トップ>教育>これからの教育に大切になるもの~「主体性」を育むこと~
岸 信行 【略歴】
岸 信行/中央大学理工学部教授
専門分野 教育学・倫理学
教職課程を履修した学生諸君に、教育についてのイメージを聞くと、そのイメージの暗いことに驚かされる。彼らが、なぜ、教育に対して暗いイメージしかもてないのか、その理由を考えてみると、そこに、戦後の我が国の歴史が深く関係していることに気づく。この小論では、その間の事情を考えながら、これからの日本教育のあるべき姿を描いてみたいと思う。
幼児期においては、周囲の大人たちの関わり方が、子どもの人格形成に非常に大きな影響を与えるが故に、極めて重要である。大人たちは愛情をもってきめ細かく子どもに接するべきである。その際、重要になることは、世界に対して肯定的な感情を育むことである。その感情が、子どもの人生を力強く生き抜く主体性の原動力となるからである。
筆者は、これからの日本の教育に最も大切になるのは、「子どもの主体性を育むことである」と考えている。主体性を育む教育とは、総てを子どもに任せきりにして「やりたいことを自由にさせる」ことを意味するものではないし、また逆に、子どもを常にコントロールして教育する側の意のままにすることでもない。前者は、放任主義の「手抜きの教育」であり、野生児は育っても、自主性を育てることはできない。後者は、関わる側の権威を問題にする場合が多いから、子ども達は、自立心を欠いた受動的で消極的な存在となってしまう。
現代の日本の子どもたちには、残念なことに、大人たちの不適切な関わりにより正しい自立性は育っていない場合が多いように思える。日本の教師も親も「褒めべた」であり、親や教師の使う言葉には批判的な否定語が多い。「ダメ、のろま、愚図、間抜け、バカ」など、相手の人格を否定するような言葉が、教育者の口から聞かれることもしばしばある。そして、怒り、怒鳴り、挙げ句の果てには、体罰により折檻したり暴行を加えたりする場合すら出てくる。そのような教育における残念な結果は、日本の戦後の歴史と深い関係がある。
戦後の日本の学校教育は、知識偏重のテスト主義に貫かれ、偏差値評価によって支えられてきた観が強い。多くの学校が「受験戦争に勝利する」という史上命令を受け入れ、「テストによる能力主義」という一元化された価値観のもとに多くを犠牲にしてきた。
このことは、日本の高度経済成長を支えた経済の「業績至上主義的価値観」と無関係ではない。「不登校」「引きこもり」「恐喝や窃盗」「傷害から殺人に至るまで」さまざまな青少年のよくない問題が生じて来た時期も、日本の高度経済成長の時期と一致する。
すなわち、経済の「業績至上主義」的価値観が、そのまま学校教育に入り込み、「成績至上主義」となって、テストの結果が重視されるようになった。成績は、総てテストの点により測られ、それが偏差値となって子どもの成績を支配した。「いじめ」の増加も、この経済発展とそれに関連する学佼の成績至上主義的価値観と無関係ではない。できる子の優遇、できない子の軽視という風潮も出て、平均点を高めるために邪魔になる「できない子ども」を集団で「いじめる」ということが起こり、社会問題にさえなった。
テストにおいては、総ての生徒が同じ問題を一斉に解き、与えられた問題を素早く正確に解くことが求められた。それに成功する受験秀才が、人生の勝者となり、栄光を勝ち得た。現在までの日本社会は、アメリカに追随する学歴偏重の社会であった。一流といわれる大学を卒業させ、一流企業に就職させようと、親たちは必死に子どもを教育し、塾に通わせた。そうすれば、確かに将来幸せになる確率は高くなったから、親たちは、とにかく偏差値の高い学校を目指した。高校も大学も総ての人に公平に受験の門を開き、希望者には同じ問題が課された。完璧といえるほどの平等主義が貫かれ、その平等主義のために、あらゆる個性・能力が客観的な数値に還元された。価値観が一つだったからできたことである。
テストにおいて、客観的に公平に評価するために、子どもの能力を数量化することは、ある程度は、しかたがないことではあろう。しかし、そうであるならば、なおさら、数値で子どもを見ていくことに大人たちは慎重であるべきである。テストの点により、子どもが自由に選択する輻は大幅に制限されるし、自由な発想や将来の願いまでもが押しつぶされてしまうことも希ではない。常にテストの点を重視し、その点で子どもを比較することしかしない教育の場からは、子どもたちの主体的で自由な発想など育つはずがないのである。
