トップ>Hakumonちゅうおう【2010年125周年記念号】>【創立125周年を迎えて】特別講演(中央大学・学生有志の会主催) 長い歳月、年齢差があっても変わらぬ人との『出会いと別れ』を曲に託す
中央大学学生歌『惜別の歌』の作曲者 藤江英輔氏(昭和25年法卒)が語る、その生い立ち
本学の卒業式で中央大学の学生歌として歌われている『惜別の歌』。昭和19年につくられ、66年経た今日も歌い継がれている。作曲したのは本学OB(昭和25年法卒)の藤江英輔氏で、中大予科生当時に、召集令状がきて、戦地に赴くことになった学友に哀惜の情を込め、島崎藤村の詩にのせて曲をつけた。時代が移り変わっても、人の心情を揺さぶり続ける歌は、どうして生まれたのか。10月6日、藤江氏を多摩キャンパスにお招きして、『惜別の歌』の生い立ちについて講演いただいた。(編集室)
さて、『惜別の歌』ができましたのは、昭和19年、今から66年前です。中央大学の歴史の半分くらいを占める歳月ですが、この長い間、歌い継がれ、またこれからも中央大学がある限り歌われるであろうこの『惜別の歌』が、どのようにして生まれてきたのか。それは長い歳月を語るということではありますが、歳月とは何か、この問題が非常に重要だと僕は思っています。
指を折り、歳月を振り帰る藤江氏
今、ここにお見えの皆さまも、年配の方から若い大学生まで、その年齢差はずいぶんあると思いますが、長い歳月の間から見れば、そう変わったことではありません。いや、むしろ共通しているものがあるはずです。その共通しているものは何でしょうか。それは人との出会いと別れです。出会いというのは、言うまでもなく心震える喜びであり、別れというのは悲しみを笑顔で装う、そういうときの悲しみです。これは今、何歳であるかということには変わりなく、万人が、自分の歩いてきた道を振り返ったときには、誰もが是認することだと思います。
そして、自分の生きている人生というのは、ただ一人の人間の履歴書ということだけではなく、その生きている時代に吹いている時代の風というものがあります。時代の風、これはそのときどきによってずいぶん違うものです。あるときは春風駘蕩、暖かい風が吹くときもありますが、あるときは秋霜烈日、つらい、つらい風が自分の身辺を吹きまくることもあります。そしてこの『惜別の歌』が生まれた、私の生きていた青春時代は、その苛烈なつらい、つらい風が吹きまくる時代でありました。
僕が中央大学に入学しましたのは昭和19年4月1日です。土曜日です。そこまでちゃんと覚えています。うれしかったですね。入学式は神田駿河台にあった中央大学の大講堂でした。クラス編成は3組になっていて、英法、経済、独法という3クラスでした。1クラスだいたい40人の生徒がいて、全部で120人いました。
昭和19年というと、太平洋戦争ももう末期です。その4月のころの日本というのは、まだそれほど、東京に住んでいる限りは空襲もそんなにありませんでしたし、偵察機が飛んできて、ちょっと爆弾を落とす程度のことはありましたが、まあまあ平穏な日々が続いていたころです。そして、その4月1日に会った友達たちと、みんなで初対面のあいさつをしたり、握手をして「よろしく頼む」などと言って、大学というところはアカデミズムの風が吹いていていいなと、大講堂の中には何かそういう空気、においがありました。これこそ学問する場所だと。
実際に学校が始まってみると、国語では、例えば『万葉集』をやったり、『源氏物語』を読んだり、『徒然草』を読んだり、僕は独法に入ったのですが、ドイツ語では最初の2か月ぐらいは文法を教わり、der、des、dem、den という定冠詞の変化から入って、2か月たったときにはシュトルム(ドイツの法律家・作家)の『みずうみ』という小説を読み始めたのです。嬉しかったですね。6月ぐらいまでは、そういう大学での学問の世界の生活が送れました。
ところが19年の6月になると、もう太平洋戦争も末期で、負け戦、負け戦。昭和16年の開戦のころの真珠湾で勝ったのが夢のような、もう負け戦ばかりです。昭和18年のミッドウェー海戦ではばたばたに負け、これはいかんと思い始めたころ、昭和19年になると、6月に西太平洋の、今は観光地になっているグアム島、マリアナ諸島の大きな島々が全部、敵の手に落ちました。グアム島は太平洋委任統治地といって、日本が委任されてそれを統治していたので、邦人も住んでいました。軍人ばかりではなく、1万の邦人、一般人です。そういう人たちがみやげ物屋をやったりして住んでいました。1万の在留邦人と、むろん軍隊も駐留していて5万いたのです。その6万が全滅したのです。
