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紀 旭峰(き・きょくほう)/早稲田大学地域・地域間研究機構主任研究員(任期付) 略歴はこちらから

『亜細亜公論』──留学生による脱境界的言論空間の創出

紀 旭峰/早稲田大学地域・地域間研究機構主任研究員(任期付)

東京の一隅に誕生したアジア知識人の言論空間

 現在約5千名もの留学生が学ぶ早稲田大学は、約130年前から、アジア人留学生を積極的に受け入れてきました。彼らは卒業後、幅広い分野で活躍しましたが、その一部は、在学中から出版活動や結社を通じて、アジアを視野に入れた知識人間の知的交流を行っていました。その代表例として、大正デモクラシー真っただ中の1922年5月、誕生した総合月刊誌『亜細亜公論』("THE ASIA KUNGLUN")が挙げられます。

【図1】創刊号表紙
【図2】創刊号目次

出典:【図1】と【図2】『20世紀日本のアジア関係重要研究資料 亜細亜公論・大東公論』(復刻版)、龍溪書舎、2008年

「アジア各国人の世論機関」の実現を目指すため、在京朝鮮人の柳泰慶(壽泉)は、「一機関誌中に三言語(筆者注:日本語・中国語・ハングル)が混在する」という画期的な発想をもって『亜細亜公論』を創刊し、より多くのアジア人留学生と各地の知識人が、自らの意見を述べることのできる場を創出しました。その意味で、「『亜細亜公論』には日本人のみならず、朝鮮人・台湾人・中国人そしてインド人と多様な出自と背景をもった書き手による言論空間が、短期間ではあったが形成されていた」(後藤乾一、2008年)というように、『亜細亜公論』はエスニシティを越えた「横のネットワーク」の一具現と位置付けることができます。また当時、「東アジア唯一の一等国」という日本人の優越意識が高まっていた日本国内の言論界に対し、『亜細亜公論』は、「人類主義をもって、アジア人を覚醒させる」ことを当面の目標として掲げ、域内に対する日本の指導体制を前提としたアジア主義的な考え方とは明確に一線を画していました。

早稲田系知識人と『亜細亜公論』

『亜細亜公論』の執筆陣には尾崎行雄、馬場恒吾、堺利彦、宮崎龍介、布施辰治など錚々たる日本人論者が揃ったのみならず、戴季陶やラース・ビハーリー・ボース、蔡培火、黄錫禹など、アジア各国の知識人も健筆をふるっています。加えて、創刊号から石橋湛山や安部磯雄、大山郁夫、杉森孝次郎、内ケ崎作三郎、坂本哲郎、高辻秀宣など、早稲田大学関係者(教員、卒業生、留学生)が原稿を数多く発表していることも大きな特徴です。

【図3】亜細亜公論社の所在地(早稲田鶴巻町24、現鶴巻南公園付近)

出典:人文社編集部『古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩』株式会社人文社、2003年

 ではなぜ、早稲田大学関係者の執筆が多かったのでしょうか。その理由の一つとして、早稲田大学を含む早稲田界隈は、すでに東京専門学校時代から政治青年や、思想団体、出版関係が集まるエリアであったことが挙げられます。実際、『亜細亜公論』の本社も、設立当初の中目黒から早稲田鶴巻町24番地(現鶴巻南公園付近)へと移転しています。こうした地縁的要素もあって、早稲田大学系知識人と留学生の執筆が多かったと考えられます。留学生の執筆者に関しては、朝鮮人の李相壽・白南薫、中国人の張昌言・湯鶴逸、台湾人の王敏川・黄呈聡などがおり、彼らは全員、政治経済科(専門部と学部)の卒業生でした。さらに、早稲田大学の留学生だけではなく、前述の戴季陶(日本大学中退)や傅立魚(明治大学)など、他大学出身の執筆者も多数いました。

各国それぞれの実情をリアルタイムに反映する留学生の論考

 早稲田大学の留学生は、日本語、中国語とハングルで論考を投稿しました。そこには、それぞれの出身地域が直面していた問題や排日の実態をリアルタイムに反映する文章が数多くみられます。たとえば、1920年代の中国で「軍閥割拠」や「排日」という深刻な状態が続くなか、湯鶴逸は「排日(中国語)」(第1巻第5号)と題した論考を発表しています。湯はその中で、中国国内の排日の背景を鋭く分析すると同時に、日本人読者に対し日中親善のために力を合わせようと呼びかけました。このように、「対等な国対国」の日中関係を求める中国人留学生に対して、当時朝鮮と同様に日本の統治下に置かれた台湾の執筆者の関心は「内台差別待遇の撤廃」に集中しています。とくに当時、内地日本では台湾統治の実態があまり報道されなかったことを考えると、台湾人にとっての『亜細亜公論』は、内地日本人に「内台差別待遇の実態」を告発できる数少ない媒体のひとつだった、といえるでしょう。

より開かれた知的対話の空間を目指して

『亜細亜公論』は当局からの厳しい検閲を受けながらも、国籍、民族、階級を問わず、多様なアジアを共有する言論空間を目指して、アジア知識人に向けて対等に対話の場を提供していました。留学生は『亜細亜公論』という知的交流の場を媒介に、ほかの地域からの留学生や日本人とのあいだで互いに直接的・間接的な交流と提携をもつようになり、やがてそれが一つのネットワークを形作りました。

 戦後70年を迎えた今も、いまだ未解決のさまざまな歴史問題や政治問題が、時には「見える壁」として、また時には「見えざる壁」として、アジアの人々の前に立ちはだかっています。この状況を改善する糸口の一つとして、留学生たちが先頭に立ち、積極的でより開かれた対等な対話ができるような、民衆に根を張った言論空間を創出することも、重要な試みでしょう。その意味で、一言語・一民族・一学校・一国家の枠をこえた『亜細亜公論』は、ひとつの方向性を提示してくれたのではないでしょうか。

紀 旭峰(き・きょくほう)/早稲田大学地域・地域間研究機構主任研究員(任期付)

【略歴】
台湾台南市生まれ。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程修了、博士(学術)。早稲田大学地域・地域間研究機構主任研究員(任期付)、東京女子大学・聖心女子大学非常勤講師を兼任。専門は留学生史、日台関係史。

【主要業績】
単著『大正期台湾人の「日本留学」研究』(龍溪書舎、2012年)
共著『東アジアの知識交流と歴史記憶』(韓国東北亜歴史財団、2009年)
共編著『亜細亜公論・大東公論』(龍溪書舎、2008年)
論文「大正期台湾人留学生寄宿舎高砂寮の設置過程」(『日本歴史』第722号、吉川弘文館、2008年)
分担執筆「戦前期早稲田大学のアジア人留学生の軌跡―中国人と台湾人留学生の動向を中心に」(『留学生の早稲田―近代日本の知の接触領域』早稲田大学出版部、2015年)など