕は講演でも笑いのことを言うこともあるのですが、教室でも学生に飽きないようにジョークものを読んだりするのです。そのときに学生に、日本の笑いと、ここに出てきたイギリスやアメリカの笑いは、英語で読んでみてどうだったかと聞くと、かなりの学生が、日本にはボケと突っ込みがあるけれども、世界の笑いにはない、ほったらかしだと。

 僕はそれに全面的に賛成ではなくて、ボケと突っ込みは漫才を通じて普及したもので、落語を見ると、ないことはないけれども、そんなに多くはないかなと思うのです。オチの部分に突っ込んで終わるものがどれくらいありますか。

竜楽 ああ、ないでしょうね。かぶせとして、「○○だ」、「冗談言っちゃいけねえ」というオチがあり、それを冗談オチと我々は言っているのですけれども。それは本来のオチではないですからね。長い話がもともとあって、途中で切らなければならないときに、お約束で「冗談言っちゃいけない」という。「んなアホなー」とか、そういう感じの終わり方の一つなので、本来の正しいオチではないですよね。

宮丸 僕はたぶん日本の笑いも変質しているのだろうと思うのですが、今の若い子たち、学生あたりからすると、ボケと突っ込みがむしろスタンダードですよね。テレビなどの影響でしょう。面白いと言われる人たちは、日々、仲間内でもたぶんボケと突っ込みをしているのでしょう。それはずいぶん日本の笑いを変えたのだろうと思うのです。落語を聞いてわかるのだろうかとまで思ってしまうのです。

竜楽 細やかな余韻を楽しむとか、そういう感性とは別で、その突っ込みで結論付けてしまうことになる。

宮丸 突っ込みも一つの親切な技術です。「ここが面白いところだよ」と教えてあげているわけですよね。そのボケと突っ込みを繰り返していくかたちの中でしか笑えないというか、たぶん、ここでみんなで笑うのだという勢いを付けるのでしょうけれども。

 それがないときには一つの知性と判断力が必要で、話の中から、「今、面白いことを言ったはずだ」ということを自分の解釈で見つけて笑うわけですよね。

大学生と外国人に共通するもの

竜楽 実際にいろいろな意味で、海外で落語をやることは、日本の10代から20代の人の前で落語をやるのと、感覚的にはほぼ変わらないです。

宮丸 かなり「よっしゃ、行くぞ」という感じなんですか。

竜楽 それはありますね(笑)。つまり今の中高生くらいにわかるように口演すれば、向こうでもわかるというレベルですね。これからどんどんそうなっていくので、噺が変質して行かざるを得ないのではないかと思うのです。

 もともと江戸や大阪の地方芸能であったものが全国区になったこと自体、そこで相当、変質しているはずなのです。そうしないと共通認識が持てないですから。そのようなことで言えば、これだけ若い人がわからなくなってきて、世代間の意識の差が大きくなってしまうと、逆に世界に広げてもいいんじゃないかという感じを、この3年くらいですごく持ちました。

宮丸 確かに外国人と大学生などは、そういう意味では同じようなというか、同じものを共有していないという意味では共通していますね。

 教壇に立って面白いことを言う義務は全然ないのですが、つまらないと批判を受けるので、何か気の利いたことを言わないといけないというたぶん責務があるのでしょうね。しかし、それは高座よりもちょっと不利なのです。先方は笑う準備がなくて来ているので。

竜楽 それにもともと話すことが笑わせる題材ではないですからね(笑)。

宮丸 今は批判も大変なものです。この先生は面白い、この先生はつまらない。この先生は言ってることがわかる、わからない。もう教員がサービス業になってきたのだと思うのです。

竜楽 なるほど。噺で「ダレ場」というものがあるのです。このダレ場はつまらないところなのですが、本当にダレさせてはいけないけれども、惹き付けるようにしてもいけないのです。そこはダレさせておくことによって、後でまたお客さんがバーっと盛り上がる。そのダレ場をいかにしっかりとできるかというところで、ダレ場をダレさせずに普通に聞かせるのが芸人の腕なのです。

