トップ>教育>批判的思考(クリティカル・シンキング)のすすめ
川戸 道昭 【略歴】
川戸 道昭/中央大学理工学部教授
専門分野 比較文学・翻訳文学
日本の大学生は、他人の意見を鵜呑みにせずに、自分自身の考えを独自に論理的・客観的な方法で組み立てていくことが苦手といわれる。
いまはやりの言葉でいえば、批判的思考(クリティカル・シンキング)の訓練が不十分ということなのだろうが、それは、なにも大学生だけにかぎった話ではない。
小・中学校の教育からして、すでに知識習得型の受け身の教育が主流となっていて、自ら問題を発見し、その解を導きだすためのさまざまな方法を自ら考えるという能動的な思考訓練がおろそかになっている。
それを大学生になっていきなり方向転換しようと思っても、3つ子の魂百までもで、なかなか切り替えができないのが実情であろう。
実際に、欧米の教育と比べて、なにがどう不足しているのか。それを確かめたくて、私は、かつて在外研究期間を利用して、イギリスのGCSE(The General Certificate of Secondary Education)とよばれる中等普通教育証明書を取得するための学習コースを自ら体験してみたことがある。
これは、日本の中学3年・高校1年に当たるイヤー10・イヤー11の2年間に履修する学習コースで、そこで修めた成績が大学進学の際の重要な資格基準となる。
私の滞在したイギリス北部のヨークという街では、10代のときにそれを取りそこなった地域住民のために、夜間そのコースを開講していて、私もそこに正式に入れてもらって受講した。
そこで体験した授業を日本の中学・高校の授業と比べた場合、大きく異なっているのは、最終目標が、知識の習得よりは、むしろ知識を用いて物事の本質を考えるということの方におかれていることである。
それが最も端的に現れているのが歴史の授業で、たとえば、日英双方でよく取りあげられる17世紀中葉のピューリタン革命を例にとると、この歴史に名高い革命を学ぶのに、日本では、チャールズ1世の専制政治に反対するクロムウェルら清教徒の一派(議会派)が、国王を処刑して共和国を樹立するまでの経過を一通り教科書で読んで、その中心人物や主だった出来事・年号を暗記するということに学習時間の大半が費やされる。
それを正確に暗記すればするほど試験では高得点を獲得することが可能となる。要するに使う能力といえば記憶力だけだ。
それに対して、イギリスの授業は違う。GCSEの学習コースでは、生徒はピューリタン革命に対するさまざまな資料を読まされる。大半は、実際に渦中にいた人物や傍らでそれを見ていた人物の証言で、それらの証言をもとに出来事の本質を自分の頭で考えるということが学習の中心となっている。
実際、われわれのクラスに課されたのは、チャールズ国王が処刑された翌日の新聞を作るという作業であった。
受講生は、配布された資料の中から事実と意見を分け、さらにその意見を王党派の意見、議会派の意見、あるいは正当な意見、バイアスのかかった意見に分類し、その詳細な分析を通してできるかぎり多面的に客観的に出来事の核心を見定めていくように指示される。
そのうえで、紙面トップの見出しを定め、書き出し・本文・小見出しと、新聞に欠かせない必要事項をすべて書き込んでいくように指示を受ける。
ここで行われているのは、まさに、与えられた資料を額面通りに受けとめるのではなく、そこに客観的、多角的分析を加えながら独自に合理的な判断を組み立てていくという批判的思考を養成する訓練である。
こうした課題をいく度となくこなした後で、最後に課される地域ごとの統一試験もまた、ある出来事に関するさまざまな証言を読んで、自らの客観的・合理的判断を組み立てるという批判的思考力を問う問題が中心となっていた。
先に記したようにこの学習コースの成績が大学進学のための重要な資格基準となっていることを考えると、日本のセンター試験のような単なる知識習得型の入学試験をかいくぐってきただけの学生とは、批判的思考力の点において大きな差がついているのはむしろ当然ということになる。
しかし、だからといって、日本の学生が批判的思考能力に欠けるというのではない。欠けているのは、ただ、その訓練である。
日本のような集団志向の強い文化風土の中では、人の意見に批判的精察を加えるような思考法は根づかないという人もいるが、私はそうは思わない。
実際、私の担当する英語表現演習のクラスの学生に、イギリスのGCSEの学習コースで行われているのと同様な課題を与えてみた。取りあげたテーマは、今日本で一番ホットな話題となっている原子力発電に関する問題。それに関連する出来事や意見を最新の英字新聞の中から20ほど選んで、まずそれを全訳するように指示を与えた。
そこには、政府の見解も、原発に賛成する意見も、反対する意見も含まれている。さらには、日本の再生可能エネルギーの現状、7月1日からはじまったその固定価格買い取り制度に関する概要等さまざまな情報や意見が含まれている。
その情報や意見を一通り訳し終わったところで、今度は、政府が6月に決定した大飯原発の再稼働について、賛成か反対か、その根拠を明確にして英語何百語以上で答えよという課題を出した。
もちろん、意見や情報は与えられたもの以外、独自にインターネット等で取得したものでもいい。それをもとにできるだけ多面的に合理的に自分自身の意見を英語で組み立てよという課題である。
日本の学生が一番不得意とする自分自身の意見をまとめるという課題であるが、返ってきたレポートを見ると、英文に多少の不備はみられるものの、問題を真剣に論じようとする姿勢の伝わってくるものが大半であった。
要するに、テーマを選びさえすれば、学生は必ずそれに真剣に答えてくる。要は、そうした訓練をGCSEの学習コースで行われているようなシステマティックな方法で積み重ねていくことだ。
そうすることによって、日本の学生も欧米の学生と同じように自らの頭で自らの合理的な意見を組み立てていくだけの批判的思考力を身につけることができるにちがいない。多少楽観的にすぎるかも知れないがそれが私の経験から得た結論である。
昨年、私は、創立625周年を迎えたドイツ・ハイデルベルク大学が主催する国際会議に招かれて研究発表を行う機会をえた。
その際、偶々懇親会の席で隣に坐った同大学でPhDを取得し現在アメリカの大学で教鞭を採っている女性教員に、ドイツでは学生は何語で論文を書いているのか聞いてみた。返ってきた答えは、理工系では100パーセント、文系でも70パーセントは英語で書いているというものであった。
要するに、英語はすでに世界の共通語となっている。そのことは日本でもよく知られていて、英語学習の重要性を力説しない大学はない。
しかしその一方で、同じように欧米の教育界の常識となっている批判的思考ということに関してはまだまだ十分知られるところまでは至っていない。
道具の必要性ばかりが強調されて、その道具を使って目的を遂げる方法にまで注意がおよんでいないのが実情である。
これは単に学生の問題ばかりではなく、教える側の問題、あるいは教育制度の設計に携わる人たちの問題でもある。
大学を含めて日本の教育に関係する人たちは、もう少しこの欧米の教育の根底を支える批判的思考ということに大きな関心を寄せてみる必要があるのではないかと思う。