早稲田評論
▼美術評
向後 恵里子(こうご・えりこ)/早稲田大学文学学術院助教(文化構想学部) 略歴はこちらから
ハミッシュ・フルトン ――五つの旅 HAMISH FULTON: FIVE WALKS展――この地上から
向後 恵里子(こうご・えりこ)/早稲田大学文学学術院助教(文化構想学部)
2012.4.13
ハミッシュ・フルトンは歩く作家"Walking Artist"である。彼の作品は「歩くこと」からすべてがはじまる。5つの旅――FIVE WALKSと名付けられたこの展覧会は、彼の5つの歩みから生まれた作品で構成されている。
フルトンは、60年代後半における従来の美術の枠組みを超えていこうとする動きの中から作品を発表しはじめた。美術学校の同窓に、自然の中での彫刻行為(ランド・アート)に挑んだリチャード・ロングや、自らを「生きる彫刻」となしたギルバート&ジョージがいたことからも、当時の熱い息吹が感じられよう。フルトンが挑んだのは、「歩くこと」から芸術を生み出すこころみであった。
ある一定の期間、特定の場所を歩き、そのあとで写真やテクストによって旅路を示す。近年では壁面全体を使ったタイポグラフィックな表現も多いが、本展ではそのルーツとなる、写真と短いテクストとで構成された作品を見ることができる。
豊かな階調のモノクローム写真は、ひとつの旅につき1枚のみが引き延ばされる。多くの人にとってああ、あの、と思わせるような名所旧跡は選ばれない。むしろ路傍の、なんてことはない、ただそこにあるものがあるがままにとらえられている。添えられたテクストはきわめて簡潔に、彼が歩いた時間と空間とを説明する。たとえば1971年にウィンチェスターからカンタベリーまで165マイルを10日間、1986年に那智勝浦から奈良法隆寺までを16日間といった具合に。
その何気ないモティーフと、具体的なテクストとがあわさって、私たちは過去のある時点、旅程のどこかで、フルトンがそこに歩み寄り眼をとめたのだ、という確かでありながらどこか曖昧な了解をする。その1枚に彼の道行きが凝縮されており、しかし同時にそれはただ一瞬――彼がシャッターを切った瞬間の痕跡にすぎない。
砂地に残るビーバーの足跡、雨に曝された木の壁、鳥の糞が落とされた石、多くの人が踏み固めた古い道、あらためて見ると、出品作はどれも彼が見た何かの痕跡でもある。何かが自然の中で作り上げ、また刻々と変わり得る、そうした被写体を愛おしむかのような視線は、フルトンの旅でありながら、しかしそのあとを追いかけているような、自分ももしかしたら通ったかもしれない旅の、どこか甘美な追想を許してくれる。
こうした幸福な時間をさらに得難いものにしているのは、隅々まで配慮された展示の力である。ビーバーの足跡が伏せた目線の下へ来るように、木の壁が眼前にせまるように、作品はその大きさとモティーフによって、非常に低く架けられている。観賞者の目の高さを中心とする一般的な展示通念からすれば下過ぎると言ってよい。しかし、その繊細な配置は、フルトンが寄り添ったものへ、私たちもそっと寄り添ってゆくことを可能にしている。
(同時代の眼Ⅰ「ハミッシュ・フルトン ――五つの旅」展、2012年3月1日-4月20日、慶應義塾大学アート・スペース、http://www.art-c.keio.ac.jp/event/log/339.html)
参考URL:
ハミッシュ・フルトンHP 「Hamish Fulton - walking artist」
http://www.hamish-fulton.com/
向後 恵里子(こうご・えりこ)/早稲田大学文学学術院助教(文化構想学部)
早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系助教。同大学第一文学部美術史専修、同大学院文学研究科芸術学(美術史)専攻出身。専門は日本近代美術史、視覚文化論、表象文化論。主要な論文として「東城鉦太郎――日露戦争の画家」(『近代画説』17)、「光の帝国―日露戦争におけるイルミネーション」(『ワセダ・レビュー』43)など。