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斉藤 賢爾(さいとう・けんじ)/早稲田大学商学学術院教授 略歴はこちらから

キャッシュレスと隠れる自由、その先の自由

斉藤 賢爾/早稲田大学商学学術院教授
2019.11.18

 2019年11月現在、香港では、中国本土への容疑者引き渡しを可能にするように逃亡犯条例を改めるという発表をきっかけとした大きなデモが続き、激化している。一般に、たとえ代表民主制だとしても、代表を選んだらそれで終わり、というのでは民主主義社会の主権者としての十分な政治参加とは言い難く、デモクラシーの国や地域では、市民が抗議活動を行うことは当たり前だと言える。

 とはいえ、権力に抗うことになるし、特に強権が発動しうる国や地域ではデモへの参加にはリスクが伴う。そこで香港では、デモの参加者が移動時に交通系ICカードを使わず現金を用いるという現象が生まれた。オンラインに残る記録から、参加者が特定・追跡されることを恐れたためである。

 私も自分の研究内容を一般向けに伝えるために2009年に発表した「不思議の国のNEO」という童話調の物語で同じようなシーンを描いたことがある。この物語では、デジタル技術に支えられ自律分散的に政治経済を営み銀行が存在しない国に、中央銀行設立を目論む集団が攻め込み、侵略を受けた街で、レジスタンス活動を行う人々が追跡されることを恐れ、デジタル通貨による経済から紙券を使う方法にフォールバック (縮退) する。この物語の舞台となる「不思議の国」は、先進的なインターネット社会であり、現金は最初から存在していなかったのだが、紙による匿名地域通貨を利用していたという10年前の経験を使ってこうしたオンラインの追跡の脅威に対抗したという描写を行った。

 このような回避行動は、以前から (少なくともフィクションの中では) よく行われていた。例えば 1993年に映画化もされたジョン・グリシャムの小説「ペリカン文書」でも、ある秘密を暴いたことで追われることになる主人公は、最初の行動として現金を入手し、クレジットカードの使用を差し控える。

 こうした行動は、追跡可能性のある決済方法を使うことに関するリテラシーだとさえ言えるだろう。私たちも、身に覚えのない理由にせよ、いざ追われる立場になったときに備え、心の準備をしておいた方がよいかも知れない。しかしこれからキャッシュレスがますます進行していくとしたら、フォールバック先である現金がそもそも使えなくなるかも知れない。

 2019年6月、京都府内の約1,000寺院からなる京都仏教会は、賽銭や布施など、宗教活動に関わるお金の受け渡しのキャッシュレス化に反対する声明を発表した。経済活動として追跡できるようになることで、信教の自由が損なわれる恐れがあるというのである。信教が自由であるならオープンにしても構わないのでは、という声もあるかもしれない。しかし、誰がどの宗教を信じ、支援しているか、という情報が取得できるとすれば、その情報を用いた弾圧を行うことも原理的に可能となる。自分が何を信じるかを知られずに行動したい、という欲求があること自体については頷ける。

 しかし、現金でなければ匿名でないのかといえばそうではない。匿名性を追求するオンライン決済の技術は作れる。私は長らくデジタル通貨の技術に関わってきたので、このことは特に明記しておきたい。

 政府当局からすれば、匿名で支払いが行われると、犯罪の捜査ができない、という直感的な恐れはあるのかも知れない。事実、我が国の金融庁はいわゆる暗号資産の交換業について、2019年現在は、匿名性のあるデジタル通貨を排除する方針であるように見える (逆に言えば、多くのデジタル通貨は匿名ではない)。

 しかし、考えてみれば、本当に匿名なのだとすれば闇の取引をする犯罪者も慎重にならざるを得ない。取引しようとする相手が、本物なのか、あるいは正体を隠している捜査官なのか、判断がつかないからである。おとり捜査はやりやすくなるということだ。

 自分のプライバシーを守りたいというのは人間の素直な欲求であり、匿名性は政府当局を含む様々な立場のユーザが都合よく使いたいのではないだろうか。隠れる自由は保証した方がよさそうに思える。

 さて、私は本当の問題はその先にあると考えている。現代を生きる私たちは「お金があると自由に振る舞える」裏返すと「お金がないと不自由である」ような社会を生きている。ロックミュージシャンの故忌野清志郎氏はかつて現代社会について「家畜のように飼いならされているのに、それが自由な社会だと思い違いをしている」と述べたという。お金をもつことで自由になれると思っている私たちは、ちょうどそのような状態なのかもしれない。

 一方、インターネットに代表されるデジタル技術により、シェアリングやAIやデジタルファブリケーション (3Dプリンティング等) を通してエンパワーされた個人やその繋がりの中でできる範囲が拡がり、キャッシュレスどころかお金そのものを用いない経済が拡大をはじめているように見える。そうした変化の先に、この不自由から逃れる方法があるのではないだろうか。私の現在の興味はそこにある。

斉藤 賢爾(さいとう・けんじ)/早稲田大学商学学術院教授

【略歴】
1993年、コーネル大学より工学修士号(計算機科学)を取得。2006年、デジタル通貨の研究で慶應義塾大学より博士号(政策・メディア)を取得。同大学院政策・メディア研究科特任講師等を経て、2019年9月より現職。また、2016年より株式会社ブロックチェーンハブ CSO (Chief Science Officer)。一般社団法人ビヨンドブロックチェーン代表理事。一般社団法人アカデミーキャンプ代表理事。一般社団法人自律分散社会フォーラム副代表理事。主な著書に「不思議の国のNEO」(太郎次郎社エディタス)、「信用の新世紀 ─ ブロックチェーン後の未来」(インプレスR&D) など。