トップ>教育>オールターナティヴな学びの可能性—レッジョ・エミリアの幼児教育が教えるもの
鳥光 美緒子【略歴】
—レッジョ・エミリアの幼児教育が教えるもの
鳥光美緒子/中央大学文学部教授
専門分野 教育哲学、幼児教育学
世界で最初の大学の発祥地であるイタリアのボローニャから、そう遠くないところに、今日、幼児教育実践で世界的に知られるレッジョ・エミリア市はある。
2012年1月現在、同市の人口は16万人ほど。その歴史は古代ローマにさかのぼる。19世紀後半以降は、強力な社会主義的運動が展開された地域としても知られる。その地で第二次大戦の終わった直後、社会運動の担い手であった女性たちを中心に民間立の就学前施設が発足した。当初は存続もあやうかったが、結果的にそれらは同市に根をおろした。1960年代なかば、それらの諸施設はイタリアで最初の公立の就学前教育施設として組織化され、制度的基盤を確立する。レッジョ・エミリア・アプローチ(以下「レッジョ」と略記)として知られるその幼児教育実践が、わが国もふくめて広く世界的にその名を知られるようになったことについては、1991年にニューズ・ウィーク誌で、同市の幼児学校が世界でもっともすぐれた実践のひとつとして紹介されたことの影響が大きい。
レッジョの特徴としては、それぞれの施設には管理運営者をおかずに行政主導の集団的指導体制をとっていることや、子どもたち、保護者、教職員の三者からなる有機体として学校をとらえる独自の学校観、人の行き交う市場に発想をえた空間設計などさまざまにあげることができるが、なによりも注目されるのは、「プロジェクト」という教育方法だろう。
ひとつのプロジェクトにかかわるのは数人の子どもたちである。その子たちがあるテーマを、数日からときには数週間かけて追究し、そしてたいていの場合は制作された作品や上映会という形でそれは終焉をむかえる。
レッジョ教育の草創期ともいえる時期に行われたプロジェクト実践を記録したビデオに、「ライオンの肖像」がある。
冒頭を飾るのは、3歳児らしい子どもたちの食事場面である。そこに唐突に着ぐるみの大きなシマウマが乱入する。いっせいに歓声をあげる子どもたち。そこから突然に場面は転じて、レッジョの町の中心にある広場に面した教会の階段にある石のライオン像をめがけて、市場でにぎわう広場をかけてく数人の5歳児らしい子どもたちが映る。
「子どもたちの目的はライオンの肖像を描くことです」というナレーションが入る。ライオン像は像の台の部分をあわせると、2メートル以上の高さはありそうである。大写しにされた口とそこからのぞく牙は、見る者に畏れの感情を抱かせる。子どもたちはライオンに乗り、それにまたがり、たてがみを刻む石の溝にそって手をはわせる。
次の画面では、子どもたちは、市場のたたない日、人影もまばらな広場にライオンを再訪する。ライオンをポラロイドに撮り、写生をする。口をぎゅっと結び真剣な表情でライオンの足型を粘土にかたどる。大きな白い紙を石の台の横の段に敷いて、日差しをうけて白い紙に映るデフォルメされたライオンの影をかたどる。ライオン像の最大部分を巻き尺ではかって,床にその巻き尺をおき、ライオン像がいかに大きいかを、自分たちの身体の大きさとくらべて確かめる。
「ライオンへの興味は学校に持ち込まれ,長い間、子どもたちと一緒にいることになります」。このナレーションとともに場面は教室へと転換する。教室の壁にライオンや石のライオンが映しだされ、その壁の前に立ち、自分の身体に映るライオン像の光や影に興奮した子どもたちの声が、スピーカーをとおして流れてくるライオンのうなり声に重なる。シャドー・シアターでは、ライオンのたてがみを模したかぶり物をかぶった子どもたちが力を誇示してライオンを演じる。イスを持ち上げてライオンを倒そうとする子どもたちもいる。
