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研究力

▼WASEDA研究特区―プロジェクト研究最前線―

ファラオ5000年の夢を追って―エジプト学研究所

未盗掘の完全な状態で見つかったミイラ「セヌウ」

 エジプトの首都・カイロの南にあるダハシュール北遺跡。2005年1月5日、この遺跡で早稲田大学エジプト調査隊は、全面に青色の文字で銘文が書かれた黄色い木棺を発見した。木棺の中で眠っていたミイラの名は「セヌウ」。髪と眉を鮮やかな青で彩色されたマスクをかぶっていた。ツタンカーメン王のミイラよりもさらに400年古い、今から約3800年前の史上最古級、未盗掘の完全な形のミイラだった。ニュースは世界を駆け巡った。

 欧米の調査研究に遅れること200年、1966年に川村喜一教授(当時は講師)と第1文学部の学生だった吉村作治教授(早稲田大学客員教授・サイバー大学学長)ら5人の学生が始めた早稲田大学のエジプト調査。この調査が日本のエジプト研究の嚆矢となり、わずか40年の間に数々の新発見をして、新しい局面を切り開いてきた。

 全国各地を巡回している「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」で並ぶ約250点の出土品の一つひとつには、休むことなく発掘を続けてきた研究者たちの思いがつまっている。「ゆくゆくは研究所をつくる」と誓い、23歳でエジプトに向かった吉村教授。その思いは2000年4月、「エジプト学研究所」の発足で実現した。20人以上の研究者を輩出し、早稲田大学だけでなく他大学、他機関からも研究員が集まっている。早稲田の、そして日本のエジプト研究を担うエジプト学研究所所長の近藤二郎教授(文学学術院)は「100年、200年と続け、日本ならではのエジプト学を発信したい」と話した。

「発掘を死ぬまで続けよう」

 1966年9月、後にエジプト学研究所の初代所長となる吉村作治教授ら5人の学生は、石油会社のタンカーに乗せてもらい、2週間かけてエジプトに辿りついた。吉村教授が毎日のように早稲田大学総長室前で待ち続け、部屋から出てきた総長に直談判して許可を得た調査だった。その後、早稲田大学調査隊はエジプト考古庁と交渉しながら発掘選定地を探し続け、1971年、東洋人として初めて発掘権を取得、マルカタ南遺跡の発掘調査が始まった。

 しかし、大きな成果はなく文部省(現・文部科学省)の科学研究費補助金を受けられる3年が終わろうとし、発掘をあきらめかけた1974年1月、彩色階段を持つアメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」を発見。最初に挙げた大きな成果となった。そして、当時の村井資長総長により大型基金がつき、1976年にはルクソール西岸に発掘拠点となる研究施設「ワセダハウス」が完成、近藤教授(当時・大学院生)も調査隊に加わり、翌年には学内に古代エジプト調査室が開設された。

 軌道に乗り始めた早稲田のエジプト研究だったが、隊長の川村教授が病に倒れる。1978年12月、日本で入院していた川村教授は、「魚の丘遺跡」の発掘結果を見ぬまま48歳の若さで急逝した。吉村教授は恩師重篤の報を聞き、亡くなる数日前にエジプトから病床にかけつけた。「エジプトの日誌を整理して本にまとめてほしい。先に逝ってしまって悪いね。無念だ」。川村教授はそう言い残し、エジプト研究への情熱を吉村教授に託した。「発掘を死ぬまで続けよう」。日本の新聞社に就職が決まり、カイロ支局に赴任することになっていたが、恩師の死が吉村教授の運命を変えた。

ハイテク早稲田、世界を席巻

ミイラをCTスキャンする調査隊

 川村教授の死で、一度は頓挫しかけた早稲田大学のエジプト調査だったが、吉村教授ら調査隊はあきらめることなく発掘を続けた。1983年1月には、ルクソール西岸クルナ村で200体のミイラと人骨を発見した。CTスキャンとCGを使ってミイラの顔を復元し、ヨーロッパで発表したところ、早稲田のハイテク技術を使った「物理探査」が注目を浴びた。

 「欧米と同じ調査をやってもかなわない。日本ならではの調査をしよう」。1987年には地中に電磁波を放射しその反射波を解析して地中を探査する日本の最先端技術「電磁波地中レーダー」を使って、ギザのクフ王の大ピラミッドを調査。ピラミッド内に未知の空間を発見したほか、南側に埋納された世界最古の大型木造船で、王の魂が天空を行き来するための船「第2の太陽の船」を確認した。1991年も電磁波地中レーダーを使って、アブ・シール南丘陵遺跡を発見し、100年前から世界中の調査隊が探していた人類最古の考古学者「カエムワセト」の埋葬殿を発掘した。側壁を飾ったと思われるレリーフ片や、石材、石柱など、3000点あまりが次々と出土した。

