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金岡 恒治(かねおか・こうじ)早稲田大学スポーツ科学学術院教授・公益財団法人日本水泳連盟医事委員長 略歴はこちらから

オリンピックでの医科学サポート

金岡 恒治/早稲田大学スポーツ科学学術院教授・公益財団法人日本水泳連盟医事委員長

 「The most important thing in the Olympic Game is not winning but taking part」という有名なクーベルタンの言葉通り“オリンピックは参加することに意義がある”。しかし、そこで最高のパフォーマンスを出すための努力や万全の準備をすることによって始めて“参加することに意義が出てくる”。日本代表選手たちは厳しい選考会を勝ち抜いてきた精鋭ではあるが、紙一重の差で明暗が分かれる厳しい戦いで良い成績を挙げるためには万全のサポート体制も求められる。選手へのサポートとしては、競技に専念できる練習環境を整えることや、就労支援などのキャリアサポート、試合直前の体調を管理するコンディショニング、ケガや故障対策としてのメディカルサポートがある。ロンドンオリンピックでは選手のコンディションをサポートするための「マルチサポートハウス」が文科省の予算で設置され、“史上最多メダルを支えた、マルチサポートハウス。~ロンドンで機能した“前線基地”~(2012/09/03;Number811号)”と報道されている。

 私は整形外科医として、スポーツドクターとして、水泳連盟の医事委員として水泳競技のメディカルサポートに関わり、水泳日本代表選手団チームドクターとしてシドニー・アテネ・北京五輪に帯同してきた。競技会でのメディカルサポートの一番の目的はケガや故障で選手の競技力が落ちないようにすることである。水泳はケガが少ない種目であるが、腰痛に悩む選手が多い。水泳は腰痛体操としても用いられている一般的には身体に負担の少ない種目である。しかし、一流選手になると毎日一万メートル近く泳ぐため、腰に負担がかかることによっていろいろな障害が出てくる。実際に腰痛のためにオリンピックでレースを棄権せざるをえなかったり、良い成績が取れずに涙する選手たちを見てきている。そのため、“腰痛を予防する”ことがメディカルサポートの大きな課題となっている。

 障害を予防するためにはまずどのような原因で腰痛が発生するのかを明らかにする必要がある。腰痛はありふれた一般的な症状であるため、多くの人は腰痛の原因について深く考えていないと思われる。腰痛の原因(病態)には大きく分けて、椎間板からくるものと、後ろ側の関節(椎間関節)からくるものの二つに分けられる。スポーツ選手の腰痛はこの二つで8割を占め、残りの2割は仙腸関節、筋肉、筋膜、筋付着部の障害などがある。これらさまざまな腰痛の病態の中でも、椎間板由来のものは試合直前に起きてしまうとなかなか痛みが引かず競技力を低下させる原因となってしまう。

 この椎間板性腰痛を予防するための対策づくりとして、実際に競泳選手に腰椎椎間板障害が多いのか?多いのならどのようにすれば予防できるのか?を明らかにしていくことが必要となった。そのため、研究課題として「競技スポーツ選手の腰部障害発生機序解明と予防策の考案」というテーマで文科省の科学研究費を頂き、当研究室の主要テーマとして学生たちと研究を行ってきている。その中から様々な研究結果が得られてきた。まず、競泳選手には実際に腰椎椎間板変性(水分含有量の低下)の保有率が高いこと1)、泳ぐ際に脊柱を安定させるためには体幹深部筋の働きが重要であること2)が明らかにされた。このことから水泳選手の腰部障害予防のためには体幹深部筋の強化が求められる。

図1:体幹深部筋の筋活動解析の実験風景

 体幹深部筋は最近注目されているコアマッスルと呼ばれる筋群で、そのトレーニング方法にはさまざまなものが考案されている。しかし、どれが最も有効で効率的であるかは明らかにされていない。そのため、代表的な体幹深部筋である、腹横筋と多裂筋の活動が最も高くなるトレーニング方法を筋電計測実験を行って明らかにしてきた3)

 また体幹深部筋は、体幹に安定性を与えて腰部障害を予防する効果を持つのみならず、競技パフォーマンスを高める効果を持つこと、バランス能力向上によって下肢の外傷の予防にも役に立ちそうであること、アスリートのみならず一般の腰痛者の運動療法としても有用であること4)、高齢者の転倒予防にも効果も期待できることなど様々な効果があると考えられている。この様に競技スポーツの現場で起きている課題を解決することが、広く様々な分野に波及し副次産物を生み出すところは、NASAが宇宙開発を進めるに当たって開発した研究成果が人々の暮らしを良くする商品開発に結びついたところと似ている。この様にトップアスリートに用いられているトレーニング方法を一般人も活用できることはNHKの“ためしてガッテン"という番組でも取り上げられた。

