トップ>教育>現場に行き当事者に話を聞くことの教育的意味-大韓航空機007便撃墜事件
松野 良一 【略歴】
松野 良一/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論
1983年9月に起きた『大韓航空機007便撃墜事件』という出来事を、覚えておられるだろうか? なんらかのミスによってソ連領空内に進入した大韓航空機007便を、ソ連の戦闘機がミサイルを発射して撃墜した事件だ。破壊された機体は、北海道稚内市の北方数十キロ付近の海域に墜落し、乗員乗客269人(うち日本人28人)が犠牲になった。東西冷戦下に起きた国際的な事件として、歴史年表にも記されている。情報公開が遅れたために、日米ソ間の情報戦や政治的駆け引きだけが大きくクローズアップされた。その後、日本航空123便の御巣鷹山への墜落、北朝鮮工作員による大韓航空機爆破事件が立て続けに起きて、この大韓航空機007便撃墜事件の記憶は急速に風化してしまった感が強い。結局、同撃墜事件は、真相が不透明なままで幕引きとなったばかりか、遺骨も遺品も遺族の元に戻ることはなかった。ある意味、遺族は歴史の中で置き去りにされた形となった。
写真1 遺族14人の方々への取材を基にまとめられた特集「大韓航空機〇〇七便撃墜事件」(中大出版部発行)
FLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミは2009年、稚内でドキュメンタリーの制作活動中に、同撃墜事件の遺族会副会長・中澤建祐さんと知り合い、遺族の証言を記録するプロジェクトを立ち上げた。そして、足掛け3年をかけて、犠牲者の足跡を全国に訪ね歩き、結果的に計14人の遺族の方々にインタビューすることができた。学生たちは、自らの取材体験も含め、遺族の証言を軸にルポルタージュを執筆した。その成果を、中央大学出版部が刊行する『中央評論』277号に、特集「大韓航空機〇〇七便撃墜事件」として発表した。
このプロジェクトを遂行するにあたっては、苦労の連続であった。そもそも、大韓航空機007便撃墜事件は、学生たちが生まれる前の出来事である。だから、同撃墜事件について知っている者は、誰もいなかった。ゼミ生たちは、手分けして資料を収集しプレゼンし、事件の概要、東西冷戦の構造を学習し、その後に遺族の方々に連絡を取った。
しかし、所在が不明である遺族の方も多かった。そして、「もう、忘れたいから」「もう別の人生を歩んでいるから」と面会を拒否された遺族の方もいらっしゃった。一度断られた方には、趣旨を丁寧に説明した手紙を、学生たちが直筆で書いて投函した。その結果、犠牲者10人の遺族計14人の方々から、お話を伺うことができることになった。中には、「学生さんだから、お話します」という回答もあった。
写真2 遺族である中澤さん夫妻を取材する大学生(左)
南は鹿児島、北はサハリンまで、ゼミ生たちが手分けして、取材に出向いた。007便に搭乗するまでの経緯、事件当時、その後の出来事の3ブロックに分け構成的にインタビューし、その証言を記録する作業に当たった。確認のため、電話による追加取材も数回行った。集まった証言は、いずれも、極めて貴重なものばかりであった。
犠牲者10人と遺族14人の物語は、それぞれ独自のものであるが、いくつか共通しているものもあった。それは、①遺体や遺品が戻らなかったことで、遺族は愛する人の死を実感するのが難しいこと、②何らかの事情でフライトや搭乗日を変更して007便に乗り合わせた犠牲者が多かったこと、③なぜ民間の旅客機が撃墜されたのかなど、その詳細な原因や理由が未だに不透明であることへの苛立ちと怒り、④ソ連が回収した遺体や遺品はどこにあるのか、なぜ返さないのかという疑問、⑤遺族は事件後、悲しみを抱きながらも懸命に生きてきたこと、⑥大学生が話を聞き、事件のことを伝え続けてくれることへの喜びと感謝、などである。
このプロジェクトに参加した学生は、取材活動を通して、どういう感想を持ったのだろうか。3人の学生の言葉を紹介しておきたい。
二階堂はるか(経済学部3年=取材当時)は、美術の中学校教諭で米国の美術館巡りをして帰国途中に事件に巻き込まれた中澤建志(享年25)の両親、中澤建祐・トリさんを取材した。そして、こう感想を述べている。
