本稿は、担当している総合政策学部の講義「アメリカ社会文化論」の一端を紹介する論文の抜粋である。講義では、アフリカ系、日系、ヒスパニック系の3グループについて、それぞれの民族が歴史的に直面した、または昨今、直面している問題に触れながら、言語や文化の視点から話を進めていく。講義の中で常に心がけているのは、できる限り実体験を交えて具体的に話すことで、学生たちに生のアメリカの姿に触れてもらい、知らなかったことを知ることで、アメリカへの興味を更に大きく膨らましてもらうことである。そのために、現地での研究調査を継続的に行っているが、本稿は2010年3月に、サンフランシスコ日系人コミュニティーの日本語学校「金門学園」を訪問して行った聞き取り調査をまとめた論文の一部である。
1.はじめに
アメリカ合衆国への移民は、近代国家を創出するため日本が一連の大変革の嵐にさらされた明治維新(1868年)に始まり、とりわけ1882年の中国人排斥法の後、中国人移民労働力を肩代わりする役割を担ってアメリカに迎え入れられた。その後、1907年の日米紳士協定により、両国政府は労働移民の渡米制限を行ったが、一方で在留民の家族の入国を許していたため、女性を中心とした家族移民がアメリカへ渡った。この間1924年に人種差別的な出身国別割り当て移民制限法が施行されるまでに入植した日本人を一世、アメリカ生まれのその子どもたちを二世、二世を親に持つ世代を三世、三世を親に持つ世代を四世と定義して、そのすべての人々を総称して日系人と呼ぶのが一般的である。但し、例えば20年ほど前の1990年に日本からアメリカに渡り、その後アメリカ市民権を取得した日本人も言わば一世ということになるが、その場合、新一世と呼んで区別している。
日系人の大規模なコミュニティーとしては、ロサンゼルスのリトル東京と並んで、サンフランシスコのJapantown(日本町)が有名である。東西にLaguna StreetからFillmore Streetまで、南北にGeary StreetからCalifornia Streetに跨る地域には、通りの名前に日本語が併記され、スーパーマーケット、雑貨店、書店、レストラン、銀行、ホテル、教会、寺院、日本語学校、高齢者ホーム、コミュニティー・センターなど、必要な施設のすべてが歩ける範囲に軒を並べ、いわゆる日本人街が形成されてきた。日系人コミュニティー日本町は、生活に不可欠な日本のものを調達する場所であり、同時に必要な情報と日本人としての絆が確認できる精神的な場所でもあった。英語能力が充分でなかったことで白人社会になかなか同化できず、市民権取得を阻まれ、労働組合からも除外され、高収入をもたらす職業に就くことができなかった一世たちは、子どもたちがそのような不利益を再び被ることがないように教育を最優先し、子どもたちに学校で成果をあげることや不祥事を起こさないことを期待し、事実、その結果として、卒業式総代を日系人の子どもが務めることは珍しくなかった。また一世たちは、子どもたちを日本語学校に通わせて、日本語の維持ばかりでなく、歴史や地理など日本に関する知識の修得にも努力を払わせた。なぜなら彼らは日本人であり、親孝行、我慢、恥、義理、従順、正直、勤勉など、日本的な伝統や価値観を身に付けることが大切だと考えたからである。
2.日本語教育の草創期
ハワイに日本語学校が開設されて6年後の1902年に、米国本土では初めてワシントン州シアトルに「シアトル国語学校」が開設された。同じ年、神奈川県出身の佐野佳三夫妻が、現在のサンフランシスコ市日本町付近に民家を借りて教育を始め、翌年1903年1月12日、「日本小学校」を開いた。続いて4月19日、本派本願寺派桑港仏教会が「明治小学校」を開き、11月には、サクラメント仏教会が「桜学園」を開設した。当時、宗教と教育は密接な関係を持ち、学校はそれらの団体付属施設として開設されることが少なくなかった。当時在米日本人に妻帯者は少なく、児童数が少なかったことから、学校経営は困難であった。また公立学校において東洋人児童への排斥の気運があったため、日本人学校開設が排斥の気運を助長することを懸念する意見もあり、学校経営者は苦境に立たされていた。
1893年、排日運動は日本人学童を対象とした排斥となって現れた。5月14日、サンフランシスコ市教育委員会は日本人の公立学校入学を拒否した。これに対し当時の領事珍田捨巳(1890年着任)は、在留日本人の有力者とともに請願書を送って執行停止を求め、市教育委員会は日本人児童入学拒絶案を一応取り消したが、排日の気運はくすぶり続けた。1905年10月11日、市議会は突如日本人児童の公立学校通学拒否を決議し、15日以降は東洋人学校へ転出させようとした。日本人父兄は屈辱的差別であり、日米条約の侵害であるとそれを拒否し、上野季三郎領事(1901年着任)も市当局に抗議する共に、州知事にも働きかけたが功を奏さなかった。これに対しルーズベルト大統領は、サンフランシスコ市に対してその撤回を命じたが市の態度は変わらなかった。日本政府は最恵国待遇を規定した通商条約に違反すると主張し、アメリカ政府も同様の見解を示したが、市は学務行政は州の自治権に属すると反撃した。
