トップ>Hakumonちゅうおう【2009年秋季特別号】>【創立125周年に向けて】中央大学のルーツ(下)
「中央大学」の校名の由来は?
「白門」はどこにあった?
「質実剛健」が校風とされるようになった、そのわけは?
菅原彬州教授/本間修平教授/有澤秀重准教授に聞く
―― 英吉利法律学校の草創期に学んでいた学生は、どういう人達だったんでしょうか。誰でも学ぶことができたのですか。
菅原彬州教授
本間 入学資格は18歳以上で入学試験に合格したものですね。試験の難易度はちょっとはっきりしませんが、試験はありました。英吉利法律学校の設置願いでは学力の基準を小学校全科卒業以上としています。今でいう聴講生にあたるものは試験がなかったんですが、これは正規のコースではありません。
有澤 明治10年代半ばごろになると、自由民権運動の流れができあがりつつあって、自由民権運動を行なった人たちと、法律を勉強しようと思った人たちとは重なっているんです。法律を勉強していて自由民権運動に参加していった人もいますし、逆に自由民権運動をやっていて法律を学ばなければと思った人もいます。
出身階層は多くの場合は、士族という元武士です。元武士で、経済力のある階層の人たち。それから士族じゃなくても、ある程度自立していた農民、百姓で屋敷を構えている家の青年たちですね。
あの当時ですから若い人たちには、「なんとかしなきゃ」という危機意識と向学心が大いにあったから、いろんなことに敏感ですよ。それでまず法律を学ぼうということですね。
―― 英吉利法律学校が旧旗本屋敷を用いて開校(1885年9月10日)した当時の授業内容は、どのようなものだったのですか。
有澤秀重准教授
有澤 授業は夕方ですね。午後3時、4時頃からはじまります。
菅原 仕事を持っている人、役所勤めの若い人とかが、夕方になって勉強に来るわけです。教える方は教える方で、他の大学に教えに行ってから来る。
今は、夜間部はなくなりましたけど、中央大学の伝統は夜間部なんです。つい最近まで、夜間部の出身者が社会で広く活躍していたというのが中央大学の特色です。
有澤 ある意味、社会人教育なんですよ。
菅原 本当に学費が用意できる人は、その頃はそんなにいなかった。学費がなくても勉強しようという人が多かったんですね。それじゃ、直接、先生の講義が聞けない人にはどうするかということになって、通信教育(校外生制度)がスタートしたんです。同時にですね。
―― 同時といいますと?
菅原 明治18(1885)年、英吉利法律学校創立と同時に始まったんです。(通信教育は)講義録を頒布するんですよ。先生が話した内容をまとめて、冊子にして郵送するわけです。
―― 通信教育は中央大学が初めてなんですか?
花井卓蔵
菅原 まあ走りになりますね。
本間 それが、最近新しい研究が出まして、本格的に通信教育を始めたのは中央と法政だといわれていたんですけれど、その3年前に、どうも明治がやっていたみたいなんですよ。
菅原 きちんとやったのは中央大学です。2、3年のうちには、2万人の申し込みが通信教育にあった。=注1
有澤 地方の若い人の向学心は凄いんですよ。そのエネルギーは。でも東京には出て行けないじゃないですか。それで通信教育でとなったんです。
菅原 テキストを受け取って勉強して、それで自分なりに社会の中で生きていく人が多かった。ですから、(通信教育は)凄い隆盛を極めるんですね。英吉利法律学校の名前が全国に轟き渡っていたということとの重なり具合ですね。
本間 明治20年の中央大学の報告書の中には、校外生は1年次575名、2年次711名、3年次441名となっているんです。=注2
―― 明治19年の第1回卒業生は4名ということですが…。
菅原 それは他校から編入で入った人たちです。1年生で入ってきて3年間の全課程を英吉利法律学校で学んだ人たちが卒業するのは第3回からです。その中に花井卓蔵がいた。弁護士では花井卓蔵がピカイチですね。=注3
本間 (花井は)官立大学出身者以外で初めての法学博士ですね。
菅原 「花井の前に花井なく、花井の後に花井なし」とまで言われたという話が伝わっています。
―― ジャーナリストの長谷川如是閑や杉村楚人冠らもいますね。
菅原 文化勲章を受章した長谷川如是閑が英語法学科に入学したのは明治26年です。
―― 英吉利法律学校は創立4年後の明治22(1889)年10月に東京法学院に名称が変わりましたが、どうして改称されたのですか。
本間修平教授
本間 当時は国内法が整備されていなかったから、法律学校は、ちょっと乱暴な言い方をすれば、代わりにイギリス法やフランス法を教えていたんです。それが明治22年に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され、翌年には民法(旧民法)、商法(旧商法)、民事訴訟法などが公布されています。
このころ日本の法律が急速に整備されつつあった。そうすると、日本の法律を差し置いて、他の国の法律を教えるというのがしだいにそぐわなくなってくる。それで、わが国の法律を教えるという方向にシフトを移すようになっていくわけですね。そのために、「英吉利」という看板を下ろさなければならなかったという事情があったと思います。
