トップ>教育>『今日は志ん朝 あしたはショパン』――佐藤俊一郎氏遺稿集について
早坂 七緒 【略歴】
早坂 七緒/中央大学理工学部教授
専門分野 現代オーストリア文学
勘三郎、団十郎と大看板があいついで逝去し、これは新歌舞伎座の人柱ではないかなどと、あらぬ憶測を呼んでいる。今にして思えば一昨年9月に急逝した佐藤俊一郎氏(本学経済学部教授、2011年定年退職)が人柱の先がけだったようだ。というのも、ざっと160本の歌舞伎評を書き続けた氏は、まず歌舞伎評論家と見なされるのが順当だからだ。
「歌右衛門の班女を中心にひとつの新たな空間、ひとつの非現実が舞台の上に生まれ、それが見る見るうちに観客をつつみこむ。いやつつみこむなどという穏やかなものではない。観客は鷲掴みにされるのだ。花道での表情の狂気、笑いながら幻の子供を手招く哀切。これが歌舞伎なら、他は歌舞伎ではない。他が歌舞伎なら、これは歌舞伎ではない。」
昭和51年9月7日の『隅田川』のメモ。氏は昭和48年から平成7年まで、歌右衛門を追ってこのようなメモをとり続けている。それだけではない、志ん朝の高座についても次のような塩梅だ。
「思いがけなく逸品の『火焔太鼓』を商いした道具屋の甚兵衛さんが、買い手から眼の前に三百両を積まれて「これ持っていっていいんですか」と口走ったときは思わずホロリとした。大金に縁のない人間を一刷毛で描き出している。笑いと涙。」
昭和49年12月18日のメモ。これらは本書巻頭の「歌右衛門と志ん朝の時代」の一部だ。
じつはこの生き証人の原稿190枚は、俊一郎氏の没後に夫人が発見した絶筆なのである。
佐藤俊一郎氏の本業はドイツ語の先生だから、経済学部で学んだ学員のなかには氏の薫陶を受けた方々も少なくないだろう。独文学者としてトーマス・マンやホフマンスタールを論じて、当時としては最先端の論文を紀要等に発表してもいた。ところが結局ただ一冊の単著も、ただ一冊の単独訳も世に問うことはないまま、急逝してしまったのである。これでは『三四郎』の広田先生なみの「ちょっとした暗闇」で終わってしまう。
絶筆「歌右衛門と志ん朝の時代」だけでなく、氏のドイツ文学関係の論文、エッセイ、さらには連句も拾い集めて一冊の遺稿集としよう、と白塔歌仙会(俊一郎氏はこの連句の会の代表を十数年務めた)の同人が中心となって動き出した。困ったことに氏は、大学の学事記録にドイツ文学関係の十数本の論文しか届けていない。友人知人、中大出版はじめ各種出版社などに照会してリストアップしたところ、結局250本ほどの作品・仕事が掘り出された。テキストのかなりの部分は中央大学図書館でコピーできたが、未収書の書籍、雑誌類については、中大図書館のレファレンスが他大学から次々にコピーを取り寄せてくれた(こういうときの中央大学の組織力はすごい)。かくして、オムニバス形式ながら佐藤俊一郎氏の多方面にわたる仕事が一冊にまとめられ、暗闇に光が当てられることになったのである。
「落武者のまどろみ浅く峯の月 俊一郎」
あたかも明治期の浮世絵を見るよう。連句の席で、前の短句を受けて咄嗟に付けた長句の一つである。ここで詳しく説明することはできないが、歌仙を巻くには各種式目があり、複雑な条件をクリアしながら自分なりの「詩」を詠わなければならない。ここでも俊一郎氏は名人芸を発揮していた。本書に2編だけ両吟(二人で歌仙を巻くこと)が収録されているお相手の矢崎藍氏は、連句協会の理事である。連句においてもトップレベルの詠み手だった。
「えー、ワタクシは多趣味でして……」と言う人を筆者は信用しない。「趣味」では、ロクなレベルに達することはない。プロ、アマを問わず、そのジャンルの先端の厳しい現場にコミットする者は、ただ必死に取り組んでいるのであって、趣味でやっているとは思っていないだろう。佐藤俊一郎氏は趣味人ではなく、ただ本人の感性に忠実なだけだった。すべてが本業だったと言ってよい。クラシック音楽にのめり込んでは『レコード芸術』のインタヴューを受け、氏にとっての名盤を語る。のみならずピアニストのイリーナ・メジェーエワと、彼女が贔屓にしている吉右衛門との対談をセットする。猿之助がバイエルン・オペラの『影のない女』を演出した際にはリヒャルト・シュトラウス協会誌に「オペラと歌舞伎」を書く、という具合。表面だけみれば、目まぐるしいばかりに多方面におよぶ活動だ。とはいえその芯にあるのは「文人」佐藤俊一郎氏そのものだけである。歌右衛門にしろ志ん朝にしろ、心の響板にひびくものを感じたら、食らいつき、とことん追求する。と同時に自分の感性をも精進して磨き上げる。そうしてはじめて、きわめて私的なメモがそのまま普遍に通じるレベルに達するのである。書籍やCD等の購入が随伴するのはもちろんだ。このような人びとが、ひいては日本の文化の水準を裾野で、あるいは頂上付近で支えている。
しばらく前から締めつけが厳しくなって、大学教員も今は教育・研究活動の実績として「業績」を届けなければならない。筆者も日々追われるような気持で仕事をしていて、著書の執筆や翻訳の校正にとり組んでいると、その時々の話題の本とか芝居や演奏会を断念しなければならない。これでは本末転倒ではなかろうか? もともとそういうのが好きでこの道に入ったはずなのに。欲を掻いては自縄自縛におちいる哀れな同僚を尻目に、まさに本末どおりに生きたのが佐藤俊一郎氏であって、業績の積み上げを断念することによって、自在さを手に入れた。いや逆かもしれない。どのみち氏は、このようにしか生きられなかったのであろう。かくして氏は今や世界の一流の芸術家、楽団、オペラ座などが来日公演し、名画が展示される東京を中心とした、昭和末期から平成にかけての日本の文化シーンのおいしいところを、たらふく満喫することになる。これに勝る幸福があるだろうか。
エレベータを待っている佐藤先生の前で、学生がぴょこんとお辞儀をして言った。「去年、先生のドイツ語の授業を受けました。あの片思いの話、よかったです」(ゲーテ、トーマス・マン、ルカーチにまつわるエッセイ「片思いはおすき?」は本書所収)。授業中のちょっとした脱線が、彼の心には残ったのだ。語学というと、大方の学生諸君にとっては、単位さえくれればどんな先生でもかまわないのかもしれない。会話だけなら駅前留学でも済むであろうし、文法だけなら大学院生でもそこそこ教えられるだろう。大学の語学の授業はそういうものではない。「薫陶」とはよく言ったもので、先生の薫りが学ぶ若者に擦りこまれる過程なのである。もっとも、学生の側にも「響板」がなければ猫に小判となる。だから本当は受講する学生にも感受性と「鑑定眼」が備わっていてほしい。とりあえずは、ネットにその先生の名前を入れて、仕事ぶりを知っておく。うまく掘り当てれば頁岩がシェールガスを生むように、思わぬ収穫があるだろう。学生が教師から知的搾取をしてよいのが、大学なのだから。
経済学部の数人の学生が、何年かに一人づつ佐藤先生と原書で『トーニオ・クレーガー』を読んでいた。それに限らず氏の薫陶を受けることのできた学員は、それなりに微かな薫りをおびていることだろう。おそらく彼らは、ラッキーだった。