講演に耳を傾けるOB・OGら
サイパン島は1万8000人、これは守備隊というかたちで、軍人ばかりでしたが、全員玉砕。1人も助かる人はいなかったのです。そして、7月17日、あの悪名高い東条英機の内閣が総辞職したのです。これはサイパンやグアム島陥落の責任を取らされたということです。
もうそのころになると、学問をしているときではない、という判断だったのでしょう。7月に学徒動員令というのがあったのです。その前の年の昭和18年は学徒出陣という、神宮外苑で氷雨降る中を行進する、今でもニュース映画みたいなものをときどきやりますが、あれの後の組織です。学徒出陣というのは法文系の学生は20歳になれば徴兵延期はないということで、全部一般の人たちと同じように、軍隊に行かなければいけない。そういう特例がありましたが、僕らが昭和19年7月に受けたのは、「学徒は勤労動員に就くべし」という特別措置です。学校はそれで閉鎖されました。教室は閉じられて、どうしたかというと、日本全国にあった軍需工場に全部動員されて、兵器をつくるという仕事が日常生活になりました。
動員されたのは、東京、板橋にあった陸軍第一造兵廠という大兵器工場でした。日清・日露の昔からつくられていた陸軍の兵器工場で、僕らが行ったころには、15万坪ぐらいの広い敷地の中に、赤レンガでつくられた工場が10棟以上も建っていました。旋盤のモーターの音がごうごうと響く大軍需工場でした。そこへ10月1日から行って、軍のためにペンを捨てて兵器をつくる仕事に埋没するようになりました。
そこは僕ら中央大学の学生だけではなく、他の大学、立教や早稲田の学生もいましたし、女子学生は、東京女子高等師範学校、これは官立ではいちばん上位にランクされる学校で、そういう女子高等師範学校の女子学生から、旧制の中学、女学校という小学校を卒業して、だいたい5年制の学校に行っている生徒たちも動員されて仕事をしていたのです。我々の生活は日勤と夜勤が1週間交代という勤務になりました。
そういう中でも、召集令状が来るのです。なぜ、勤め先、任地の軍需工場まで、召集令状という軍の発した1銭5厘の葉書が来るかというと、空襲が始まって、東京の町も虫に食い荒らされた地図のように、だんだん汚い町になってきて、いわゆる戦災に遭い、普通の郵便物が届かなくなっていたのです。中大の予科生というのは、日本全国から集まっていたので、たいていどこかに下宿するとか、親類の家に寄宿するという生活だったのですが、そういう家もどんどん焼けていって、郵便物が届かなくなった。そういう弊害があったので、大学に尋ねて、「今、何某はどこにいるか」ということを調査し、陸軍造兵廠に勤めているということがわかり、その工場まで召集令状が届くようになったのです。
藤江氏は淡々と穏やかな口調で語り続けた
その召集令状が、派遣されていた工場にある学生室という一室に届くのですが、それをご本人に届けるのが僕の役目だったのです。まあ、みんな覚悟はしていました。けれども、その届けられたご本人は、一瞬、顔がサーッと、青くなっていって、届けるほうの私も、何かその瞬間までごうごうと聞こえていた、工場内の大きなエンジンの音がぱっと止まってしまったような、一瞬の静寂が流れ、緊張感といいますか、そういう衝撃が流れるような一瞬があったのです。それ以上、交わす言葉がないのです。「おい、きたぞ」「うん、そうか」「まあ、しっかりやってくれ」。ほかにいろいろな感情が山ほどあるのですが、表現することができなかった。
そして、その学生は明日からもう工場にこない。入隊を指定された軍隊に出向かなければいけません。いやあ、つらかったですね、あの別れは。