 我々も成人式の講演などを頼まれたりして、このあいだもやったのです。

宮丸 恐ろしいことをされますね。

竜楽 そうなんです。そういうときは、音楽的な台詞回しにしますね。つまり、内容はわかる人とわからない人がいるので、内容ではなくて、緩急と強弱で音楽的に語る。そしてあまり間を空けないで、音楽的に語るように今はしています。そうすると、何となく聞いていられるというか。そういう聞かせ方が、わからない人の前では今一番いいのではないかと思ってやっているのです、でも本当に難しいですね。

宮丸 しかも落語が持つ社会的な位置付けを考えると、あの世代ではおそらく、好きな人がいても、かなり変わった人だと思います。僕の世代でもそうだったと思うのです。『笑点』やNHKでちょっと入るけれども、あとは自分から出かけて行ったり、テープで聞かないと、出会うことがない。そこに行っている人たちは中高年以上という位置付けだと思うのです。この進路を選ばれたときに、おそらく落語にはすでにそういうものだったのではないかと思うのです。それでも敢えて選ばれたのですか。

竜楽 自分が好きだったということが一番大きいですけれども。

 だいたい昔から落語のお客さんは50歳以上です。それはここ10年、20年で変わったことではなくて、基本的にはこれは大人の芸なのです。座って、ただ右向いて、左向いてというだけで、その芸から何かを感じようとか、汲み取ろうというのは、聞き手にとって一番高度な芸で、聞き手を当然、選ぶ芸なのです。

 あと、今、海外公演をやったり、若い人の前でやるときは、刺激ですよね。常に面白い、変化しているような話し方、語りをやっていると聞きますよ。ですから、それは演じ手の腕だと思いますけれども、それは昔以上にだんだん腕が必要とされていると思います。

 昔は説明しなくてもわかることは山ほどあったし、そこはお約束で話ができたのですけれども、そうではなくなっていますから。しかも様々な視覚情報の中で育ってきて、イマジネーションの幅がどんどん狭くなってきていますよね。そうすると、落語というのは、どんな絵を描けるかというのはその人にすべて委ねられているので、それを補助するだけの演者の力が非常に必要になりますね。

 これは本当に手前味噌なのですが、落語というのは道具が何もないではないですか。舞台がなくて、一人で首振るだけで。言葉だけ。だから世界では絶対にできないと言われ続けていたのです。ところが実際にやってみたら、言葉しかないからできることがものすごくあると思ったのです。江戸時代のことを私たちは語っていますけれども、本当の江戸を知っているわけではない。聞き手の人たちも本当の江戸を頭に描いているわけでもないですよね。それぞれが全部違うものを頭に描いていながら、コミュニケーションとして成り立っているというか、そういう強みというか。

 ですから、イタリア人やフランス人が何を頭の中に描いているかわかりませんけれども、とにかく、着物を着ている人間が出てくるストーリーであって、日本の古いもので、こう戸を開けて、こう閉める、というだけ。その程度の情報を与えておいて語っていれば、完全に成立してしまう芸なのです。それがここ2、3年やっていてキャッチしたことですかね。

宮丸 我々の文学批評の中でもまず出てくるのがそれで、言葉で語るから、まさに「きれいな絶世の美女がいました」と言えてしまう簡単さとそこから広がる余地がある。ただ文学作品の場合、名作であればあるほど、問題は必ず映画化・ドラマ化されることです。そこで一つのイメージに固定されるのです。学生も映画を見て「小説を読みました」とズルをして、レポートを書いてくるのですけれども、わりとばれるのです。そんなものは原作には書いていなくて、映画に映っていただけだと。

 想像力を殺してしまうという意味では、本当は文学部の学生にも小説を読んでから映画をいろいろ見てほしいです。ただ映画は入り口としてはよいので、映画から入る子が多いことは事実で、かなりそこで限定されてしまうという意味ではもったいないですね。話芸で話がその人の中でいろいろと広がるように、本当は小説から読んでほしいのです。

竜楽 名作というのは、それだけイマジネーションを広げる作品なのですね。

宮丸 そうだと思います。

国際人になるためには?