排日運動が激化するにつれ、在米日本人は各地に「日本人会」を結成する必要性を痛感し、1905年3月サンフランシスコに「連合協議会」が設置された。その後「在米地方日本人会」に発展し在留日本人のために活発な運動を展開していった。活動内容は多岐にわたり多忙を極めたが、日系児童の教育問題にも取り組んだ。1911年9月には、衆議院議員島田三郎、当時日本教育界の重鎮であった法学博士新渡戸稲造を招待して大学やアメリカ人クラブでの講演を依頼した。また、各地に創設された日本語学園は相互に連携も無く、教育方針がそれぞれ異なり、日本の教育を中心としたものからアメリカの教育を主としたものまで様々であったため、1912年4月「在米日本人会」がその統一を図るべく、在米日本語教育史上画期的な大会を開催した。
1912年から1922年ごろまでにカリフォルニア州だけでも40余校の日本学園を数えたが、折しも、第一次世界大戦勃発、1917年米国参戦により、米国内にはアメリカナイゼーション運動の下、ドイツ語学校、イタリア語学校、中国語学校、そして日本語学校など外国語学校に対する圧迫が露骨になっていた。1923年には、カリフォルニア州議会において「外国語学校取締り法案」なる法案が上下両院で可決され、1927年に取締まり法が禁止されるまで10年もの間、圧力を受け続けた。しかし、最盛期を迎えたカリフォルニア州の日本語学園総数は、248校、生徒17,834名、教師545名、年間経費397,990ドルという規模に達していた。
3.金門学園の創設と発展
1910年5月2日、サンフランシスコ市「在米日本人会」を母体に、在留日本人社会の児童に対する日本語教育機関の必要性を唱える有志が集まり、「金門学園」創設についての会議が行われた。会議では、この案件に関する調査委員として、青木道嗣、堂本誉之進、石丸喜一、大久保逸次、寺沢久次の各氏が選出された。翌月6月7日には、学園設立の具体化に意見の一致をみて、実行委員会を決定し、幼児科50名、小学部50名、園長ほか教師1名、保母2名、月額経常予算350ドル~400ドルで運営する企画を立てた。
1911年1月18日、学園校舎として現校舎の所在地である市内2031 Bush Streetの家屋借り上げを決定し、2月9日には、新渡戸稲造博士の推薦により、鎌田政令氏を日本から招聘して初代園長とすることを決定した。また教師としてサンフランシスコ市内の豊明小学校から鈴木孝志氏を迎え、保母として須藤せつ子氏も迎えて開校式に備えた。同年4月15日午後1時から開校式が挙行された。金門学園は、公立学校に通学する児童に日本語の補習をすること、また公立学校入学準備のための幼稚科を設けて、英語指導することを目的とした。この時、クラスは幼稚科12名、予備科12名、補習科21名の生徒で構成された。さらに、10月になると、豊明小学校を併合して正式に「金門学園」と称した。1916年には生徒数が150名近くなり、その後、毎年増加の一途をたどった。1927年から第2次世界大戦中、学園が閉鎖される1941年まで、生徒数は500名前後で推移した。
4.おわりに
日系一世がいかに真摯にまた熱心に日本人としての価値観や、自らのアイデンティティである日本語を二世、三世に伝えようとしたのか、その具体的な形として金門学園の日本語教育が、どれほど重い責任を負って日系人の子どもたちの言語教育を担ってきたのか明らかである。日系一世は子どもたちの教育を最優先して、子どもたちが高収入の得られる仕事に就くことを願った。今日、日系人たちは一世が悩まされた言葉の障壁を乗り越え、高学歴、高収入を現実のものとして手に入れ、他民族との混血化も急速に進んでいる。彼らは日本人の価値観を共有する一方で、アメリカ人としてのアイデンティティを身につけて同化し、社会のあらゆる分野で活躍するようになった。家庭内のコミュニケーションがすべて英語で行われ、日本語をいわば外国語の一つと捉える三世、四世も少なくない。1911年の金門学園創設から100年の歳月が流れ、日系人にとって生活の中枢を実際に担ってきた日本町が、単にシンボルのような場所と化してきている現在、金門学園がこれまで果たしてきた役割とは異なる、次の100年を迎える新たなあり方が期待されるのは、むしろ当然であり自然であるのかもしれない。創立80周年記念『金門学園の歩み』(1991)の中で、財団法人金門学園理事長倉本寛司氏は、「一世、二世、そして三世、四世とこの日系社会も変わり、故国日本から外国の日本へと見方も変化してきた。日本人の血が流れているから、当然日本語を使い、日本文化を知るという常識と期待は残念ながら希薄になってきている。この日系社会に残された教育、文化の遺産をどのように後世に伝えていくか、真剣に考慮し努力している。今までの日系子弟中心の日本語教育から、アメリカにおける日本語教育をもっと高い立場での日本語教育、日本文化センターとして、ますます複雑になる日米両国関係に役立つものにしたい。」と述べている。
付記:本稿は、『人文研紀要』第70号、中央大学出版部、2010年に掲載された「アメリカ日系人社会の言語への取り組み―サンフランシスコ金門学園を事例として―」の一部である。参考文献の引用は省略してあるので上述の論文を参照されたい。