早稲田評論
▼音楽評
菅野 由弘(かんの・よしひろ)/早稲田大学理工学術院・表現工学科教授・作曲家 略歴はこちらから
映像音楽の衰退
菅野 由弘(かんの・よしひろ)/早稲田大学理工学術院・表現工学科教授・作曲家
2012.2.24
かつて無声映画時代、映画館には活動弁士と楽士がいて、映画に合わせて芝居を語り、音楽を演奏していた。その後、トーキーと呼ばれるサウンドトラックを持つ映画が登場し、現在に至るまで映像には「音」がついている。
さて、昨今の映画やテレビドラマの音楽は、「何となく流れている」ものが多くなった、と感じたことはないだろうか。こうした映像作品における音楽の役割は、極めて控え目でなければならない。音楽が表立つようでは、失敗作である。「目に涙をいっぱいに溜めさせるのは映像の力だが、最後に、ポロっと、その涙をこぼさせるのは、音楽の力だ」という言葉があり、言い得て妙だが、その最後の一滴の涙のために、決して目立たぬように歌い上げる。
ところが最近は、もう少しで涙が落ちそうなところで、ふっと音楽が消えたりする。現代的なドライな表現をねらって、敢えて涙を溢させないのではない。「ここまでやれば、貴方には分かるでしょう」という突き放した表現でもない。
この現象の一因に、予算削減のための「選曲」システムがある。本来の映像作品は、作曲家が、その作品だけのために、オリジナルな音楽を、監督との綿密な表現検討を経て作曲する。そして、一級の演奏家を揃えて録音するわけだから、相当なお金がかかる。私がNHKの大河ドラマ「炎立つ」(ほむらたつ)の音楽を担当した時には、毎週、10-15曲を作曲し、録音していた。最終的に、400曲以上になった。この場合、よほど腕が悪くない限り、涙が溢れる前に曲が終わったりはしない。ところが、予算がない場合、とりあえず80曲くらい「運命の曲」「戦い」「感情の発露」「会議の音楽」といった具合に作曲し、それを、選曲マンが、場面に合わせて貼り付ける、といった作り方をする。どことなく長さが合わなかったりするのは当然である。今放映中の大河ドラマ「平清盛」は、久々に聴き応えのある音楽だが、残念乍ら、何時の間にか音楽が滑り込み、消える。音楽を、うまく編集しているので、全体の尺は合っているのだが。またこの、長さを合わせるための編集が鬼門である。
音楽は時間の芸術だが、感性によって構成されている。これを編集するのは、例えば「芽が出て葉が出て花が咲く」と作られたものを、芽が出て、いきなり花が咲くようにしたり、花が咲いた後に芽が出るようなものだ。それもシュールで良い、というのとは話が違う。感性の編集が常態化していることは、由々しきことである。予算と時間のために、音楽的感情はズタズタに切り刻まれる。しかし、こうした事には普通は気づかない。ただし、聴取者はそれほど馬鹿ではない。いつの間にか、お客様に背を向けられる道を、歩んでいる様な気がしてならない。
「炎立つ」サントラ盤第一集
同第二集
菅野 由弘(かんの・よしひろ)/早稲田大学理工学術院・表現工学科教授・作曲家
東京芸術大学大学院作曲専攻修了。79年「弦楽四重奏曲」がモナコ・プランス・ピエール作曲賞。94年、電子音楽「時の鏡Ⅰ ―風の地平」がユネスコ主催IMC推薦作品、02年「アウラ」でイタリア放送協会賞受賞。作品は、国立劇場委嘱の雅楽、聲明、古代楽器のための「西行―光の道」(春秋社刊)、NHK交響楽団委嘱のオーケストラ「崩壊の神話」、NHK大河ドラマ「炎立つ」、NHK「フィレンツェ・ルネサンス」など。