高橋 由明 【略歴】
高橋 由明/中央大学商学部教授
専門分野 経営学
私は商学部で1-2年生に「経営学」を教えて約35年になる。来年3月で中央大学での41年間の教育活動は終わる。退職にあたり、中央大学商学研究会が2013年3月に私の『退職年記念号』出版してくれるので、「中央大学での研究生活を振り返って」を寄稿させていただいた。しかし、教育活動につては十分書けなかった。日頃考え実践してきた、私の教育活動について書かせていただこう。
日本では、大学の専門科目の教育内容や教育方法がどのようであるべきかについて、あまり研究されてこなかった。高校教育までは、教員になる(教員資格を得る)ためには、2-3週間、出身の中学・高校の教育現場に出かけ「教育実習」をすることが義務づけられ、その単位を取得しなければならない。だが、日本の大学では教員なるための「教育実習」が義務づけられてはいない。使用テキストの開発、教育方法の開発は、各教員に任せられているのである。
文部科学省も、良好な分かりやすい教え方を身につけてもらうため、各大学でFD(ファカルティー・デベロップメント)を実施し、教員の教育能力を高めることを要請している。しかし、日本には、欧米諸国やシンガポール等で行なわれているような、新しく大学教員になるための4週間程度の「教育方法」セミナーを実施する機関が存在していない。その具体的な方式は、各大学に任せられている。大学であるから、高校までにある「教育指導用要領」などは存在しない。テキストも欧米の場合、その分野の有名大学教授が代表的テキストを開発・出版しているので、学生はそのテキストの内容に沿った学識を取得していなければ、一定の水準に達していると判断されない。これに対して、日本では、同じ大学でも教員個々人の方法に任せられ、教育内容が難しいか易しいか、単位の取得が難しいか易しいかは、教員ごと、クラスごとに違うのである。このことは、有名大学か否かの大学間格差を著しく拡大させる要因ともなる。
だが、私の専門領域の商学部に関係する科目(経営学、会計学、商業学、情報科学)の分野で、大学の教育科目(カリキュラム)の改善や教育方法の改善に取り組む「全国ビジネス系大学教育会議」が組織されている。それは、主に私立大学で学部長などの要職を経験した教員有志や教育に関心のある教員などが中心になり1983年に組織された。1976年に設置された「全国経営学部長会議」で議論できない教育改革の問題について、部長会議とは別に年に1回会議をもち、集中的に議論するというのがその目的であった。教育方法についても各大学の教育経験が発表・披露されることもある。私は、1991年からその活動に関わっているので、私がそこで行なった報告や日頃の教育活動の工夫をここで紹介していきたいと思う(全国の私立大学の1年生=高校4年生を意識した5人の共著『テキスト』(後記参照、版を重ね約3万冊以上)も出版した。
私の日頃の教育活動でより重要なことは、23年間の経験を踏まえて、毎年配布した、原稿を加筆・修正・改善された単著『テキスト』(2006年出版、後記の業績欄参照)を使用し、多くの学生に理解しやすくするため関連する新聞記事などで、具体例を提供する。それが学生の頭のなかで理解され自分の知識として表現し構成する(文章として書く、言葉として発言する)能力を養成することだと考えている。受講者が約200人の30回の講義で、約3回の講義が終了すると、論理的に関係する5の質問で構成される(①‐⑤の各20点計100点)問題(課題)を与えている。したがって学生は、年間約10問について、B4版の回答用紙両面の全部わたって書く小論文を提出しなければなない。それを授業中に回収し、つぎのクラス時限までに一番よい答案を選びだし、私の手書きで修正し改善し、それをコピーして全員に返却をする。学生には、提出前にコピーした自分の答案と比較し改善することを要求している。今年の毎回の提出者の数は多く、最初の課題に対して80%の学生が、それ以降も少なくとも50%以上の学生が提出した。中間試験と学期末試験の問題はここから出される。私の試験の結果は、90点以上と80点以上が合計で毎年約50%である。私の教育目標は、70-80%の学生が、しっかりした文章が書けることにある。1年生の経営学では、基礎知識を正確に理解し文章として表現(構成)する能力の養成が肝要と考えている。
私が大学院生のころ、日本教職組合(日教組)の教育研修会で、教員の仕事は「聖職」か、それとも一人の労働者の「教職」活動かをめぐって、新聞などで議論されたことがある。教員に課せられる責任と倫理は何か。
私は年に1回は、講義教室での学生に対して、「君たちは将来どんな職業に就きたいのか、どんな職業が自分に適しているのか」、を真剣に考えるべきであることを訴えている。その際、私がどんな理由で、どんな動機で教員なったかを話している。私が大学1年のとき、高校時代からよく議論していた友達から「高橋君は教師になるの? 私は、人を教えるほど偉くないから、教師になれない。君はそれでもなるの?」と挑戦的な質問をされたことがある。大学在学中、商業高校の教師資格をとる教職課程科目の授業を履修していたが、彼女からの質問が絶えず私の頭に残り、人間は神様でないから自信を持って他人を教えることが出来ないと考えてきた。それなのに、私は、結局教師なってしまった。あの挑戦的な質問をいかに解決し教員になったかを、学生に説明している。「もし、誰もが、人間が人間を教育する資格・能力を持ち得ないと考え、教職に就くことを避けるなら、教師は存在しなくなる。発展途上国の指導者は、教育活動を重視したからこそ新興国として発展してきているのだ。だから教育は、その国が経済的に発展するか、平和的(好戦的)になるか、などの意味できわめて重要である。じゃお前は、教育者になる資格をもっているのか?」。私は学生に「毎日、毎日一生懸命教育活動に頑張るから、神様、私が教師になることを許してください!」と真摯な気持ちを忘れないこと。それなら許されるという解決の道を見つけ出したと説明している。私は、この4月古希を迎えたが、今もこの気持ち忘れず教壇に立っている。神様との約束を果たすために!将来あるかもしれないベトナムの学生への教育においいても、同じ態度で臨むつもりである。
