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真辺 将之(まなべ・まさゆき)早稲田大学文学学術院准教授 略歴はこちらから

動物愛護と動物利用の交錯
―変わりゆく人間と動物の関係―

真辺 将之/早稲田大学文学学術院准教授

 2012年1月、動物愛護管理法の施行細則が改正され、さらに愛護管理法そのものの改正も今年中に国会での審議にのぼる見込みであるという。改正にあたっては、週齢規制や動物実験規制をはじめさまざまな論点があり、昨年末のパブリックコメントでも実に多様な意見が寄せられている。こうした多様な意見が存在する背景のひとつに、人間社会の動物とのかかわり方の複雑性がある。犬や猫への虐待を非難する人が、同時に牛や豚の肉は何の疑問もなく口にし、狐や兎を殺した毛皮を身につけ、動物実験によって開発された薬や化粧品を使用している。そしてこうした動物と人間との一筋縄ではいかない複雑な関係は、過去にさかのぼってみることによって、さらに複雑で変化に富んだものとなる。

日本人の犬肉食

 たとえば、犬。現在多くの日本人は犬肉食に対して忌避感を感じているが、弥生時代から江戸時代にいたるまで、犬肉食は日本でも広く行われていた。縄文時代には狩猟の友である犬は大切に埋葬されている例が多いのに対し、弥生時代になると大切に埋葬される例はほとんど無くなる。稲作の伝播によって狩猟の重要度が下るとともに犬は用無しとなり、大陸からの犬食文化の移入とあいまって食用に供されるに至ったのである。犬肉食はその後江戸時代まで続き 、大名屋敷などの遺跡からは、明らかに食用に供された犬の骨が大量に出土している。このなかには人間の食用ばかりでなく、鷹の餌に供されたものも多かったと考えられる。明治以後になっても、徳富蘆花『みゝずのたはこと 』に、西南戦争に際して愛犬「オブチ」が薩摩軍に食用にされてしまい深く悲しんだことが記されているように、しばらくは犬肉食が残存していたようである。しかし他方で、江戸時代以降ペットとして大事にされた犬も多かったことは、数多くの浮世絵などに描かれていることからも明らかである。徳川綱吉の「生類憐みの令」はいわずもがな、八代将軍徳川吉宗の時代にも犬鍋を食べた人物が処刑されている。大名屋敷からは、食用にされたと思われる犬骨が発見される一方で、大事に埋葬された犬の骨も多い。

江戸時代、長崎を通じて洋犬や唐犬もペット用に輸入された。(早稲田大学図書館所蔵『狗譜』)

戦争と動物

 近代になると、動物は戦場にも駆り立てられるようになる。とくに満洲事変で「名誉の戦死」を遂げた軍犬「金剛」「那智」の話は、「美談」として教科書にも掲載されて当時の国民に広く知られた。戦場の動物としては、犬のほかに軍馬や軍鳩(伝書鳩)などが有名だが、これらの動物を「動物兵器」と考えるのか、それとも「動物兵士」とするべきかという問題もまた複雑である。たとえば馬に関して、1914年の『馬事提要』には「馬は活兵器なり。又軍の原動力なり」とあるが、1938年の『従軍兵士の心得』には、「馬は無言の戦士である」と記載されている。全国各地には「軍馬碑」と呼ばれる碑が今でも残されているが、最近の研究によれば、日清・日露戦争の際の軍馬碑には、馬を何頭供出したかという事実を記し、名望家としての国家への貢献を強調するものが多いのに対し、昭和期の軍馬碑には馬の「出征」を紀念 するものや軍馬の「慰霊」を目的とするものが多いという(森田敏彦『戦争に征った馬たち』)。つまり時代が下るにつれて「兵器」としてよりも「兵士」として扱うことが多くなっていくようだが、これを裏付けるように第二次大戦期の従軍記などには馬を愛する記述が多くみられるようになる。なお第二次大戦時には過酷な部隊生活を癒してくれる存在としてペットを飼育する兵士も多かった。中国戦線では犬や猫を飼う兵士が多かったが、南方では猿を飼う兵士も多かったといわれる。なかには豹をペットとして飼育していた人物もいた(成岡正久『豹と兵隊』)。しかしこうして人間の「戦友」として扱われる動物が増えていく一方で、国内では戦局の悪化に伴って各地の動物園でたくさんの動物たちが毒殺されていった。先述した豹も、部隊の移動にともない上野動物園に移送されたものの、約一年後に毒殺されてしまっている。また、教科書で軍犬の「美談」が掲載される一方で、一般の人々が飼っていた犬や猫は、毛皮集めなどを理由に「供出」を強要され、次々に撲殺されていった(井上こみち『犬やねこが消えた』)。

