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教育一覧

池田 賢市

池田 賢市 【略歴

教科書は厚いほうがよい!?

池田 賢市/中央大学文学部教授
専門分野 教育学

はじめに

 教育の世界で「個性」とか「自由」といった言葉が政策の中心課題として、脅迫的なまでに学校現場や子どもたちに課されるようになっています。「個性的」であることが求められ、ひとり一人違ってよいのだといったことが金子みすゞの詩とともにアピールされることも多くなりました。けれども一方で、「学力」については、「みんなちがってみんないい」というわけにはいかないのは不思議だと思いませんか。

必要なものはみな違う

 そもそも同じ年齢なら同じことを勉強しなくてはいけない、というのも変な話です。それでも小学生のうちならば、みんな同じ内容を学ぶというのも感覚的にわかる気はしますが、高校生になってまでみんな一緒でなければいけないというのは、逆に感覚的におかしな気がします。それこそ各人の「個性」や「自由」に基づいて、関心のあるもの、実際に自分にとって必要なものは違ってくるはずです。

 ずいぶん前のことですが、自動車整備工場に車をもっていきエンジンの調子をみてもらったことがあります。いろいろとメカニックな説明を受けたのですが、私の反応が悪かったせいか、「これくらいのことは中学校の技術の時間でやったはずだ!」と言われてしまいました。「吸入・圧縮・爆発・排気」しか覚えていない自分を反省しつつも、ならばあなたは、英語である程度議論もできるし、フランス革命における市民とは何かも説明できるし、杜甫や白居易の漢詩のいくつかは暗唱しているんですよね……と言いたくなってしまうわけです。みな関心も興味も違いますし、それが職業と結びつく内容となれば、必要な知識内容の幅もますます広くなってきます。そこではみんなが同じように知っているはずだという前提は成り立たなくなります。

共通教養という考え方

 教育政策は国の存立にかかわる重要事項です。その際、「国民」として知っていなければならない「最低限の」知識は何かという議論になります。しかし、これをリストアップすることは容易なことではありません。というよりも、結論を急げば、そのような項目の確定は無理です。アメリカで試みられたことがあり、何百項目とリストが作られたのですが、結局、誰もが知っていなければならない知識内容の根拠は脆弱なものにならざるをえませんでした。

 なぜなら、知識は「中立」なものではないからです。教科でいえば社会科が、その典型としてよくあげられます。たとえば、戦争や原爆のことをどのように書くかをめぐっては、国際問題にも発展します。他の教科にしても、それを支えているさまざまな学問がこれまでに明らかにしてきた膨大な知識・技術の中から、何を選び、それをどう配列するかは、人為的なもの、ある意味では「政治的」な行為になっていきます。各国の教科書比較は、卒業論文でもよく取り上げられるテーマなのですが、客観的と思われている理科系科目においても、その記述の仕方や扱う内容の違いに多くの学生は驚きます。

 要するに、「共通する知識」とは「政治的な」知識なのですから、誰がそれを決定していくかが大きな問題になります。誰が多数派として主導権を握るかが「知識」内容の確定に大きく影響することになります。

排除のシステム

 それでもやはり、最低限知っていなければならない知識はあるはずだ、という発想の誘惑からなかなか逃れられないと思います。たとえば、言語については共通性が必要ではないか、と。日本語は誰にも必要な知識であるということについては争う点がないかにみえます。

 しかし、なぜ日本語でなければならないのでしょうか。厳密にいえば、日本には公用語の法規定はありません。ですから、学校現場でおなじみの「国語」で扱う言語が「日本語」であるという法的根拠はかなり弱いものと言わざるをえません。

 1990年代以降、日本ではいわゆるニューカマーの子どもたちの教育問題が大きく取り上げられるようになりました。それは、「日本語指導が必要な児童生徒」という表現が使われていることからもわかるように、「言語」の問題として具体化しました。別の見方をすれば、日本語でしか教育が保障されない日本の教育制度上の問題ということになります。公用語の規定がない状態で、日本語の使用が当たり前であると発想することは、国内での他の言語を日本語と対等な言語であると認めていないことを意味します。

 公用語とは、「多言語が併存していることを認め、そしてそれらの言語の話し手に、それを公的な場で用いることができる権利を保証するための制度」であり、「それは何よりも、言語権と称される基本的人権にふかくかかわる概念」(田中克彦「公用語とは何か」、『言語』第29巻第8号、大修館書店、2000年、44~45頁より)なのです。つまり、多文化状況下で、安易に一つの言語の使用を前提にし、しかもそれを共通の知識として確定することは、議論のないままに他の言語を排除することであり、基本的人権の侵害ということになります。

 少し冷静になって考えれば、この日本においても、実に多様な文化と言語が存在していることがわかります。このような複数性を無視した「共通性」の無自覚的強要は、排除のシステムを正当化してしまいます。

