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竹田 青嗣(たけだ・せいじ)早稲田大学国際教養学部教授 略歴はこちらから

「哲学の未来」

竹田 青嗣/早稲田大学国際教養学部教授

 なぜいま哲学ブームなのか、という編集部の問いかけがあったのだが、それはわたしに、十九世紀の終わりにニーチェがいった、「ヨーロッパのニヒリズム」という言葉を想起させる。

 世紀末に、ヨーロッパにニヒリズムが避けがたくやってくる。その理由はもちろん、「神の死」、キリスト教の権威の決定的な失墜にある。このため、人々は、誰もが「生の意味」を自分で確保せねばならなくなった。そしてこれは、まったく未曾有の事態だった。

 ニーチェはさらに、当時のドイツ文化を横目でにらみながらこういう。人々はまだ事態の深刻さを理解していない。この内的モラルの支柱の喪失から、さまざまな文化的、思想的反動形態(リアクション)がまた必然的に現われる。無神論、懐疑主義、古い道徳の持ち出し、科学万能主義などである。そしてこれらはすべて、時代的「デカダン」である、と。というのは、ニーチェによれば、それらは、時代の大きな「価値喪失」に対する、“その場しのぎ”の思想的な反動形成にすぎず、ほんとうに必要なのは新しい時代に対応する「新しい価値の創出」なのである。

 さて、ニーチェの「ヨーロッパのニヒリズム」の予言は、二十一世紀の現在、むしろ世界大に拡がる「グローバルなニヒリズム」としてその姿を現わしているとわたしは思う。たとえば、日本では、戦後の約半世紀、多くの人が、社会の未来にある希望の像をもっていた。つまり、ともあれ社会は少しずつ豊かになっていくものと感じていた。また、社会の矛盾を感じ取る青年たちには、人類の未来社会を示すマルクス主義があり、ついで最新の知的な批判思想としてのポストモダン思想が現われた。しかし、いまや、これら二つのヨーロッパの正統思想も、その説得力を喪失している。

 人々が未来の社会の希望の像を見出せず、内的なモラルの支柱を失うとき、ニヒリズムは必然的になる。いま、若者の閉塞感も確実に拡がっている。ニーチェによると、こういうとき、人々は、「生の意味」の支えを求めて、大いそぎでスピリチュアルや信仰宗教に傾き、外国の新思想を探し求め、また古い知的権威を呼び出そうとする。とすれば、哲学のブームもまた、ニヒリズムの時代の中で、モラルの空白を埋める“その場しのぎ”の一つとして機能しているのかもしれない。だが、わたしとしてはもちろん、この哲学への関心には希望があると考えたい。

 さて、二十世紀に若者の社会的倫理を支えてきた中心思想である、マルクス主義やポストモダン思想は、なぜここに来て失効したのだろうかと考えてみよう。ヨーロッパのキリスト教の権威が失効したのは、いうまでもなく、「万人の自由」を目標とする近代社会の理念が登場したためだ。この理念を作り上げたのはヨーロッパの近代哲学だが、すべての人間が唯一の聖なる権威を仰ぎ見るキリスト教の世界像は、「自由の相互承認」を基礎として展開する近代国家では失効せざるをえない。世界宗教は、本質的に、伝統的支配構造の社会における政治的、倫理的権威でしかありえないからだ。

 ところでしかし、かつて人々の希望であった「近代社会」の理念は、やがて近代ナショナリズム国家どうしの激烈な生存競争を引き起こし、植民地戦争と二つの世界大戦という未曾有の悲惨に帰結した。「万人の自由」を基礎とする近代社会の理念は、人々の希望の原理ではなくなった。ここから、マルクス主義とポストモダン思想が、近代の理念に代わる、むしろ近代国家に対する根本的な批判思想として、そのための新しい思想的権威として現われた。