 しかし、いくら価値のある研究成果を挙げても、実際に活用され効果を挙げなければ意味がない。新しい知見を水泳競技の現場で活かすためにはメディカルサポートスタッフ間の連携が不可欠である。そのため日本水泳連盟ではドクター、トレーナー、サポートスタッフ間のコミュニケーション促進のためのメディカルスタッフミーティングを開催し、医学的情報の共有に務めている。また水泳連盟主催のコーチ研修会や、指導者養成講習会、トレーナー講習会などでもこれらの情報は伝達し多くの水泳指導者が最新の知見に触れることが出来ている。

 ロンドンオリンピックの代表選手たちに対してもフィジカルトレーナーたちが長期にわたって体幹深部筋を中心としたトレーニング方法を指導、実践してきた。またオリンピック代表候補選手に対しては毎年メディカルチェックを行い、腰椎椎間板の状態を確認し結果をフィードバックしてきた。ロンドンオリンピックの競泳競技においては腰痛のために競技力を落とす選手は出ず、万全の体調で競技に臨むことができた。これらのサポート活動が功を奏したと考える。

図2:ロンドンオリンピック直前合宿で体幹深部筋トレーニングを行う選手

図3:フィジカルトレーナーによる体幹深部筋トレーニングの指導

 ロンドンオリンピックでは競泳競技は報道の通り戦後最多となる銀3個、銅8個の11個のメダルを獲得し、メダル数では米国に次いで世界2位となった。また、高校生の台頭が目立ちロンドン五輪の標語でもあるinspire the generationという言葉通り、次の世代の活躍を予感させてくれるすばらしい成績であった。好成績が得られたのは選手のたゆまぬ努力と指導者の長年の情熱あってのものであるが、ここで紹介した科学的根拠に基づいたメディカルサポートの実践も好成績の一つの要因であると確信する。

 オリンピックは国と国の“戦い"であり、その国のスポーツに対する態勢・取り組みによって成績が左右される。スポーツで好成績を挙げることは国民の気持ちを高め、心理的に良い効果をもたらしてくれる。しかし、スポーツに関わる科学を深めることによって身体に対する理解も深まり、より健康的な生活を送るための方法も明らかにしてくれる。スポーツ科学が果たす役割はこれからますます重要になってくる。

図4:100m背泳ぎとメドレーリレーで銅メダルを獲得した選手と著者

参考文献

1)Kaneoka K et al. Lubar intervertebral disk degeneration in elite competitive swimmers. A case controlol study. Am J Sports Med.35: 1341-1345,2007.
2)中島求, 三浦康郁, 金岡恒治. 水泳運動における腰椎の負荷と挙動のシミュレーションと実験的検証. バイオメカニズム 18:45-56,2006.
3)Okubo Y, Kaneoka K et al. Electromyographic Analysis of Transversus Abdominis and Lumbar Multifidus Using Wire Electrodes During Lumbar Stabilization Exercises. J Orthop Sports Phys Ther 40:743-750, 2010.
4)太田恵, 金岡恒治ほか. 慢性腰痛者に対する体幹深層筋に注目した運動療法の効果. 日本臨床スポーツ医学会誌. 20(1), 72-78, 2012

金岡 恒治(かねおか・こうじ)/早稲田大学スポーツ科学学術院教授・公益財団法人日本水泳連盟医事委員長

【略歴】
昭和63年3月 筑波大学医学専門学群卒業、筑波大学レジデント
平成10年3月 筑波大学大学院博士課程医学研究科卒業
平成10年4月 東京厚生年金病院整形外科 医長
平成12年7月 筑波大学臨床医学系講師
平成19年4月 早稲田大学スポーツ科学学術院 准教授
平成24年4月 早稲田大学スポーツ科学学術院 教授

日本整形外科学会認定専門医、日体協公認スポーツドクター、日本脊椎脊髄病学会認定 脊椎脊髄外科指導医、日本整形外科学会認定 脊椎脊髄病医、(公財)日本水泳連盟 医事委員会 委員長

【競技大会帯同活動】
2000年 第27回 オリンピック競技大会 シドニー 水泳競技チームドクター
2004年 第28回 オリンピック競技大会 アテネ 水泳競技チームドクター
2008年 第29回 オリンピック競技大会 北京 水泳競技チームドクター
2012年 第30回 オリンピック競技大会 ロンドン JOC本部ドクター

(2012年4月現在)