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小松 寛(こまつ・ひろし)/早稲田大学社会科学総合学術院助教  略歴はこちらから

複雑怪奇な沖縄の「民意」──その歴史と現在を読み解く

小松 寛/早稲田大学社会科学総合学術院助教

宜野湾市長選挙と戦後沖縄政治の変容

 1月24日に行われた沖縄県宜野湾市長選挙では、2期目を目指す現職の佐喜眞淳が新人候補者を退け当選した。構図だけを見ればありふれた地方自治体の首長選挙だが、翌朝、その選挙結果を各全国紙が一面で報じた。その理由は外でもない、宜野湾市には在日米軍基地の普天間飛行場があり、その移設先をめぐって日本政府と沖縄県が激しく対立、現在は法廷闘争にまで及んでいるためである。

 政府は沖縄県北部に位置する名護市辺野古への移設で米国と合意し、工事を着々と進めている。それに対し沖縄内の世論では県内移設反対が根強く、2014年11月に行われた県知事選では県外移設を訴える翁長雄志が当選した。保守政治家でありながら革新勢力と共闘し、辺野古への移設容認を表明していた前知事との選挙戦を制したのである。翌月に行われた総選挙では沖縄内の4選挙区全てで辺野古反対を掲げる候補者が当選した。

 「イデオロギーよりアイデンティティ」「オール沖縄」を掲げる翁長県政の登場は、戦後長らく続いてきた保守対革新という戦後沖縄政治の構造を変容させたものとして大きな衝撃を与えた。

選挙結果への評価

 今回の宜野湾市長選挙でも国が現職、県が新人を支援し、その構図は国と県の「代理戦争」と称された。しかし、辺野古への移設に関して、現職が当選したことへの評価は一様ではない。

 各紙の社説を比べてみると、一方では「普天間飛行場の固定化を避けるには、やはり辺野古移設が現実的な近道だ、との受け止めが市民に広がったのは間違いあるまい」(読売新聞1月25日)、「危険性除去には、辺野古移設がより現実的だという判断が示された結果といえよう」(産経新聞1月25日)と、民意が辺野古移設容認を示したとする見解がある。その背景には現職が辺野古移設を推し進める自公政権の支援を受け当選したという明快な事実がある。

 他方で「「これで辺野古移設が容認された」と政権側がとらえるとしたら、早計である」(朝日新聞1月26日)、「今回の結果は、あくまで「世界一危険」といわれる普天間を一日も早く返還してほしいという市民の願いの表れだ。辺野古移設が承認されたと解釈するのは無理がある」(毎日新聞1月25日)と解する社説もある。これは選挙戦において佐喜眞が辺野古への移設の是非に言及せず選挙の争点になることを回避した点や、出口調査では55%以上の有権者が辺野古への移設反対を示した点を論拠としている。

 1996年に普天間飛行場の移設で日米が合意してから約20年、沖縄では各種選挙の度に新基地建設が大きな論点であり続けた。そしてその是非は一見揺れ動いているようであり、「沖縄の民意はわかりにくい」という意見も散見される。

選挙における新基地建設容認の条件

 例えば、1997年12月、名護市では辺野古沖への新基地建設の是非を問う住民投票が行われ、反対が過半数を占めた。しかし当時の比嘉鉄也名護市長は政府の強い要請に応える形で基地建設を応諾し職を辞した。翌年2月に行われた市長選挙では前市長の後継者で、基地容認派が支援する岸本建男が当選した。

 この時も一見、住民投票で表された民意とは異なる結果が選挙で示されたように見える。実はこの時、大田昌秀県知事が選挙期間中に辺野古への移転反対を表明し、岸本は県の方針に従うことを表明した。これにより選挙における新基地への賛否という論点はぼやけ、地元紙は新基地問題を争点から外したことが岸本当選の勝因と分析した。

 少なくともこの時点から、容認派が支援する候補者は「容認」を表明しては選挙に勝てないという図式が見て取れる。同年、大田をやぶり県知事となる稲嶺惠一は新基地に関する公約を「軍民共用」「15年限定」としていた。稲嶺は15年後に新基地が民間専用空港となり、県民の財産になるのであれば新基地建設もやむを得ない判断だと語っていた。

 沖縄で選挙に勝つためには新基地受入れについて厳しい条件を課さざるを得ない。重要なことは投票結果だけを見るのではなく、その結果に至る道程や議論の内容およびニュアンスを丁寧に見ていくことであろう。

 そうでなければ沖縄の「民意」を読み誤りかねない。

これからも続く日本-沖縄間交渉

 宜野湾市長選挙の結果は出たが、今後も沖縄県議会議員選挙(6月)、参議院議員選挙(7月に任期満了)と選挙は続き、同時に法廷闘争も進展していく。その趨勢を予測することは困難だが、ひとつ確かなことは日本政府と沖縄県の折衝は続くということである。

 これもまた、戦後史の中で繰り返し行われてきた。沖縄がまだ米国の施政権下にあった1968年11月、初めて実施された琉球政府行政主席(現在の県知事に相当)選挙で当選した屋良朝苗は「即時無条件全面返還」を公約として掲げていた。屋良は米国との沖縄返還交渉まっただ中にあった日本政府へ沖縄の声を届けるべく、69年の1年間だけでも7回上京、佐藤栄作首相をはじめとする政府首脳と会談を持った。90年の県知事選では冷戦崩壊による「平和の配当」が沖縄にもあるべきとし、基地の整理縮小を前面に訴えた大田が県知事となった。普天間基地の移設で日米が合意した96年、大田知事と橋本龍太郎首相が会談した回数は10回にのぼる。

 選挙によって県民から信託を得、その「民意」を支えに日本政府と交渉を重ねてきたのが戦後沖縄の政治指導者たちである。いわゆる「沖縄問題」が解決されない限り、国と県が対峙し続ける構図が解消されることはないであろう。

小松 寛(こまつ・ひろし)/早稲田大学社会科学総合学術院助教

【略歴】

1981年沖縄県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒。2011年早稲田大学社会科学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(学術)。早稲田大学社会科学部助手、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2015年より現職。専門は国際関係論、戦後沖縄史。

【主著】

『日本復帰と反復帰―戦後沖縄ナショナリズムの展開』(単著、早稲田大学出版部、2015年)、『沖縄が問う日本の安全保障』(共著、岩波書店、2015年)など。