 近代国家の矛盾が激しく意識された二十世紀のあいだ、この二つの思想的権威は人々の大きな精神的支柱となった。それらはともに、国家権力と、資本主義のシステムを批判し克服しうるプランを探求したからだ。ところが、二十一世紀になって、再び世界に大きな構造の変化が生じた。東西対立の消滅、アメリカ一国覇権主義の構造、新しい資本主義グローバリゼーションの展開、国際テロの出現などがそれを象徴する。ここで生じたことは一体なんだろうか。

 わたしの考えを乱暴にいうとこうなる。いまや、問題は、近代国家や資本主義をいかに克服するかということではなくなってしまった。さまざまな徴候が示しているのは、いまや、国家の枠を超えて拡大するグローバル資本主義の運動が地球の資源的限界を脅かしているが、にもかかわらず、現代社会は、資本主義という経済システムを完全に棄却することは不可能だということである。つまりわれわれはむしろ「近代国家」(民主主義)の枠組みの中で、現在のグローバル資本主義の独走を制御し、これに対抗せねばならないという課題に直面しているのである。

 この事態が、二十世紀に人々を支えてきた、社会的進歩史観、マルクス主義、ポストモダン思想などを失効させた根本理由だとわたしは考える。こうした世界の新しい危機の形について、すでに多くの人々が発言している。しかし、それを乗り越えるための根本思想は、まだ本格的にはどこにも現われてはいない。新しい希望が現われるまでは、時代のニヒリズムは必然的に進行するだろう。

 時代の危機に応える新しい世界思想の手がかりは、むしろ近代哲学にある、とわたしは考えている。理由を簡単にいってみる。そもそも、一社会のうちに「自由の相互承認」を作り出すことで万人の自由を実現できるという近代社会の根本理念を作ったのは、近代哲学だった(ホッブズ、ルソー・ヘーゲルがその代表)。だがこれは、あくまで一国家の内での「自由の原理」を意味していた。いま時代がぶつかっているのは、この近代の民主的な「相互承認」の原理を捨て去ることではなく、これを、いかに国家間へ、世界大の原理へと拡大できるかという課題なのである。

 わたしは哲学を長く教えてきたので、西洋近代哲学の根本理論が、これまで大きな誤解にさらされていたことをよく知っている。近代哲学は欺瞞的な近代国家のイデオロギーであるという先入見が、長く人々を捉えてたからだ。だが、これは悲しい誤解である。現代社会の大きな課題は、いま、近代の「自由の理念」を、もう一度、いかにより本質的な仕方で展開できるかという点にかかっている。

 哲学の入り口がとりあえずの一時しのぎであってもかまわない。本質的な理論は、いつでも、新しい世代の本質的な志をつかむはずだとわたしは考えている。

竹田 青嗣(たけだ・せいじ)/早稲田大学国際教養学部教授

【略歴】
1947年大阪生まれ。在日韓国人二世。早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。哲学者・文芸評論家。在日作家論から出発。文芸評論、思想評論とともに、実存論的な人間論を中心として哲学活動を続ける。フッサール現象学を基礎として、哲学的思考の原理論としての欲望論哲学を構想。大学では、哲学、現象学、現代思想などを担当。

【主な著作】
『<在日>という根拠』、『自分を知るための哲学入門』、『現代想の冒険』(いずれもちくま学芸文庫)、『陽水の快楽』(河出文庫)、『現象学入門』(NHKブックス)、『はじめての現象学』(海鳥社)、『ニーチェ入門』(ちくま新書)、『恋愛論』(作品社)、『ハイデガー入門』(講談社メチエ)、『言語的思考へ』(径書房)、『人間的自由の条件』(講談学術文庫)、『自分探しの哲学』(主婦の友社文庫)、『完全解読・ヘーゲル「精神現象学」』『完全解読・カント「純粋理性批判」』(講談社メチエ)、『人間の未来』(ちくま新書)『フロイト思想を読む』(NHKブックス)、『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書2009) 『超解読 はじめてのヘーゲル「精神現象学」』『超解読 はじめてのカント「純粋理性批判」』(講談社現代新書)、『竹田教授の哲学講義21講』(星雲社)など。