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加納 貞彦(かのう・さだひこ)早稲田大学国際学術院教授 略歴はこちらから
電子カルテは医学の進展に貢献できるか
-国際標準化への課題
加納 貞彦/早稲田大学国際学術院教授
はじめに
医療へのITの適用には、①医療サービスの向上および効率化という側面と、②医学の進歩に寄与する側面という二つがあります。またマイナス面としては医療に関する個人情報のセキュリティに関する問題があります。
医療サービスの向上および効率化の例としては、病院などですでに導入されている患者の受付、料金事務のほか、各種の医療機器の制御へのコンピューターの使用があります。さらにそれらと医師の机上にあるコンピューターを接続して医療活動の効率化を図る病院情報システム(HIS: Hospital Information)があります。
電子レセプトの普及
たとえば料金事務とは、行った医療サービスに対する料金の30%を患者から徴収し、残りの70%をそれぞれの患者の健康保険組合に請求書(これをレセプトといいます)を送るということです。このレセプトの処理を電子的に行う電子レセプトの標準化が、日本では、2002年に日本医師会によってORCAという形でなされ、それを実現するソフトウェアが、オープンソースソフトウェアとして無料で公開されました。その結果、電子レセプトは急速に普及し、2011年11月時点で日本では病院(入院ベッド数20床以上)からの請求書の99.7%がオンラインでネットワークを経由して処理されています。
病院情報システムと電子カルテ
病院情報システムHIS実現の核は図1の構成概要に示す通り電子カルテ(EMR: Electronic Medical Record)にあります。
図1 病院情報システムの構成概要
電子カルテの場合は、電子レセプトに関するORCAのように広く使用されている標準がないために、その導入は表1に示すように、200床以上の大病院でもまだ23.6%(2008年)にとどまっています。電子カルテの導入状況は大半の欧米諸国でも同様な状況にあります。
- 表1 電子カルテ(EMR)の導入状況
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2002 2005 2008 大病院(200床以上) 1.5 10.1 23.6 全病院(20床以上) 1.2 6.9 13.2 - 出典:厚生労働省医療機関調査(2002,2005,2008)
電子カルテの標準化
その理由は、標準がないために電子カルテシステムを提供する各社が全部のシステムを自前で作成していることから、ソフトウェアの再利用がなく高価なこと、また他の病院や診療所、薬局などとの相互運用性がないことがあげられます。したがってもしも、電子レセプトのように電子カルテでも標準化がなされ、さらにその標準に基づくソフトシステムがオープンソースの形で無料でインターネット上に公開されれば一挙に導入が進むと考えられます。
その実現に最短の距離にあるのが、ヨーロッパが中心となって標準化を進めているopenEHRという国際標準であると筆者は考えています。その理由は、第一にその標準が電子カルテそのものを標準化するのでなく、医療の基礎的な概念を多数アーキタイプという形で標準化して、電子カルテはその組み合わせで作成するという構成をとっているので医療サービスの変化や医学の進展に柔軟に対応できる拡張性を持っていることです。またすでにISOで2009年に標準化されていること(ISO13606)、標準に基づくソフトウェアがオープンソースになっていて無料でインターネットからダウンロードできることがあげられます。
もうひとつ有力な電子カルテの国際標準としては、アメリカを中心に標準化が進められているHL7(Health Level 7)があります。こちらも世界各国で幅広く標準化が行われています。HL7で注目すべきは、診療情報アーキテクチャ(CDA: Clinical Document Architecture)を標準化していることで、ISOとHL7で協力してISO/HL7 27932:2009 として2009年に標準化が行われました。これに基づいて日本でも厚生労働省標準規格「HS008 診療情報提供書(電子紹介状)」として2010年3月に制定されています。
電子カルテの標準化が国際的に行われれば、医療サービスの向上と効率化がはかられるだけではありません。さらに、①ITを利用したさまざまな医療研究の成果が広く世界へ普及されるようになる、②集められた標準化された医療データによりエビデンスに基づく医療(Evidence Based Medicine)が可能となってさらなる医学の進歩へ寄与する、などが期待されます。
セキュリティ
ITの医学への適用においては、個人の健康情報も扱うので、セキュリティ対策が重要になります。このためにはすでに行われている法制度的、技術的なセキュリティ対策に加えて、医療では特に以下のような点が問題であるとして、解決策が世界で広く議論されています。
(1) 個人の健康情報を本人だけでなく、医師などの医療関係者が見る必要があるので見てよい人を特定し、その人ごとに見てよい情報の範囲(たとえば「すべての情報なのか保険関連情報に限定するのか」)とか、情報を「読むだけか、書き込んでもよいか」などの権限を規定する。
(2) 医学研究の参考にするためのデータとして使用できる範囲を、個人を特定する情報を含まないでしかも医学研究に必要十分な情報として提供する。
おわりに
医学へのITの適用は、自動車の場合と同様に大きな利便をもたらしますが、大きな危険(事故、セキュリティ)をも伴うものです。このような観点から、注意深く幅広い関係者の意見・英知を集めて今後一層の進展を図ることが期待されます。
加納 貞彦(かのう・さだひこ)/早稲田大学国際学術院教授
【略歴】
東大工学部卒業後(1967)、NTT研究所に入り32年間、情報通信ネットワークの研究開発に携わる。この間、NTT本社ネットワーク部長、またエセックス大学やエジンバラ大学に留学する。エセックス大学修士(1974)、東京大学工学博士(1979)。その後、早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授(2001-2008)、同 アジア太平洋研究科教授(2009)、現在に至る。
主な著作
「Programming Electronic Switching Systems (1976, IEE Telecom Series)」、「ISDN user-network interface Protocol, Chapter 4 of "ISDN Systems"(1990, Prentice hall)」、「次世代インターネット技術(2000, 電気通信協会)」、「平和と国際情報通信―『隔ての壁』の克服 」(2010,早稲田大学出版部)、など。主な論文として、「openEHRに基づく次世代電子カルテの可能性について」(日本医療情報学会2010年全国大会)など。