そういうときに、一緒に働いていた東京女高師(現・お茶の水女子大学)の女子学生から、「この歌をご存じ?」と言って手渡されたのが、『惜別の歌』だったのです。僕はその歌は知っていました。明治30年に島崎藤村が春陽堂から第一詩集として、『若菜集』という詩集を発売したのですが、その『若菜集』の中に収められた『高楼』で、「とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな」、詩が全文平仮名で書いてあったのです。 姉と妹、嫁に行くお姉さんと、それを送る妹の対詠で組まれた、非常に優しい歌なのです。僕は藤村の詩集が前から好きで、その歌は知っていたのですが、これは僕も知っているからということで、一瞬、話題の時間を持ったのです。その歌に何とか曲をつけたいとは、つねづね思っていたのです。
昭和19年12月、東京地方に珍しく大雪が降ったことがあります。僕らは夜勤の勤めを終え、朝6時ごろ、工場から表に出てみると、ひざが没するぐらいの雪が積もっているのですね。後で東京気象台が発表したときの記録によると、その日の積雪は38センチだったそうです。吹き溜まりには腰を没するぐらいの雪が積もっていました。
その雪の夜明けの道を、工場の仕事が終わって、それぞれ自分の家に向かって帰る。私が通っていた家は、造兵廠から徒歩で5キロぐらいの距離にある、僕のじいさん、ばあさんが隠居所として使っていた西巣鴨にあって、近いからということでそこから通っていたのです。
その5キロの道を、当時の学生のスタンダードな服装だった黒マントに朴歯の下駄という姿で歩いて帰ったのですが、朴歯の下駄に雪が食い込んで、雪道を歩くものだから、どうしても転んでしまうのです。転んでは起きて、立ち上がり、また歩いて転んで。そういう時間の中で、突然噴き出したのは、あの『惜別の歌』の第3節、「悲しむなかれ わが友よ」。あのメロディーが突然噴き出したのです。原詩は「かなしむなかれ わがあねよ」ですが、それが「悲しむなかれ わが友よ」になって噴き出してきた。
講演は1時間余り行われた
家に帰って、1日でそれに曲を付けました。それからは、工場に通って旋盤を動かしている最中に、「遠き別れに 耐えかねて この高楼に のぼるかな 悲しむなかれ わが友よ 旅の衣を 整えよ」と口ずさみながら旋盤を動かしていると、みんながそれを聞いていて、「それはどういう歌だ。おれにも教えろ」と。そのようにして、発表したわけでも何でもないのですが、みんなが覚えてくれたのです。そしていつの間にかそれが、赤紙がきた、召集令状を受け取った学友たちを送る送別の歌になったのです。これは僕ら中央大学の同級生だけではなく、その軍需工場に働きに出ていた、中学から大学までの人たちが、男も女もみんな覚えてくれました。
職場からその友人たちを送るときには、みんなもその歌を歌い、合唱して、いつの間にか送別の歌になったのです。送別会をやっても、冷えた番茶1杯ぐらいでしか送ることができなかった。そういう送別会を少しでもなぐさめてくれたのが、この歌だった。それが、この『惜別の歌』の最初の出発点でした。
そのころは非常に空襲が激しくなり、昭和20年になると、例の東京大空襲をはじめとして、名古屋、大阪、北九州、そういう大都会はほとんどやられました。もうひどい時期でした。他に歌う歌が何もないので、最後の最後まで、『惜別の歌』を歌った記憶があります。
そして、8月15日、終戦の日がきます。僕らはいまだに「終戦の日」とは言わないで、あれは「敗戦の日」「敗戦記念日」という言い方をしていますが、一般には「終戦記念日」ということになります。
この日、昭和天皇の「終戦の詔勅」が読まれました。僕の家は幸いにして焼け残っていたのですが、家の周辺の人たちはみんな焼かれて、防空壕生活をしている人が多かったのですが、ラジオが僕の家1軒にしかなかったので、みんな、そのラジオの放送を聞きにきました。三極真空管のボロラジオから聞こえてくる昭和天皇の声は、どうもはっきり聞こえなかったのですが、ただ一つ聞こえたのは、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」、この言葉だけはなぜかはっきりと聞こえました。
そのとき僕は思わず涙を流しました。これは生き残った僕らのために流す涙ではなくて、死んでしまった人たちの魂はいったいどこに帰ったらいいのか、もう帰る場所はないじゃないか、そういう悲しみの涙でした。暑い日でした。