竜楽 最後は、通り一遍で申し訳ありませんが、中央大学のイメージとか、中央大学生に望むことみたいなかたちで締めていただいて。それと英語。この話でいろいろ出てきていますが、国際人になるためにはというようなアドバイスが少しいただけるとありがたいと思います。

宮丸 今の学生のすごく期待が持てる良い面、実際に期待している面からいうと、僕が見る限りでは、ものすごくよく勉強するようになりました。日本によくある、制度としては大学は勉強するところであるけれども、それは建前で、本音としては「そういうことになっているけど勉強しないところだ」ということで、大学とはそういう建前的な存在だったと思うのです。勉強するところで、授業があるけど出なくて、試験だけ受けて、先生もそれをそこそこに採点して、成績をあげる。なあなあな機関にかなりお金や場所、時間も学費もかけていたのです。しかし大学がちゃんと勉強する場所になってきた。何しろ勉強する習慣が本当に以前よりできてきて、レジャーランド化と一時言われて、それをまだ引きずっている学生もいますが、ただ本当によく勉強するようになったと僕は感心しているのです。

 一方で、「本当に勉強するところだったの」と、入ってから気付く学生も多いせいか、「これをやらなければいけないのだ」と思ったときに、高校までのカリキュラム上の勉強に乗っかるようなところがちょっとあるのです。

 僕は音楽の授業もやっていて、各々の学生にも音楽だったらこういうロックが好きだとか、いろいろあるのですけれども、それ以上になかなか広がっていこうとしないもったいなさを、歯がゆい思いで見ています。つまらないと思って、空き時間だから取った授業でも、こんなに面白い話が聞けるかもしれないとか。この授業をうっかりやらされたために、こういうことに気付いたとか、こういう本があることを知ったとか。あるいは国語の授業で落語を見に行くかもしれませんね。見て何か自分の知らない世界を知ったら、それが落語でもオペラでも漫画でも、何であっても一生を変えるくらいかもしれません。場合によっては進路を変えるかもしれない。進路を変えなくても、それが楽しみで仕事をやっていられるという大事なものになり得るものに出会うかもしれない。

 それなのに、今、自分の人生が「こういうふうに進んでいって、これをやった後にこれをやって、その後にこれなんだ」と固めすぎるかなとちょっと思っています。まだ自分は何者でもない、20歳そこそこで何も決まっていないのだから、いろいろとアンテナを広げて、何のためになるかわからないからいろいろな人と接したり、いろいろな授業に出たりしてほしいのです。

 それをすることがおそらく国際化にも重要です。国際化というのですが、実際に外国人の先生が来たらびびってしまって、黙ってしまいますよね。英語が下手なのは知っているから、恥をかくつもりで話してみなさいと。そこで損して、恥をかいて、労力も捨てる思いでやっていく。そういうときにしか大事なものとは出会わないだろうと思うので、あまり今の自分を大したものと思わずに、それを壊すくらいの気持ちでいろいろなものに挑戦したりしてほしいと思います。

 「最近の若者は」と言うつもりはなくて、「若者というものは」ということだと思うのですが、ほかの人のことも決めつけすぎる嫌いがあるのかなと。まだ世界が狭いということだと思うのです。そうすると自分が後で制限されることになるとか、大事かもしれないものに出会う機会を自分から逸することがあるかもしれない。

 何か大事なものに一つ出会ったらわかりそうなものなのです。何が重要になるかわからないということでは、仕事をする前の大いに時間があるときなので、視野を広げて過ごしてくれればと思います。

竜楽 なるほど、なるほど。だいたい予定調和で、この先はこのように行くということを決めがちなんですかね。

宮丸 我々が示したサンプルがそうさせるのかもしれませんけれども。

竜楽 今、外国に出たがらないと言いますよね。全般的にそういう傾向なので、ぜひ先生の良い授業を聞いて。

宮丸 善処したいと思います(笑)。

竜楽 世界に飛び出していく若者が一人でも増えることを願っています。こんなところで。ありがとうございました。

対談を終えて

 この対談も回を重ねてまいりましたが笑いをテーマにしたのは今回が初めて。宮丸先生のお話たいへん勉強になりました。

 若者の言語能力の欠如が何かと話題にのぼる昨今ですが、我々落語界も他人事ではすまされないのです。

 楽屋でのお話。色紙を書いていた某師匠がひとりの前座を呼んで言いつけました。「朱肉を買ってきてくれ」

 しばらくしたら牛の赤身を手に戻ってきたそうです。これには後日談がありまして焼き肉パーティをやる時「ホルモン」と言ったらスコップをもってきたとか…。

 先日彼の高座を聞く機会がありました。意外や意外落語はなかなかのモノ――。

 シャベル方ではホリ出し物でした。