早稲田評論
▼映画評
藤井 仁子(ふじい・じんし)/早稲田大学文学学術院准教授(文学部) 略歴はこちらから
「何か」が見える 高橋洋の『旧支配者のキャロル』
藤井 仁子(ふじい・じんし)/早稲田大学文学学術院准教授(文学部)
2012.5.11
高橋洋の新作『旧支配者のキャロル』が、「コラボ・モンスターズ!」の1本として5月12日からオーディトリウム渋谷で公開される。『リング』など、ホラー映画の脚本家として知られる高橋が監督した初の人間ドラマというふれこみだが、そんなことがどうでもよくなるほどの圧倒的なテンションが張りつめた一作だ。
映画学校を舞台に、監督志望のヒロインが、講師であり畏敬の対象でもある大女優を主演に迎えて卒業制作の現場に臨む。だが、いつしか現場は修羅場と化し、個人のコントロールを超えた恐るべき力に誰も彼もが呑みこまれてゆく。幽霊こそ登場しないものの、不意に日常を断ち切るような得体の知れない「何か」に直面させられたときの人間の姿を描くというのだから、高橋のねらいにこれまでと本質的な違いがあるわけではない。にもかかわらず、この作品が高橋の過去の監督作を大きく凌駕しているとすれば、それはその得体の知れない「何か」を、実際に画面で見せてしまったからに違いない。
日常を断ち切る「何か」といっても、映画である以上、具体的に示される必要がある。しかし、それは至難の業だ。実際、高橋の前作『恐怖』には、人間が考えている世界の外側からの光という魅力的なアイデアが登場するが、いざ画面に示されたそれは、ただの白い光でしかない。観客がただの白い光を人間が見てはならぬ「何か」だと思って見ない限り、『恐怖』が真に観客を恐怖させることはないのである。
だが、『旧支配者のキャロル』は違う。フィルムを浪費するばかりで現場の統率力を欠くかに見える監督への不満を募らせていたスタッフたちが、一転、自分たちがとんでもないものに巻きこまれていることを知るのは、ラッシュ試写のシーンにおいてである。デジタルで撮られた作品中、この映画中映画だけがフィルムらしいざらついた質感を強調されているが、椅子に縛りつけられた大女優が喘ぎながらゆっくりと脚を開いていくこのラッシュフィルムのただならぬ画面の質こそが、すべての登場人物を、そしてそれを見ているわれわれまでをも、後戻りのきかない地点へと連れ去る「何か」なのだ。
思えば『リング』では、呪いのビデオの粗く平面的ないかにもビデオらしい画面の質感がそのような「何か」だったのだから、フィルムとビデオの関係は、10年以上の時を経て完全に逆転したことになる。このことは、われわれの日常に違和を突きつける映像の質が、すでにビデオのそれからフィルムのそれへと移行してしまったことを告げているのだろうか。
藤井 仁子(ふじい・じんし)/早稲田大学文学学術院准教授(文学部)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学、立教大学文学部助手などを経て現職。専門は映画学、特に日本映画と現代アメリカ映画。映画評論家としても活動。
編著書に『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院)、『甦る相米慎二』(共編、インスクリプト)、共訳書に『わたしは邪魔された――ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房)など。