トップ>教育>教育者は前もって組織立てられた知識から出発する人か
中元 順一 【略歴】
中元 順一/中央大学文学部特任教授
専門分野 学校教育論、教員養成論、社会科教育論
学校教育も大学教育も、常に教育者は学習者にいかに効果的な指導をするか、に頭を悩ませます。表題の問いは、教育者に向けられてきた根本の問いであり、すでに諸賢が考察してきたことですが、本学で教員養成を行っている私もまた、一度原点回帰で検討してみたいと思います。
以下の言説のなかに、何か一つでも知の共鳴板を震わせる箇所があれば幸甚です。
現在の学校・教室では、授業の内容が分からないことやメンバーとの人間関係上の軋轢などで深刻に悩んでいる子どもたちが多数存在しています。これらの問題への対応を、現在、文科省は新たな『学習指導要領』の方向・対策として検討し、改訂作業の最終段階に入りつつあります。
特に、いい教員の養成については、社会もそれを望み、教員養成制度の改革として様々な手立てが講じられてきましたが、現実の学校現場における対応はなかなか実質化しません。中教審、教育再生実行会議に学校現場の声が届かず、行政と現場の状況認識や課題意識がズレたままで諸施策を決定・実施するという、いわゆる「拙速」の状態となって、教師の表情がほとんど読み取れません。
学校は、長く上意下達・受動的・依存的・指示待ちの体質が固着し、教育内容のほぼすべてを「他から受けたものを疑いもなく渡す」発想で進める体制をとるようになっています。
本稿の表題の問い「教育者は前もって組織立てられた知識から出発する人か」は、ジョン・デューイ(1859―1952)の『経験と教育』から引用したものです。この問いは、これまでの教育の長い歴史において、教育者が抱く様々な葛藤のなかで代表的なものです。私もまたこれまで、学校で生徒に、教育委員会で教員に、大学で学生に、といった様々な立場で教育するとき、この問いを自問自答し、葛藤してきました。
その際、現実的な制約として、明らかに「前もって組織立てられた知識」の発想で貫かれた『学習指導要領』の存在があり、さらには、いわゆる「受験体制」への対応という要請もありました。本学の学生たちも、小中高を通して、「受験知識」という「前もって組織立てられた知識」の発想で教えられ学んできた学生がほとんどですが、その固定化した学びを打破する困難さを日々感じています。
なお、近年そして現在論議されている新しい『学習指導要領』は、固定化した知の発想からの脱却を図り、「活用・探究する知」や「アクティブ・ラーニングによる学習」などを重視しています。また同時に、新たな方針として「これからの教育課程の理念 ― 社会に開かれた教育課程 」を強調していますが、実はデューイは、すでに教育の働きを民主主義社会において適切に働く「社会的知性」を磨くことと考えていました。そして、教育者の責任として、子どもがかかわる社会組織において適切な活動を選択できるよう教材を準備し、社会で活きる探究的な教育を行うよう求めていました。そこでは、デューイを子ども中心主義者と見る大方の予想に反し、ただ子どもの自発性や関心だけに委ねるのではなく、あくまでもその経験を正しく方向付ける教育者の役割を重要視していました。
さて、教育では、ともに重要な「伝統的教育」と「進歩主義的教育」について述べてみます。
「伝統的教育」は、外部から習慣や既存の事柄に関する知識を与えて、学習者の成長を図る教育のことで、教科あるいは文化遺産に強く依存します。批判的に見れば、「押し付け」の多い教育ですが、知識の基盤であるばらばらの事実や理念的な様々な考えを「整理」するための組織立ては不可欠です。
これに対して、「進歩主義的教育」は、既存の伝統や制度化された習慣に関する知識よりも、学習者の内面から生じる衝動や興味を重視し、変化する社会の問題などを臨機に内容選択して行う教育です。批判的に見れば、「行き当たりばったり」の多い教育ですが、組織立てられた既成知識に従うのではなく、子どもの経験のなかに価値ある教材を積極的に発見し活かそうと考える教育です。
一般に、生徒は経験と学習を交互に行って、経験を深め、深い認識を得ます。デューイが意味付けた経験を重視する学習は、遠足を例にとれば、学校で前もって知識を学ぶ(レディネス)→ 見学先で知識を検証する(フィールドワーク) → グループ発表でアウトプットする(プレゼンテーションやディスカッション)、といった一連の流れになります。これが経験学習(問題解決学習)です。また、知識と実践のような対立する概念を切り離しては考えられない点を指摘したのもデューイでした。
デューイは、学校を、経験が再構成されながら「成長」していく場と捉え、「協同(協働)する能力」と「問題を発見し、問題を解決する創造的な能力」を育成すべき学力と主張しました。「なすことによって学ぶ」学習観は、知識の実践的・社会的側面を強調したものでした。また、教科学習で育成する認知的能力よりも、今日見直されている非認知的能力の「学習を継続しようと努める態度」を重視しました。現在の、教員養成関連の中教審のキーワード「学び続ける教師」は、デューイの期待した教育者像でもあったのです。
2012(平成24)年の大学に向けた中教審答申「学士課程教育の質的転換」の目玉であったアクティブ・ラーニングは、今般さらに新しい『学習指導要領』においては、小中以上に高校に対する授業実践を求めています。これまで学生たちは、小中高大を通じて「前もって組織立てられた知識から出発する」学びで済んでいましたが、学び舎を出た後は、もっと多くの人とかかわり合い、動的な知識が飛び交う社会において過ごすことになります。アクティブ・ラーニングはまた、小中高大の学びから大人社会への移行(トランジション)に際して必要な学び方でもあるのです。
さて我が国では、本年夏の参院選から十八歳選挙権が行使されます。ところが今、全国の高校における主権者教育は右往左往しています。生徒たちに自由な発想で調査や追究をさせたくても、「文科省通知」や「Q&A集」に従い、学校内の管理職の了解を得なければ政治的活動の自由は認められません。事ここに至っても、組織立てられた学習にならざるを得ない嘆かわしい状況で、文科省の別の面は60年代の高校紛争のような不測の事態を回避しようとする保身型の教育姿勢のままです。
デューイが願った民主主義教育は、組織立てられた知識による表面的な「善き選挙民」の育成ではなく、個々人に即して「民主主義の性格を社会的・道徳的に徹底的に理解させる」というものでした。
教育=「知識の扱い方」には二通りあります。一つは、先人など他の人が積み上げてきた知識なり技術なりをバケツリレーのように学習者に「他から受けたものを疑いもなく渡す」方式、もう一つは、主体的に自力で開発した知識・理論なり技術なりを学習者に「自ら作ったものを自らの判断で渡す」方式です。前者は主体性を欠きがちですが責任を問われません。一方、後者は偏狭な姿勢が要注意ですが自己実現感が魅力です。しかし、この二つの方式のどちらか一辺倒ではなく、教育内容や教育者・学習者の状況に応じて適切に対応する必要があります。
しかし、本稿は敢えて言います。教育者は、自らが確信するものを自信をもって「自らの判断で渡す」ことを目指すべきこと、さらには、自分自身こそが「受け渡し」サイクルの元始となることを目指すこと、を特に主張したいと思います。研究者的視野が大切であることは言うまでもありません。
知性は感受性をも含みます。ぜひ研鑽していつか一瞬ですべてを読み取る力を得たいと思います。
デューイは「政治家、教育者、劇作家は、人間の本性について、専門的な心理学者と同じだけ知っているだろう」と述べていますが、果たして今、教育者はそうでしょうか。私も含めて、学問成果や子どもを見る眼が曇っている教育者は、今一度その眼を拭わなければならないと思います。