このようなテストによる点数中心主義の教育は、戦後の一元的な価値観のもとで意味をもったものであるから反省されるべきである。日本は、戦後の長い間、総てアメリカを手本として動いてきた。経済もアメリカ追随型の政策に従い、アメリカを手本として、まず産業界が動き、それに合わせて各企業が連動し、その中で社員が仕事をした。要するに。社員一人一人は主体牲などもたなくても上から言われたことをその通りにやっていればそれでよかった。逆に主体的な個性などは邪魔になった。特に高度経済成長が始まる1960年代前半は、日本中の人々が一元的にアメリカ的物質的繁栄を目指した。テストを中心とした日本の能力主義は、一定の役割は果たしたとは言え、そうした戦後の歴史的産物だったのである。
しかし、ここで考えなくてはならないのは、『何が子どもの真の幸せなのか』ということである。現在の社会は、価値が多様化しており、そこで競争させて勝たせ、幸福を掴ませようとするのは、無意味である。そもそも価値の多様化した社会にあっては、目標が多元的にあるのだから一元的な競争は意味をもたない。
物質的豊かさを追い求め、ひたすら効率を追求し受動的に生きればよい時代は終わった。1973年のオイルショックを象徴的なでき事として、高度経済成長は終焉を迎え、21世紀を迎えた現在の世界は、技術革新による激動の最中にある。そうした時代に、教育に期待するものが旧態依然としているのは時代錯誤である。現代の日本は価値が多様化しており、仕事でも趣味でも自分の好みで選べ、独自の人生を歩むことが誰にでも保証されている。このような社会は、何を選ぶべきかがわからない人間には、生きにくいであろう。
自分のやりたいことをはっきりと思い描き、その願望に従って意欲をもって努力する能力が主体性だとするならば、まさに現代日本の教育に求められているものは「主体牲」なのである。主体性を具えた人間がこれからの社会をリードしていくことになる。
受験秀才のように受け身で生きた人間は、自分の人生を自分で切り開くことが苦手である。主体的な人間は、従来型の教育では育たないし、その能力は従来型のペーパーテストでは測れない。従来型の受験秀才が能力を発揮するのは、正解のある問題を短時間に解く時である。これからは、答えのない問題が増えてくるから、受験秀才が活躍する場は少なくなり、従来型のペーパーテストの入試における比重は減るはずである。
人生をどのように生きたいのかという願望は、子ども自身のものでなくてはならない。しかし、まだ幼い未熟な子どもが、将来の目標を立てることは難しいから、その子どもの「願い」や「希望」に対する周囲の大人たちの共感的な援助が不可欠となる。子どもを取り巻く大人たちが、子どもが将来「なりたい」あるいは「したい」という目標の具体的な内容に対して共感的に関わる姿勢(価値感受性への共感)をもつことが極めて重要である。大人たちの「願い」や「希望」を、その子どもの「願い」や「希望」にどう関係させるかということも、教育の非常にデリケ一卜な、しかしとても重要な課題である。親が子どもに対して明確な「希望」も「願い」ももたないないならば、その子どもの人生に対する考え方もまた不明確なものにならざるを得ない。
従って「親や教師がどう生きているか」という「後姿の教育」が子どもにとっては、非常に重要な意味をもつことになる。教育における親や教師の「子どもへの希望や願い」は、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というような、消極的なものではなく、もっと積極的に他者を視野に入れたものであるべきであろう。
近頃では伝記がすたれてしまっているが、そこには人類のために尽くした多くの偉人達の話が載っている。そうした人々の伝記は、人生の生き方を考える際の大きな参考になる。「伝記に表されているような人間の生き方はできないから無駄である」とあきらめるのではなく、「そういう生き方もできるかも知れない」として、可能性に賭けることが大切である。「変えよう」と思わなくては、世界は変わらない。「自分が働きかければ世界は変わる」という信念が大切なのである。大脳は、そのような信念によって活性化する。
そうした行動に駆り立てる意識こそが、真の主体徃であるとするならば、その主体性をどう育むかがこれからの教育の大きな課題となる。主体性は、放任しておいても育つ能力ではない。子どもが将来的にもつ希望や願いを周囲の大人たちも親身になって一緒に考え、共にそれへ向かう最善の方法を模索するなかで強まり、育まれていく能力なのである。
現代の世界は「教育熱」に満ちていて、若者に未来を託し、「グローバル人材の育成が不可欠、イノベーティブな人材を育てよう」などと声高々かに叫ばれている。
世界を変え得るほどに主体的で積極的な人間を教育することが、これからの教育の課題である。自分の興味関心をしっかりと定め、人類の福利を地球規模で実現していくプログラムを考え、その目的達成のためには、どんな勉強が必要なのかを自分自身でじっくりと考えられる実践力を有した「頼もしい子ども」を育てたいものである。