それから、僕が何をやったかと言うと、焼けてしまって、瓦礫と化した家々が、近所にもたくさんありました。なぜ僕がそういうことをやったのか、自分でもわからないのですが、スコップを担いでいって、その瓦礫の山を崩し始めたのです。瓦礫の山を崩して、何をしようとしたのか、よくわからないのですが、とにかく何かにぶつかっていった。自分の憤りというか、そういうものをぶつけたかったのでしょうね。
1か月ぐらい、ただそういう生活を続けたという記憶がありますが、10月になって、中央大学が再開されました。戦争へ行って、戦死して帰ってこない学友も十数人いました。地方からも、もう上京できないと言って、大学をやめるという手紙をくれた友人もいました。僕は群馬県の沼田というところに住んでいる友達の家まで、「学校だけは続けようや」と勧めに行ったのですが、「いや、家の事情でどうしても大学には行けない」ということでした。
そして、大学が再開され、大学に出られる人間だけが集まり、授業も始まったのですが、何かもう、何をやっていいのか、さっぱりわからない。それでも歳月がたつにしたがって、アカデミズムに対する喜びをまた取り戻した人間も、クラスメートの中に何人かいます。大学の教授になった人もいますし、司法試験をパスして判事や検事、弁護士になって司法界で活躍するようになった友人も何人かいました。また、僕のように「行方知らず組」も何人かいて、実に何か空白の時間が流れたような感じがしますが、それでもなぜか『惜別の歌』だけは、何かというとみんなで集まり、歌っていたのです。
『惜別の歌』が中央大学の学生歌として公認されたのは、昭和26年になってからです。中央大学の学生課に、他の大学やいろいろなところから、「中央大学には『惜別の歌』という学生歌があるそうだが、この歌はいったいどういう歌なのか」という問い合わせがずいぶんたくさんあったそうです。そこで中央大学の学生課が調べてみると、造兵廠時代から歌われていて、作曲した人間は藤江英輔という男だということがわかり、昭和26年にグリークラブが、レコード化して、学生歌にしようということで、正式にレコードがコロムビアから発売になり、学生歌となりました。
そのときに、ただ一つ問題がありました。この藤村の原詩は、先ほども申し上げたように、『若菜集』にある『高楼』という詩です。それを『惜別の歌』と題まで変え、「かなしむなかれ わがあねよ」を「悲しむなかれ わが友よ」として、みんな、歌っていた。
これを原作者が何と言うか。藤村は昭和18年に亡くなっていますが、まだ著作権はあったので、さてどうするかということになりました。当時、私が勤務していたのは新潮社という出版社でした。昭和26年、偶然にも『島崎藤村全集全19巻』が新潮社から発売中だったのです。その編集責任者として藤村の息子である島崎蓊助さんがいたのです。三男坊で、本職は絵描きなのですが、自分の親父の全集が出るということで、幸い、新潮社に出勤していたのです。
そして、部屋もたまたま私がいた『小説新潮』という雑誌の編集部と同じ部屋だったのです。これは本当に偶然でした。2人とも酒が好きなものですから、歳は向こうが10ぐらい上でしたが、よく一緒に酒を飲む仲でもありました。
その島崎蓊助さんがいたので、「実はこういうことになって、レコード化することになったのだけれども、中央大学から意向を受けて、ぜひ何とか、レコード化を許してくれないか」と言ったら、蓊助さんが、「そういうことならいいだろう」ということで、許可を得られたのです。蓊助さんが藤村の著作権継承者だったので、このときは本当に偶然とはいえ、ありがたかったですね。
講演会に花をそえた音楽研究会吹奏楽部の演奏
そして、中央大学の学生歌として決定しました。これを一般の人たちが歌うようになるまでには、まだ少し曲折があります。最初に僕がびっくりしたのは、長野県の諏訪湖の近くの温泉宿に行ったときに、温泉宿の女中さんが、掃除をしながら『惜別の歌』を歌っていたことです。中央大学の学生歌としてレコード化はされましたが、まだ一般の歌としては全然、はやっていない、昭和30年ぐらいのことです。
なぜこの歌を知っているのかと聞いたら、昔、東京で働いていたころに覚えたのだと。どこで働いていたのかと聞いたら、陸軍造兵廠だと。陸軍造兵廠には男の工員さんもいたし、女の工員さんもいて、そういう人たちも『惜別の歌』を覚えてくれて、みんな出陣学徒を送ってくれたのです。その中の1人だったのです。これには僕はびっくりしました。
