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江 正殷(こう・せいいん)早稲田大学留学センター准教授 略歴はこちらから

“和諧社会”の行方? ~中国版新幹線が示した矛盾~

江 正殷/早稲田大学留学センター准教授

 国際社会でその存在感をますます増しつつある大国・中国。この流れは今後も続くと多くの専門家が予測する。それと同時に、「中国が成長し続けると、世界はどう変わるのか? 」このテーマを巡り、世界中が中国に注目を集めている。一方、13億人の100年の夢としての「世界一・国強民富」の国作りのあり方は、鄧小平が道を開いた「改革開放」路線を通じて、試行錯誤しながら模索されてきた。胡錦濤政権では、輝かしい経済成長の裏で拡大しつつある社会的格差・矛盾などを解決するために、「調和のとれた社会(和諧社会)」の実現を国家目標に掲げ、持続的かつ全国的な発展を目指している。こうした局面を迎え、中国が抱える難題がいっそう複雑さを増す中、社会における根本的な変化が起こりつつある。

 先月30日、共産党結党90周年の記念にあわせて、世界最速と銘打った高速鉄道(中国版新幹線)が、中国100年の夢を乗せ、国威発揚の事業として華々しく開通した。操業早々、車輌技術のアメリカでの特許申請問題や、突貫工事・システム整合の安全性等を巡り、国際社会から厳しい視線が集まる中での開業となったことが記憶に新しい。進む中国経済の拡大が歓迎される一方で、このような中国政府の手法に見え隠れする国際社会のルールと異なる「異質性」が、経済発展にともない顕在化しつつある。こうした状況が懸念される中、発生してしまったのが「13億人の夢」を乗せた高速鉄道「和諧号」の、浙江省温州での追突、脱線、転落という悲惨な事故である。この「和諧号」列車事故は、揺れ動く巨大国家の夢と現実を露呈し、中国がその内部に抱える問題の複雑さを示す象徴的な出来事だったといえる。また、この事故が物語る鉄道事故の安全性問題の対応を巡って、真相解明を求める声が中国政府へと浴びせ掛けられている。にもかかわらず、厳しい報道規制が敷かれている中国社会では、新聞報道や中国版「ツイッター」(微博)等の様々な媒体を通し主張がなされてはいるものの、「本当の声」が届けられることは容易ではない。

 こうした重大な事故が起こるたびに、中国政府の対応が常に厳しく問われてきたが、その多くは真相解明には至らなかった。事情の背景にあるのは成長至上主義の経済路線である。経済成長第一の結果、一部の人々は確かに豊かになったが、社会的な格差は深刻なほどに広がり、生活環境に対しても大きなダメージをもたらした。このような「人間」不在ともいえる中国政府の政策のもと、急激な発展を遂げてきたことが、皮肉にも次第に共産党政権の正当性をも揺がす大問題として浮上してきた。「改革開放」路線を根底から見直し、06年10月の中国共産党中央委員会全体会議において、それまでの経済成長が様々な問題を解決するとの立場から、「調和のとれた社会(和諧社会)」への政策転換を図ることとなった。その中での今回の高速鉄道「和諧号」事故は、国家目標である「和諧社会」と現実との矛盾を露呈したことになり、多くの人々の眼には、「和諧」という文字は虚しく映ったことだろう。

 しかし、問題はそれにとどまることなく、焦点は今後中国は変わるのかという点にフォーカスされる。そのヒントは、今回の事故の真相究明をめぐる国内の様々な動きにあるかもしれない。海外ではあまり報道されてはいないことだが、「中国法治の良心」と称される法学者・賀衛方氏が自らの中国版ツイッター(微博)上で、真相究明にあたり、中国憲法第71条基づき全国人民代表大会が自発的に、「特別調査委員会」を設置し、徹底的に調査・解明を行うべきだと主張している。彼の主張は、中国版ツイッター(微博)を通じて多くの支持を獲得するとともに、中国全土に瞬く間に広まった。これまでの重大事故に際しては、中国政府の方針では常に政治的な判断が優先される傾向にあり、真相を徹底的に解明するよりも、党・政府が真摯に国民と共に難局に立ち向かう姿を強調し、報道を通し世論の批判の矛先が党・政府へ向かわせないことに力点が置かれてきたといえよう。上述した法学者・賀衛方氏の現行憲法に基づく真相解明という主張は、まさに、従来の政治判断が優先される「人治」主義を明確に否定するものであった。この賀衛方氏の主張には、06年10月の共産党中央委員会全体会議において「調和のとれた社会(和諧社会)」に転換するため、「法治」が最優先課題として挙げられたことがベースになっているように思われる。しかし、共産党を中心とした政治体制の下では、「法治」の定着が容易ではなく、賀衛方氏の主張も実現が難しいかもしれない。とはいえ、例えば、透明性・公平性に欠ける中国型「開発独裁」経済の発展モデルでは、貧富の差・社会的矛盾が拡大しつづけるために、様々な社会的不平等を引き起こすことになる。こうした不平等を是正しようとする法律を武器にした「維権(権利擁護)」運動が、労働者・農民・学生・知識人など様々な人々が参加することで、活発に展開されてきた。現在では全国規模に波及し、国内外からも非常に注目を集めている。興味深いのは、この「維権」運動の背後には、その担い手として「政法系」と呼ばれる法学者、弁護士などの法律を熟知した人々の存在があり、彼らが専門的な知識を駆使することで、人々の権利を守るべく積極的に戦っていることだ。

 中国に民主主義は根付くのだろうか。こういった問いかけは、日本のみならず国際社会でも、重要な関心事である。しかし、中国はかつてキッシンジャー(元米国国務長官)が、「中国は、ヨーロッパとアフリカを合わせたような国」と表現したように、国土が広く、様々な民族から構成される。加えて「13億人に食べさせる」ことを最優先とせざるを得ない中国ならではの国情も加味した民主化への道のりは、決して平たんなものではないことが容易に想像できる。しかし、中国には社会主義の特色を有する市場経済を一進一退しつつ問題を抱えながらも、GDPを世界第2位にまで押し上げたことを鑑みれば、中国独自の民主主義のモデル構築が思案されても不思議ではない。しかし、いずれにしても、中国は民主化に向かうことになろう。そこで、現在の「維権(権利擁護)」運動で求めるように、法の支配に基づいた人々への権利保護が充分に保障されることが、中国社会における民主化を支える基盤となるのだ。

江 正殷(こう・せいいん)/早稲田大学留学センター准教授

【略歴】
1990年4月 来日
1998年4月 早稲田大学大学院アジア太平洋研究センター助手
2001年3月 早稲田大学大学院法学研究科博士課程満期退学
2001年4月 早稲田大学現代中国総合研究所客員講師
2004年3月 同客員講師退職
2004年4月 早稲田大学国際教養学術院客員講師
2006年4月 早稲田大学留学センター客員助教授
2007年4月 早稲田大学国際部副部長・留学センター准教授
現在に至る

○専門領域: 基礎法学・中国法
○現在進行中の研究テーマ
「中国民法学史の研究 ( 博士学位論文)」
『講座 台湾を考える25の扉』(学部生向け教科書)」