この校名にはインズ・オブ・コートの訳語をもってきたともいわれます。
―― なるほど。
本間 それともうひとつは総合大学への動きです。明治19年に東京大学を改組してできた帝国大学をモデルに、英吉利法律学校も東京医学院、東京文学院の三つを合併した私立総合大学をつくることを目指して東京学院連合を結成したんです。実現はしませんでしたが、総合大学化を進めるときに校名がバラバラではおかしいものですから、「東京法学院」に改称しようということになったんだと思います。
―― 私立総合大学は、なぜ実現しなかったのですか。
有澤 東京学院連合構想は、簡単に言えば構想倒れに終わったということです。残念ながら。推測で言うと、お金と人が集まらなかったんでしょう。
―― 実現していれば、中央大学に医学部ができていたことになりますね。
本間 できなかったのは、やはり大きいと思いますね。
有澤 (中央と)同じような歴史を持っている明治、早稲田がやはり医学部はつくらなかったし、つくれなかった。
菅原 その後、早稲田は理系も充実するようにしていきますけど。中央大学はずっと文系の法学部でいく。明治36(1903)年に「東京法学院大学」の名称になった頃までですね。
その頃から経済の勉強もさせようということで、明治38(1905)年に「中央大学」に名称を変えた日(8月18日)に経済学科が新設され、さらに4年後の明治42年の8月17日に商業学科ができて、法経商3学科体制としたわけです。
1904年、05年というのは日露戦争があった年ですから、日露戦争前後の日本の社会の動きに対応して、経済学科、あるいは商業学科を設置して、ユニバーシティとしての骨格を供えていくことになるわけです。
―― 校名を「東京大学」にしようという考えがあったそうですが。
菅原 明治36(1903)年の東京法学院大学は、東京法学院にただ大学をつけたみたいですけれども、本当は東京大学という名称にしようというプランもあったんです。
東京大学は帝国大学に改称されて、東京大学という大学名がなくなっていたので、東京法学院を東京大学という名称にしたい、と文部省に言ったら、それはよろしくない、と言われて、それでは東京法学院に大学をつけた名称にしましょうということになったんです。
―― 認められていれば「東京大学」になっていたんですね。校名が「中央大学」になった理由は、資料を読んでみるといろいろな説があるみたいですが…。
菅原 定説はないです(笑)。創立者達の何人かが英国のミドルテンプルで法律を修めたので、ミドルをとったのではないかとか、大学の所在地が「神田の中央」、「東京の中央」にあたると、そういう意識で「学問の中央」というのを目指したのかもしれないし…。
中央大学はなかなか過去の資料を残してこないんですね。具体的に不明な部分が多いです。大学の校章がいつできたのかとか、スクールカラーはどこで決めたのかというのがよくわからないんですよ。
―― 火事で消失してしまった?=注4
菅原 まあ、火事の関係は確かにあったかもしれませんけどね。
有澤 火事は大きいでしょう、やっぱり。それに今でこそ、記録のやりかたは確立していて、必要なものは残すんですが、かつてはそんな考え方ないですよね。
―― 「白門」の由来についてはどうですか。
菅原 「白門」はですね、今本当に辿れるのは、『中央大学新聞』という学友会の新聞学会が出しているのがありますね。あの新聞の創刊は昭和2年くらいだと思うんですけど、その後の号に、「白門」の語を用いた欄が登場しています。
―― それはいつ頃ですか?
菅原 昭和4年くらいですか。ちょっと今日資料は持ってきてないんですけれど。それで、その前からおそらく「白門」という呼び名があったから、「白門」という投書欄みたいなものがでてきたんだと思います。
有澤 誰かが決めたんじゃなくて、おそらく学生の間で、よくある話ですけど、学生語として生まれたんでしょうね。
―― 「白門」という「門」はあったんですか?
菅原 「白門」は実際にはあったんですか? といわれると、何もなかったんです(笑)。
戦後には、白い色で、門ができましたけどね。お茶の水キャンパスの1号館を建てたときに、聖橋通り側に建てた正門を「白門」と呼ぶようになった。今の中央大学の多摩キャンパスの正門を上がった右手の林の中にある記念ステージに復元した門柱は、旧正門で戦後は南門と呼ばれました。
創立百周年記念ステージ(多摩キャンパス桜広場)
旧駿河台キャンパスの南門(旧正門)と校舎(2号館入口)をイメージしたモニュメント
―― 中央大学といえば「質実剛健」の校風といわれています。そのルーツはどこにあるのでしょうか?
菅原 中央大学で「質実剛健」が公に登場してきたのは、大正3年の卒業式で学長(奥田義人学長)が述べた訓辞からです。その訓辞を法学部の『法学新報』の編集者が、「質実剛健の校風」というタイトルをつけて載せたんです。
―― 訓辞のなかには「質実剛健」という言葉は使われていなかったのですか?