その次に同じような体験をしたのは、岐阜市の柳ケ瀬の一杯飲み屋でした。ギターを持った流しがきて『惜別の歌』を歌った。まだ全然、一般化するなんて、夢にも思わなかったころです。それがギターを片手に入ってきて、歌いだしたら『惜別の歌』なので、これもびっくりして、どうして知っているのかと聞いたら、やはり陸軍造兵廠にいて工員をしていた。そういうことがあり、あのとき、みんな、覚えてくれたんだなということがよくわかりました。
音楽研究会吹奏楽部と男声合唱部による校歌斉唱
東京に歌声喫茶というのが、はやり始めたのはそれからです。昭和32年ごろだったと思いますが、新宿や渋谷、東京の盛り場で、若い人たちがみんな集まって、ビールを注いだコップを片手に歌を歌うのですね。みんながリクエストした歌を合唱する仕掛けになっていて、合唱するのを楽しむ場所が、歌声喫茶だったのです。
その中にリクエストの回数が多い歌としてあったのが、『惜別の歌』です。僕自身は歌声喫茶というのはあまり行ったことがないのですが、はやって歌っていたそうです。これに着目をして、今度はコロムビアが営業的に、この歌だったら売れるぞということで、レコード化してしまったのです。それがあの小林旭が歌った『惜別の歌』の第1号です。
これは昭和36年で、そのとき、コロムビアの邦楽部長が、いまだに目黒賢太郎という顔も名前も思い出すのですが、僕の家にやってまいりました。カラカラと玄関を開けて、その第一声が「お父さまはいらっしゃいますか」でした。なぜ、うちの親父なのか、「どういう御用ですか」と聞いたら、「いや、藤江英輔先生にお目にかかりたいのです」と。作曲家を私の親父と間違えているのです。
藤村は明治5年生まれで、私は大正14年生まれ、年齢差は53歳あるのですが、藤村作詞の歌だと言えば、たぶん、まあ、僕の姿を見て、この人ではなくて、この人のお父さんぐらいの年配の人だろうと、そういう想像でもって、「お父さん、いますか」ということでした。
僕が藤江英輔だとわかったときには、目黒さんもびっくりしてしまって、「あなたが藤江さんですか、まだ生きていたのですか」と(笑)。僕はそのとき36歳でしたから、まだ若い方でしたが、まだ生きていたのですかと言われて、ちょっと二の句が継げませんでした。それから何回も、そういう目に遭いました。「まだ生きていたのですか」というのを今言われるならいいのですが、30代から言われて、若いころはずいぶん年寄りに見られたものだと思います。
その目黒さんいわく、「これは実は小林旭という歌手で、レコーディングも済んでしまって、あと1週間たったら発売になる。そういうことで、ぜひ頼む」と。否も応もなく発売を断ることもできなかったのです。そうして、一般に発売になった歌が、そのころの時代の風があったのかもしれませんが、すごく売れたのです。でも、レコード大賞を取り損なってしまったのです。そのときの1位は『上を向いて歩こう』でした。
最後のころは、パチンコ屋の店頭で、もうがんがん流れているのです。なぜ、『惜別の歌』がパチンコ屋から流れてくるのか、まことに、私も不思議に思いましたが、まあ、これも成り行きだということで、それで一般化したわけです。
それからもう一つは、女高師の人たちが、戦争が終わってから日本全国各地に散らばって、女子高等学校の先生になり、とくに音体科(音楽体操科)というのが女高師にあって、僕らと同じ区隊で働いている人たちが大勢いたのです。それが自分の故郷に帰って、みんなに『惜別の歌』を教えたらしいのです。そういう体験を持った人がずいぶん大勢いることを後で知りました。やはりこれは女高師のおかげもあるのだなと思いました。
全員で「惜別の歌」を合唱
でも、私の中では何となく落ち着かないものがあったのですが、歳月はどんどん流れ、昭和42年のことだったと思いますが、中央大学に猪間驥一という統計学の教授がいました。当時、大学で吹き荒れていた学園騒動で、どこの大学でも学校と学生たちが対立し、大騒動になり、教室は閉鎖されるわ、学生たちは町に出て、警官隊とはしょっちゅうぶつかり合うわという険悪な世相になった時代があります。