「大切な人を亡くした遺族の時計の針は、止まっているように感じた。合計で20時間ぐらい話を聞いたが、これまでマスコミでは報道されてこなかったことまで話していただいた。報道では○○人と数の大きさがニュースの価値になるが、1人1人に物語があり思いがあることがわかった。そして、その中に普遍的な平和への思いや家族の愛があることを知った」
また増田香織(同)は、息子(享年18)を亡くした羽場由美子さんを取材し、こう記している。息子さんはホームステイ先から帰国する途中に事件に遭遇した。
「大事な家族を亡くした遺族の方にお話を伺うことに、最初はたじろいだ。悲しみを思い出させてしまうのではないかと思ったからだ。しかし、実際に自宅に伺ってみると、私の名刺を大事に受取って仏壇に報告され喜んでくださった。その笑顔が印象に残った。でも反面、きっとこれまで辛かったのだろうと推察し、話を聞きながら涙を止めることができなかった。平和であること、飛行機が安全運航していることが、いかに大事なものであるかを知った」
大湊理沙(総合政策学部2年)は、京都在住の大阪健さんを取材した。大阪さんは、ニューヨークで新しい飲食店の視察をして帰国途中だった弟(享年39)を事件で亡くした。
「歴史的事件の遺族の方から話をお聞きして、大きな衝撃を受けた。記憶は薄らいでいるのかと思っていたが、遺族の方は、ついさっき起きたことのように話された。当時の気持ちは、現在でもそのまま続いていることに気づいた。逆に『人はいつ死ぬかわからないから、一生懸命に生きてくださいね』という言葉をもらった。大学生になって、初めて平凡に生きていることの喜びを実感した瞬間だった」
このプロジェクトに参加した大学生10人全員が、「遺族の方と話すことができて、自分は成長し大人になったと思う」と答えている。さらに「埋もれていた歴史的事実を、自らの努力で掘り起こすことができた」と自信をもち、「貴重な遺族の方々の証言を後世につないでいきたい」と抱負を語っている。
写真3 大韓航空機007便の犠牲者を慰霊して稚内市で毎年行われる「子育て平和の日記念式典」=2009年9月1日筆者撮影
図1 取材活動という行為によって、学生は大学を出て社会と接触することができる
さて、大学でこうしたジャーナリズムの実践活動、調査報道をやる意味とは何だろうか? 私は、意味の1つは、学生が問題意識を持って大学の外に出て、社会や人間、歴史的事実と接触する点にあると思う。図1をご覧いただきたい。
普通の学生は、大学の外に出ることは少ない。講義棟、図書館、学食、サークル棟など、キャンパス内で過ごそうと思ったら、それが可能である。そして、学生とだけ付き合おうと思えば、それも可能である。つまり、大学というクローズドな空間で、同世代の学生とだけ付き合い、大学時代を終わってしまう学生は結構多いのである。しかし、それでは、コミュニケーション能力は向上しないし、社会的なスキルや意識も育ちにくい。
逆に、大学の外に出て、年代の違う人とコミュニケーションしたり、地域社会の様々な職業人と対話することができれば、社会人に必要とされる基礎力を向上させることができる。その実践を踏まえて学習すれば、教育的効果は大きい。
そして、実践活動のもう1つの意味は、歴史的事実と接触することで、個人や家族という小さな単位と、社会や国家という大きな単位、そしてそれらの関係性について、本だけでなく体験的に認識を深めるきっかけになることだ。特に、『大韓航空機007便撃墜事件』は、「日本近海で戦闘機が民間機を撃ち落す」という歴史的にも稀有な事件である。なぜそういう国際的な事件が起きたのか、遺族はどんな気持ちなのだろうか、という素朴な疑問が、今回の活動の強いモチベーションとなった。遺族の証言を記録する作業のプロセスの中で、学生たちは、人間とは何か、人間が作り出した組織・社会・国家とは何か、なぜ戦争は起きるのか、未然に防ぐにはどうすればよいのか、などの問題にぶつかり、自らが具体的に考えるきっかけになったと思う。
大学内での学習と地域社会でのフィールドワーク。この2つの組合せが、デジタル時代を生きる学生にとって、重要であると考える。