菅原 話の趣旨は「堅実にして人格の高い人を養成する」などと質実剛健にかかわる話だったんですけど、訓辞のタイトル自体はそうではなかったんです。大学関係者が「質実剛健の校風」という表題をつけたことから、「質実剛健」が中央大学の校風になったんですね。「質実剛健」という言葉は、明治の終わりから大正の初めにかけて盛んに使われ出したんです。
―― それから広まっていったということですか。
菅原 私は大学関係者にはこれは知っておいてもらいたいし、建学の精神とは区別してもらいたいですね。
有澤 今でもそうだけど、受験雑誌が学校紹介をやりますよね。外から見たイメージで紹介するじゃないですか。学校当局が決めたとか、看板にしたということではなくて、中大のイメージがそういう風にとらえられていて、それがいつのまにか、学長あいさつまで昇格したという面がひとつなんです。
菅原 もうひとつは、日本の政治の影響ですね。
有澤 戦時下の政府が大学や専門学校の生徒に対して、一生懸命強調するのが「質実剛健」。別に中大だけではなくて、この質実剛健を校風に掲げる風潮があったんですね。
それで、中央大学のスローガンというものを林賴三郎が決めるんです。昭和13年に学長の林賴三郎が述べた訓辞のなかに「質実剛健」が入っているんです。=注5
―― 「質実剛健」というのは林賴三郎学長が。
菅原 後になって校風ということで決めるんですよ。その前に、先ほど言ったように、明治の末から大正にかけて日本中に質実剛健の気風を盛り立てようという政府の政策方針があったんですね。
―― 私は炎の塔に入っているんですけど、炎の塔で法律を勉強している人たちは本当に一生懸命に勉強している。その法律を学ぶ精神みたいなものが質実剛健に繋がってくるのかなと勝手にイメージするんですけど、どのようにお考えですか?
菅原 「質実」は真面目ですよね。「剛健」は健全な精神を持って取りくむということ。そういう意味では、法学部出身で法曹界で活躍してる人だとか、社会に出て、それなりに活躍されている方はそういう精神を持っていると思います。
―― それと苦学生というイメージがあります。
菅原 中央大学は学費が安いというのが魅力でした。特に戦前、戦後にかけて中央大学に入学してくる学生は、他の大学よりは中大の方が学費が安いということで、入ってきた。当時は「法科の中央」ということで、法律を勉強しようという向学心が旺盛な人たちの中にはアルバイト学生もいっぱいいたと思います。
大学数え歌では、いつも中大生は叩き売りしている(笑)。そういう文言が登場するのは、やっぱり貧しいながらも勉強する中大生の姿というのがあったと思います。多摩キャンパスに移ってからですね。着るものから持っているものまで、見た目では中大生の貧しさといったものは感じとれなくなったわけです。
有澤 高度成長期以前はね、どこの学生かというのは見た目でわかりましたよ。
菅原 真面目そうだから中大生なんだろうね、というのは聞いたことがありますよ(笑)。
―― 中大生には真面目というイメージがあると思います。真面目なんだけど、自分から先頭にたってリーダーシップを発揮する学生が少ない、という声を聞きます。
菅原 先頭は誰かにたってもらって、二番手三番手ぐらいで行こうかっていう、そういう考え方を持つ学生が多いかもしれませんね。逆にそういうのがあるから質実剛健でないといけないと強調したのかもしれませんね。
創立後125年の時を刻んで今日の中央大学があるわけで、その伝統をこれからも常に振り返りながら、新しい歴史を築いていって欲しいです。
―― 長時間、ありがとうございました。
注1:明治21年9月の『法学協会雑誌』に、「私立五大法律学校中にても最も評判の高き英吉利法律学校は、近来漸次に盛大となり」「本年に至りては尚一層の盛大を来すへき傾きにて、現に校外生の申し込みの如き殆ど2万の数に達した」とある。
注2:通学生(校内生)は英吉利法律学校が開校した時は、97人だったが、通信教育(校外生制度)が世間の評判を呼んで、2年後には校内生は613人に増加した。
注3:卒業生の数は、第1回(明治19年)が4名、第2回(明治20年)18名、第3回(明治21年)51名、第4回(明治22年)143名、第5回(明治23年)208名と急増している。
初期卒業生には、花井卓蔵、林賴三郎、大場茂馬、稲田周之助、長谷川如是閑、杉村楚人冠らがいる。
注4:明治25年の神田大火で校舎全焼、高橋法律文庫も全焼。大正6年に失火のため校舎・図書館が全焼、奥田文庫(ビルクマイヤー文庫)も焼失。大正12年の関東大震災により図書館と増築校舎を除く校舎が焼失した。
注5:昭和13年4月に卒業生として初めて学長に就任した林頼三郎は、入学式での訓辞で「本学の主義精神」として「質実剛健」「自主的の信念」「家族的情味」の3つをあげた。
学生記者 野村茉莉亜(商学部3年)/石川可南子(法学部2年)/堀滝登(文学部2年) +編集室