次の場面では子どもたちは、実際にライオンの絵を描き、粘土でライオン像を制作している。ライオンの牙から描きはじめる子もいれば、目を最初に描く子もいる。たてがみを太い絵筆でたんねんに画布に印づける子もいる。粘土を使った制作では、子どもたちはライオンの力強さを求めて粘土をもりあげ、たてがみを表現するべく、指で粘土をつまみあげる。
最後の画面に登場するのは、子どもたちの作品の数々である。どこか悲哀を感じさせるライオンもいれば威厳にみちたパワフルなライオンもいる。なかには大きな眼に星を描きこまれたライオンもいる。
このビデオを視聴した人の多くをまず魅了するのは、子どもたちの表情や動作に感じとられる、ライオンに対するいきいきとした興味関心である。
幼児教育の実践にたずさわる人たちであれば、どうやったらこういう実践が可能なのかという問いがそれにつづく。
だがこのビデオは、実践を支える手だてについてはあまり雄弁ではない。実のところこの点にかんして、レッジョの刊行物はいったいにあまり親切ではない。とくにこのビデオは全体で30分ほどの短いものであり、ナレーションもごくわずか添えられているにすぎない。実践の手だてについての直接のてがかりにはなりにくい。
それにもかかわらず私がここでレッジョをとりあげ、それもとりわけこのビデオをとりあげて説明したのは、そこにはすぐれて、学ぶということの可能性を見ることができると考えるからである。
今日の大学のモデルとなったベルリン大学の創設者として知られるフンボルト(Humboldt,W.von, 1767−1835)は、学習のプロセスを、私たちの自我と世界とを結びつけて、もっとも普遍的で活発で自由な相互作用へともたらすことであると考えた。ライオンの肖像を描くレッジョの子どもたちと石のライオンとの間に生じている出来事はまさに、フンボルトのいうところの自我と世界との、主観と客観との、もっとも普遍的で活発で自由な相互作用として捉えることができるのではないか。
世界(ライオン)を描くためには、子どもたちは世界(ライオン)と近づきにならなければならない。世界(ライオン)と言葉をかわし世界(ライオン)と友達になることで(子どもたちの)自我は世界(ライオン)の像を感じとる。そしてそのイメージは、手と絵筆と粘土を使って表現され、表現されたものをとおして子どもたちは自分たちのイメージを確認し修正する。
このプロセスにおいて子どもたちはさまざまな身体的知的社会的な能力を発達させる。それはこの子どもたちが今後社会を生きていくうえで重要な糧になるだろう。だがかといってそのような能力や技能の習得が、自我と世界との相互作用のもたらす唯一のものというわけではない。いや、レッジョの子どもたちにそくしていえば、むしろそれは、自我と世界のいきいきとした相互作用のもたらす副産物であるように思える。
卒業・入学のシーズンである。巣立っていく学生たち、入学する学生たちは今後、社会的にも経済的にも政治的にもこれまで以上に不透明度をます社会において、その生涯を送ることになるだろうと思う。
不確定な社会を生きのびて安定した人生を送ることができるためには、自分自身がまずは強くなること、必要な能力や技能を習得し社会的協調性と道徳性を身につけることが重要であること。このことについては、学生たちはすでに大学の入学の時点でも身にしみて自覚しているように思われる。
それが重要であることはいうまでもない。だが同時に知っておいてほしいと思うのは、学ぶということの可能性はそのような能力や技能の習得につきるものではないということである。
フンボルトやレッジョは、理解し表現するという学びがありうることを教えてくれる。一見するとそれは、社会で生きのびる力にはならないように思えるかもしれない。だがそうだろうか。理解と表現をとおして世界と親しくなること、世界とつながっているという感覚は、人が生きていくという営みをその基底のところで支えてくれるものであるように思われる。
フンボルトやレッジョだけではない。教育思想の古典は、オールターナティヴな学びの可能性についてのさまざまなアイデアの宝庫である。そのなにほどかを学生たちに伝えることができればと思う。