このとき、わが中央大学もまだ駿河台に校舎があったのですが、学校が閉鎖されて、授業を開くことができないのです。そこで猪間先生は自分のポケットマネーを払って、神田の大学のそばのビルを借りて、そのビルの一角を教室に見立てて、統計学の授業を全部終わらせたのです。僕はこのことを毎日新聞の夕刊でしたが、4段抜きの大きな記事でみて、猪間教授の骨の堅さ、大学の教授として成すべきことは成すのだという姿勢に本当に感じ入りました。
その猪間教授が私を新潮社に訪ねてきたのは昭和42年、そのニュースの記事が出てから1か月ぐらいたったころだと思います。猪間先生が、なぜ私に用事があるのかと思って、お目にかかったときに、「先生の記事は毎日新聞で拝見しました。自分のポケットマネーで授業を完成させたということは立派なことですね」と言ったら、「学校の先生が講義をすることがそんなに珍しいんですかね」と言われて、この先生はなかなかつわものだなと思いました。
その先生が、実は大学を退官することになり、退官演説をするのだと。今度それを中央大学でやろうと思ったけれども、テーマが統計学ではとても学生が集まらない、だから悪いけれども、テーマは「中央大学校歌と『惜別の歌』」というタイトルにしたい、自分の聞いている『惜別の歌』の話が間違っていたら、ぜひ、あなたに訂正していただきたいので、本当のところを確認してもらいたいと。『惜別の歌』の取材にきたのです。僕は少し恥ずかしかったのですが、猪間先生が骨の堅い立派な教師だということを知っていたので、『惜別の歌』の由来をお話ししました。
そして猪間先生が別れ際に、「近々、私はこのテーマで告別講演をやるけれども、あなた、聞きにきてくれないか」。僕は最初はちょっと恥ずかしいので断ったのですが、「いや、あなたにも聞いてもらいたいのだから、ぜひ、きてくれ」「僕はあいさつすることも何もなく、ただ、先生のお話を聞く一書生として行くのだったら、出かけます」「それでけっこうだから来てくれ」と。
猪間先生が『惜別の歌』に関する話をした後で、結びとして話してくれたのは、大学が「停年になってごくろうさまです」というお礼の意味も込め、ヨーロッパの大学に研究に行ってくれということで、1か月ぐらいかけてヨーロッパの大学を回ったそうです。それでウィーン大学に行ったときに、ウィーン大学の正門を入ったところに立派な女神の胸像があって、その台座に「栄誉・自由・学問」と書かれている。右の側面には「わが大学のために倒れし英雄たちにこれを捧げる」という文字が刻み込まれている。左の側面には「ドイツ学生団及びその教師、これを建つ」と、これを建立した責任者の名前が書いてあったそうです。
『惜別の歌』の指揮をする藤江氏
次に猪間さんがいらしたのはハイデルベルク大学です。そこのメンザ(学生食堂)の入り口の上、正面の壁に、次のような文句が彫られていたそうです。「喜びの集いの中にあっても、限りなき美しき衣装にまとわれた広間においても、きみたちはかつての苦労を忘れてはならない。きみたちのために死した、きみたちの先輩はまだ生きている。彼らはきみたちの心の中にある」、そういう文章が彫られていたそうです。
猪間先生はそれについて感想は何も言いませんでしたが、最後に付け加えるようにして、「わが中央大学には、こういう立派な碑銘もなければ像もないけれども、『惜別の歌』がある」と。それを聞いたときには、そんな立派な碑銘に比べられるようなことではないと、本当に恥ずかしさで身が縮むような思いがしましたが、そう思ったのは僕の思い上がりで、本当は昭和42年ごろに、大学では教師に対する尊敬もなければ、学問に対する情熱もなく荒れ狂っていた空気の中で、世代の断絶という簡単なことでもって物事を決めるような判断だけはしてはいけない。猪間先生の真意はそういうところにあったのだと気がつきました。
たしかに、あの戦争に行って死んでいった人たちのことを、そういう美しい言葉でもって称えられる国というのは、僕もその話を聞いて立派だと思いました。
そしてまた、歳月が流れて、昭和45年、僕は友人に招かれて、霞ヶ浦のほとりにある「霞月」という料亭の中にいました。「霞月」というのは、霞ヶ浦の、かつて少年航空兵たちが特攻の訓練をし、最後は死んでいった、その航空隊のある場所です。予科練の本拠です。そこで友人に招かれ、国破れて25年、その歳月をしのびながら酒をくみ交わしていたときに、「霞月」の歳取ったおかみさんが、「ちょっと、あなたたちに私の宝物を見せてあげましょう」と言って、女中に命じて持ってきてくれたのは、一双の屏風でした。