熟年から老年の男性と推定し、セヌウの顔をCGで復元

 1996年からは東海大学と共同で、世界で初めて人工衛星で撮影した画像をコンピューターで解析してダハシュール北遺跡を発見、調査を開始。ツタンカーメン王と王妃アンケセナーメンの指輪を見つけるという快挙を成し遂げる。指輪がセットで見つかったのはエジプト学史上、初めてのことだった。そして2005年1月、調査隊は未盗掘の完全ミイラ「セヌウ」の発見にいたる。女子美術大学の協力のもと、CTスキャンしたデータをもとに、CGでアーモンド形の目や広い小鼻、厚い唇などを肉付けして顔を再現した。

 「後発の日本が、ハイテクで欧米に勝った」。早稲田のハイテク調査は世界を驚かせ続けた。「世界初」「史上最古」といった言葉が何度も世界中のマスメディアに踊った。

日本ならではのエジプト学 

 ハイテク調査。それは日本より200年も先進する欧米に対抗するための技術的な方法論だった。しかし、エジプト学研究所が対抗しようとするのは、発掘技術だけではない。「欧米の学問体系をそのまま模倣した研究は、日本が目指す研究ではない。欧米の学問伝統がない弱点こそを逆に日本の強みとしていきたい」と、近藤教授は語る。

 近藤教授が構想しているのは、日本ならではのエジプト学だ。古代エジプトは多神教世界だが、一神教の宗教を持つ欧米人に多神教の感覚は掴みづらい。「日本人の文化、歴史、価値観でエジプトの古代にアプローチして体系化するやり方があるはずだ」。イギリスのリバプール大学でフェロー(研究員)として研究した2年間の経験が、日本ならではのエジプト学を考える起点となった。

 「日本の神々と古代エジプトの神々との比較というのは、一神教世界で育った人々が研究するよりは、八百万の神々といった宗教基盤を持つ日本に向いているはずなのです。例えば鳥の形をした神など、人間にない力を持った動物が神になったり、海には海の神様がいたりと、さまざまなものに神聖が宿るのは日本人の宗教観と良く似ています」。

 また、古代エジプト語はヨーロッパ語系の言語ではなく、実際の文法はアラビア語やヘブライ語に近いという。古代エジプトの文字「ヒエログリフ」の研究で日本は遅れていたが、40年の間に進んだ。近藤教授は「ヒエログリフは漢字に非常に近い文字の成り立ちをもっている。漢字文化で育ったことは、エジプトの文字研究において決してマイナスにならない。日本的特色を生かしていくことで、きっと今までにないエジプト学ができる」と自信を込める。

100年、200年 続けてこそ

王家の谷・西谷のアメンヘテプ3世墓発掘現場で調査する吉村教授(左)と近藤教授

 ダハシュール北遺跡では2007年に入っても、複数の未盗掘未開封の木棺や、親子のミイラなど、発見が相次いでいる。2008年も新発見が期待される計画が続く。

 王家の谷のアメンヘテプ3世王墓の修復は再び秋から始り、第2の太陽の船の引き上げ・修復プロジェクトも同じく秋から始まる。すでに遺構内にセンサーをいれて観察しており、引き上げ後は新たにギザに建設されるグランド博物館で展示しながら3年計画で復元を進めるという。

 発掘と同時に進めていこうとしているのが、遺跡の保護だ。観光客の増加は、深刻な遺跡破壊にもつながる。「保存修復をともなわない考古学は存在しない」と考える近藤教授を中心としたグループは、ルクソール西岸での遺跡公園整備にむけて、遺跡保存・修復、復原調査を進めている。吉村教授もまた、遺跡劣化が懸念されるギザの大ピラミッドなどを含む遺跡群で、遺跡整備計画を進め、総勢50人で調査を始める。観光の行き過ぎた側面や、過剰な遺跡の保護による影響など、ツーリズム研究を進めていく。

 川村教授の最初の弟子である吉村教授がカイロを中心とした下エジプト、最後の弟子である近藤教授がナイル川上流の上エジプトを担当している。エジプトをこれだけ広範囲に調査できる大学は世界でも珍しい。

 40年展では多くの少年・少女が発掘品を熱心に見つめ、エジプト研究にあこがれて早稲田大学を見学に訪れる中学・高校生が増えるなど、40年間にすっかり裾野が広がったエジプト研究。吉村教授と近藤教授は口をそろえて言う。「40年間、休むことなく発掘を続けてきたことは誇るべきこと。ダハシュール北遺跡はあと100年かかっても掘りきれない。100年、200年と継続していくことが最も重要なことなのです」。

早稲田大学エジプト学研究所
http://www.waseda.jp/prj-egypt/index-j.html

「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」
2008年4月12日(土)~6月15日(日):熊本・熊本県立美術館
2008年6月27日(金)~8月31日(日):東京(池袋)・古代オリエント博物館

WASEDA早稲田大学研究推進部 http://www.waseda.jp/rps/