日本兵にペットとして飼われていた豹「ハチ」。写真は上野動物園に移送された際のもの。(『朝日新聞』1942年6月2日発行)

靖国神社の戦没馬慰霊像。靖国神社には他に軍犬、軍鳩の慰霊像もある。

動物愛護の歴史

ヒトラーと愛犬。ヒトラーは第一次世界大戦に従軍した際に戦場で犬を拾って以来、何匹もの犬を飼っている。(Hoffmann"Hitler wie ihn keiner kennt")

 日本の動物愛護団体は、1902年に結成された動物虐待防止会に端を発する。なお現在日本で動物愛護の対象としてイメージされるのは主に犬や猫であるが、明治から大正にかけては牛馬の保護を訴える声が多かった。明治時代、犬や猫をペットとして飼う家庭はまだ今ほどは多くなく、逆に牛や馬は輸送手段として多く用いられており、農村人口も多かった日本では最も人間とのかかわりが深い動物だったのである。今や逆に、犬や猫はペットとして我々の周囲にあふれる一方で、牛や馬に普段身近に触れる機会は少なくなり、愛護の対象も変化するに至ったのである。しかしいま牛や馬に対する虐待が無くなったのかといえば否である。それは単に一般の目に触れないところで行われているにすぎない。

 動物愛護の歴史ということでは、ナチスドイツに触れないわけにはいくまい。ユダヤ人虐殺で悪名高いナチスドイツは、他方で、動物保護法制を整備して動物虐待を厳しく禁止していた。総統ヒトラーが動物、特に犬を溺愛していたことはよく知られている。また飼っていたカナリヤが死んだ時にも涙を流して悲しんだという(ボリア・サックス『ナチスと動物』)。こうした事例は必ずしも過去のものではない。たとえば2008年11月、カリフォルニア州では、住民投票によって同性愛者の婚姻の権利が剥奪される一方で、全く同じ日に鶏舎での飼育方法に関して、ニワトリに貴重な権利が付与されるという事態が起きた(同性婚の権利剥奪については後に州最高裁で違憲判決)。似たような事例は他でも見られる。ただしこうした決定が独裁政権によってではなく住民の直接投票という民主的決定によってなされているということは、時代の変化として特筆すべきことであろう。

変わりゆく関係

 動物の歴史を通じて人間社会を考察することで、普段気づかなかったような人間社会のあり方に気づかされることも多い。複雑で変化に富む動物と人間との関係史を考察することは、動物という他者、歴史という過去を通じて、人間社会のあり方、我々自身のあり方を相対化することにもつながる。

 2011年3月の東日本大震災とその後の原発事故に際して、ペットを救う活動が活発になされた。第二次大戦時ならば聞かれたであろう「人間が困っているのに動物を助けている場合か」という声はさほど大きな声にはならなかったように思う。それだけ、動物が社会の一員として捉えられてきているということであろう。しかし他方で、動物実験のような問題については依然として合意を得るのが難しいのも事実である。だが、人間と動物の関係は複雑であると同時に、これまで見てきたように変わりうるものである。これから先、いったい人間は動物とどのような関係を結んでいくのか、それを決めるのは我々人間以外にはありえない。100年度、200年後の人類の目に、今現在の我々の動物との関係のあり方は、はたしてどのような歴史として映っているのであろうか。

真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院准教授

【略歴】
1973年生まれ。千葉県出身。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学大学史資料センター助手などを経て、現職。専門は日本近現代史。著書に『西村茂樹研究―明治啓蒙思想と国民道徳論―』(思文閣出版)、『東京専門学校の研究―「学問の独立」の具体相と「早稲田憲法草案」―』(早稲田大学出版部)、共編著に『近代日本の政党と社会』(日本経済評論社)など。近年、動物と人間の関係史に関心を持ち、探求を進めている。