それには予科練の若者たちが、いよいよ特攻に旅立つ前に書いた寄せ書きがたくさん書いてあるのです。「不惜身命(身命を惜しまず)」という言葉から、「祈皇国弥栄(皇国のいやさかを祈る)」とか、その当時の若者たちの心情がいろいろ書かれていました。
その中に一句、俳句がありました。「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」、達筆で、すらすらと流れるように書いてありました。それに連句が書いてあって、「猿は知るまい 石清水」。その一句を発見したときに、僕は本当に背筋がぞっとする、寒気がしました。この「猿」は何を意味しているか。僕たちは明日、死んでゆく身だけれども、自分たちの気持ちを誰がわかってくれるのか、「猿は知るまい 石清水」。あのころの若者たちというのは、胸の中にうずまいていたいろいろな痛憤を、そういう言葉によって押さえつけていたのだと思います。
そのおかみさんが最後に、「これを書いた人たちが、今生きていれば、きっとあなたたちと同じぐらいの年齢になっているでしょうね」とぼそっとつぶやきました。その気持ちもまた、よく胸の中に染み通ってきました。
きょう僕は、歳月を通じていろいろ話をしたかったのですが、僕は昭和45年が日本のターニングポイントだったという考えを持っています。昭和45年は、大阪で日本万博があった年です。3月から9月まで、半年やったのですが、会長は日本経団連の会長だった、僕の好きな日本人の一人、石坂泰三さんです。あの人が主催して、大成功しました。半年間の万博の入場者は6422万人。これはその当時、オギャーと産まれた赤ん坊から最高年齢層までひっくるめた日本の人口の半分です。入場者が多すぎて、「万国博」と言わないで、「日本残酷博」(笑)と、別名が付いたぐらい、たいへんな盛況でした。
花束をかざして、来場者にこたえる藤江氏
それからもう一つは、「よど号事件」といって、日航機が全共闘の連中に航空機ジャックされて、北朝鮮に飛んで行った事件がありました。もう一つは、11月25日、「三島由紀夫事件」がありました。市谷の駐屯場で、彼が自衛隊の決起を促す大演説をやって、それがかなわないといって、彼は割腹自殺をしました。
なぜ、昭和45年のこの三つの事件を挙げたかというと、よく考えてみると、「三島事件」というのは間違いなく右翼的な思想です。「よど号」は全共闘の暴力的左翼。経済的には、万国博が日本国民の半分が見に行ったという隆盛を極めた。要するに、経済界というのはものすごく立派な成果を上げていた。
東大の安田講堂が陥落したのは昭和44年だったと思いますが、それを境にして、全共闘も動きが鈍くなった。47年には「あさま山荘事件」があり、全共闘の勢いもぱたっとなくなりました。経済も、それ以来、「失われた20年」になるには、まだ少し間がありますが、一つの転換期です。
長時間いろいろと話しましたが、僕が、きょう、歳月を考えようと言ったのは、これからの歳月です。どういう歳月が皆さんを待っているか。それを考えるには、僕は日本人に足りないものが一つあると思います。長いスタンス、歩幅でものを見る、この忍耐力がなくなったのです。これだけはぜひ、日本人に取り戻してもらいたい。長い目で見て、冷静に自分のことをよく考える。少なくとも10年間ぐらい先のことは、自分の頭で考えてみようということを言いたいです。
その方法としては、活字の力を借りたほうがいいと思います。新聞でも雑誌でも、読んで、これと思う記事を切り抜いて、スクラップをつくったらいいと思います。それで10年たって、それをパッと開いてみるのです。僕はジャーナリズムに35年間いて、今でもそうですが、まだ誰がどう言ったか、スクラップはつくっています。
少し長い目でものを見てもらいたい。それが私のきょうの言いたいことです。決して悪いことはありません。10年ぐらい先はどうなるのか、そのくらいは考えてみましょう。どうもきょうはお時間をいただき、ありがとうございました。
(本講演会は、(株)文藝春秋、(社)学術・文化・産業ネットワーク多摩の後援をいただきました。)