「経営学」の授業で、「企業とは何か」について講義する際に、「私立大学(中央大学)は企業ですか?」と質問をすると、3分の2学生が企業であるという回答に手をあげる。私立大学は、利益をあげておらず、わずかだが国から補助金をもらい大学会計基準に基づき運営されているので企業ではない。
現在の私立大学への国庫補助金が、大学予算の約5‐7%程度である現状では、寄付があったとしても、大学財政の90%以上が学生の保護者から支払われる納付金である事実を直視しなければならない。学生納付金無くして私立大学は成り立たないし、教師である私の生活も成り立たない。それゆえ、学生は消費者であり、大学教員はこの消費者の要求に答えなければならない。しかし、消費者の欲求は多様である。私は、最初のクラスで学生に、「この1コマの時間は何円か計算したことはありますか?」と尋ねることにしている。現在中央大学商学部の学生が4年間で払いこむ総額を、1年間で受講する平均回数(1年間30回の授業を12クラス)の4年間分で割った金額は約2,600円になる。つまり、4年間に払いこまれる学費に占める1コマは約2,600円になる。それゆえ、私は教員の義務・責任として、この1コマ2,600円の授業をしなければならないし、君らはそれを買っている、と学生に言っている。
私は、学生を消費者と規定した。賢い学生消費者なら、自分が購入(聴講)しようとする講義の内容が自分の要求に合わないなら、質問しながら改善を要求するであろう。聖職を意識している教員なら、それに真剣対処するだろう。しかし、学生の立場からすると、いつもそうした対応をしてもらうのは難しいかもしれない。私(たぶん他の多くの教員)にとっての最大の課題は、学生が自らすすんで学習する動機づけをどのように行なうかである。学生が学習目的を持ち主体的に学習する動機をどのような方法で与えるか、教員にとっての最大の問題である。
教育とは、ドイツ語でErziehungという。 Ziehenとは、学生の水準に戻り、そこから目標とする教育水準まで「引き上げる」ことを意味する。しかし、その教授過程で学生が自主的に学習しようという気持ちを持たないかぎり、引きあがらない。
新聞などのコピーを配布し、最近の新卒業生の就職困難状況、中大卒業生が海外協力隊として活躍している例などを紹介し、また若干40歳の若さで子会社の社長をしている卒業生に講演に来てもらったこともある。こうした工夫は、学習の動機を高める。学生からの質問には丁寧に答え、参考資料の提示も必要である。
しかし、その動機づけする前に解決しなければならない大きな難題がある。授業時間中に起きる学生たちの私語である。授業中の私語は、大学の良し悪しとは関係ない。私はこれまで、ベトナムで日本の東大にあたる有名大学で3-4週間4年間にわたり教えたことがある。200人の大教室での講義になると、私語が発生し注意しなければ騒がしくなり授業にならないこともある。私は私語をする学生とは徹底的に戦っている。そのつど口うるさく注意すると、止めるかその学生は授業に出て来なくなるので、教室は静かになる。留学生にとっては、講義の内容が私語の騒音で聴き分けられず、とても迷惑であることを強調している。
学生の私語に関する数少ない調査がある。1987年11月に関西にある女子大学の学生641名(全体の13.4%)に対して実施された。対象学生は、とくに私語のあった特定の講義を念頭において回答するように指示されていた(回答割合%)。その主要点は以下のようであった。
上記のアンケート結果からも暗示されるとおり、教員は、学生の私語を防止し、学生が興味を持てるように平易に講義をすることが何よりも必要である。毎回こうした講義を提供するなら、学生の授業への出席率を高め、授業に出なければ面白い話も聞けないし講義内容も理解できないという「学生の授業文化」を高めるであろう。だが、私立のマスプロ大学の学生には、最初から単位さえ取れればそれで良と考えるか、真剣な学習をせず誤魔化して卒業しようとする学生がいる(全体の多分10-20%?)、私は、こうした学生は落第する者と考え無視している。なぜなら、他の真面目な学生の学習に計画的・意識的に影響力を与え、学生の能力を伸ばすという目的を果たさねばならないからである。私の教員としての使命、一生懸命頑張るという私の神様との約束を果たせなくなるからである。大学では落ちこぼれ、いや学習意欲の無い者に対して努力が必要か?ゼミに加入しない、授業に参加しない学生、つまり、既に保護者から学費の支払いで授業(商品)を購入しているにもかかわらず、その授業(商品)の取得を拒否する消費者(学生)のために、教員は労力を無駄にすべきではない。教室での授業風景は、教師と学生とでつくりあげるひとつの文化である。教育過程・学習過程は、教員と学生の両者でつくり上げる文化(行動スタイル)である。大学というところは、学問・討論を通じて(何の利害関係もなく)、生涯の友を発見できる場所であることを、自己の体験を通じて伝えるべきである。教師はその援助をすべきであろう。(詳細については、後記の私の倫理に関する論文を参照されたい)。