複数性の大切さ

 国際人権規約や子どもの権利条約では、義務教育の保障とともに、子どもたちに固有の言語や文化への権利の保障がうたわれています。とくに移民を多く受け入れている国々では、母語保障がとても重要な政策課題になっています。私の研究上の専門は、フランスの移民教育です。フランスは、この点においてはかなり先進的ではないかと思います。移民送りだし国との二国間協定という方法でその言語の教員を派遣してもらい、フランスにいる子どもたちの母語を保障しようとしています。また、フランス社会への移民の積極的な参加を議論する首相直属の統合高等審議会という組織も、その1995年の報告書の中で、移民がもつその出身国への愛着は自然なものであると述べることで、移民がその文化的特性を保つことを積極的に評価しています。つまり、フランス共和国は文化の複数性の上に成り立っているのだということが強く自覚されているわけです。

生活こそ基盤

 話を戻して、このような多様性の認識と「学力」との関係をみてみると、現在の日本の学校には、「自分には何が必要なのか」をじっくりと考えさせてくれるようなゆとりがないことに気づきます。

 「その子のいま」にとって重要なこと(必要なこと)はそれぞれ異なるはずです。だからこそ、むしろ教科書は厚いほうがよいのです。いろんな子どもがいて、いろんなことに関心があり、いろんなことを必要としているわけですから、教科書にはいろんなことが書いてなければいけません。しかし、書かれていることすべてが、すべての子どもにとって必要なことではありません。学校はいろいろなことが勉強できる場でなければいけませんが、そのすべてを勉強しなければいけないわけではありません。

 教科書作成の基準になる学習指導要領が改訂され、教科書の内容が増えましたが、わたしたちはそれを覚えなければいけないものと考えてしまいます。ですから学校現場は一層ゆとりをなくし、限られた時間で詰め込んでいくしかない状況となってしまいます。しかし、子どもたちに「個性」をもとめ、教育における「自由」を言うのであれば、何をどのように、どんな順番で学ぶのかということについても、「個性」と「自由」とを尊重した教育制度であるべきです。いいかえれば、それぞれの子の「生活」の多様性を前提とした学びの多様性が保障されなければいけません。

大学での学び

 大学での学びは、まさにこのような性質をもっています。現実として高校までの段階で保障されてこなかった自分にとっての学びの意味にじっくりと向き合う時間が保障されています。というよりも、自分にとって必要な学びとは何かを考えなければ大学での勉強は意味をなしません。高校までとはまったく異なり、大学では自分で学びをアレンジしていくことが求められます。

 だからこそ、大学での「学力」は実に多様です。ひとつの尺度に乗るようなものではありません。

おわりに(点数に振り回されない視点を)

 大学に限らず、本来、勉強とはこういうものなのですが、わたしたちは「学力」に関しては一律の基準を当てはめようとします。その場合、点数として見えることが重視されます。英語80点、数学60点……しかもそれらの点数の合計や平均点で判断しようとします。しかし、英語と数学の点数を「たす」ことにどんな意味があるのでしょうか。というより、たせるのでしょうか。平均70点ということに何か意味があるでしょうか。日本での議論では、いったんなんらかの数字が与えられると、それをもとにいろいろな科学的操作をして分析・解析していきます。しかし、そもそも元の数字の科学性は担保されているのでしょうか。いろんな組み合わせで80点という数字が出ているのであり、またどの子にとっての80点かによってその意味は大きく変わってきます。学力の中味をもっと丁寧に見ていかなくてはなれません。そうでなければ、「個性」も「自由」も意味をもってきません。

 わが家には猫が10匹います。犬を4匹飼っている家もあります。「平均7匹ですね」と言われても意味がわかりません。「ミミズ3匹と蛇10匹よりも1匹多いですね」と言われても、ますます混乱します。英語と数学の点数を「たす」のも、本来はこれと似たようなことなのです。

池田 賢市(いけだ・けんいち)/中央大学文学部教授
専門分野 教育学
1962年、東京都足立区生まれ。筑波大学大学院博士課程教育学研究科中退。博士(教育学)。盛岡大学、中央学院大学を経て2005年から中央大学に勤務。大学では、国際比較教育学、教育制度・行政学などを担当。専門は、フランスにおける移民の子どもへの教育政策。1993~94年、フランスの国立教育研究所(INRP・パリ)に籍を置き、学校訪問などをしながら移民の子どもへの教育保障のあり方について調査・研究。最近は、インクルージョンに舵を切ったフランスの障害児教育制度改革についても検討している。
主に著書として、『フランスの移民と学校教育』(明石書店)、『世界の公教育と宗教』(共著、東信堂)、『教育格差』(共編著、現代書館)、『法教育は何をめざすのか』(編著、アドバイテージサーバー)など。