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稲継 裕昭(いなつぐ・ひろあき) 早稲田大学政治経済学術院教授 略歴はこちらから

公務員制度改革
―官僚叩きに走らず冷静な議論を

稲継 裕昭/早稲田大学政治経済学術院教授

有能で効率的な「公務員集団」は国民の共有財産

 憲法15条が示すように「公務員は国民全体の奉仕者」であり、良質の公務員制度は国民の共有財産である。憲法の趣旨からいうと、公務員制度改革の議論は、国民サービス、住民サービスに資する有能な公務員集団をいかに構築するかと言うことに最大の焦点があてられるべきである。

 だが近時のマスメディアの論調や、与野党の議論を見ていると、どうもこの原点が忘れられている感がある。メディアは視聴率を稼ぐためにひたすら官僚バッシングを続ける。与野党ともポピュリズムに走り、「官僚たたき競争」に陥っている。何のための改革かがいつの間にか忘れられつつあり、改革自体が自己目的化しつつある。少しでも慎重に考えようとの発言をすると、「抵抗勢力」のレッテルを貼られてしまう。しかし、この無節操な競争のつけを負うのは、結局は国民である。

 かつて世界的に尊敬を集めた、(他国に比べると圧倒的に)少数精鋭で献身的に働く優秀な公務員集団は、今、大きく音を立てて崩れ始めている。吏道の精神は薄れ、萎縮した公務員集団になりつつある。

政治が決め、官僚が従う

 07年の安倍政権の下で、当時の渡辺大臣は、参議院選挙の目玉として公務員制度改革を全面に打ち出した。選挙直前には2つの公務員制度改革関連の会議を発足させるなどして改革姿勢をアピールした。だが、国民の投票行動を左右したのは、消えた年金問題であり、自民党は大敗を喫した。

 08年には国家公務員制度改革基本法(以下、「基本法」という)が成立している。これも与党内の調整が十分でないまま国会に上程されて(識者の間では)国会を通過しないと予想されていたが、民主党との間での修正協議が突如成立し、与野党の呉越同舟、同床異夢の、きわめて玉虫色の強い修正法が成立した。

 官僚組織の行動様式としては、決められた法律は粛々と実行するという点にある。08年7月に発足した国家公務員制度改革推進本部事務局には民間や各省庁から極めて優秀な人材が集められ、寝食を忘れて法案化に向けての努力を続けている。その奮闘ぶりには頭が下がるとともに、痛々しく見える。政治の決断力のなさのために苦労が倍増しているからである。期限が切られているために、内閣人事局の局長ポストを占めるのが誰なのか(政治家か、職業公務員か、民間人か)という一番肝心な所が決まらないまま組織の案を描き、労働基本権の議論が中途の段階で人事院の機能移管の原案を作らざるを得なかった。また、依拠する基本法の性格自体が曖昧なものである上に、与野党とも内部で意見が分かれており、その下で事務局スタッフは業務を遂行せざるを得ない。いくつかの例をあげよう。

1)「政治主導」の方向性

 第1に、しばしば言及されてきた「政治主導」との関係で、政治が目指す方向がどこなのかがよく見えないことである。

 1990年代末には、政治主導を実現するのだということで、副大臣、政務官制度を設け、政府委員制度(官僚が国会で答弁する)を廃止した。この改革は英国型の制度をモデルにしている。英国では各省の主任大臣の下に、数多くの副大臣、担当大臣などの国会議員が入り、彼らが政策を決定する。それに仕える職業公務員は、上級公務員も含めて政治的中立性を守り、政権が保守党から労働党へ変わっても(あるいはその逆でも)政治に仕えるというのが基本である。したがって、次官以下の公務員人事に政治は原則として関与しない。

 ところが基本法、改革工程表に向けた議論においては、「政治任用」が表舞台に登場し「国家戦略スタッフ」の設置につながった。これはどちらかというと米国型を目指している。だが、議院内閣制をとらない米国では、国会議員が行政府の長官(大臣)になることは憲法で禁じられており、国会議員が行政府部内に入ることはない。日英とは制度が異なる

 基本法以来の議論は、90年代末の副大臣、政務官制度の導入の総括がないままに、新たな政治任用の拡大を目指してしまっている。あとで見るように、政治任用が多用される米国ではさまざまな弊害が指摘されているところである。

2)セクショナリズムの打破と政官接触制限

 第2に、セクショナリズムを打破するために、幹部人事の一元化が必要であるという議論についてである。

 そもそも議院内閣制は、国民→(選挙)→国会議員→(選出)→内閣総理大臣→(任命)→各省大臣→(任命)→公務員というように、滝が上から下へ流れるように連鎖を持ち、それぞれが、本人=代理人の関係にある。各省の公務員が提案した政策を大臣や副大臣等の政治が決定し、それを最終的に内閣総理大臣および官房スタッフが調整すればセクショナリズムの弊害もその多くが解決しうるものである。英国型がその典型である。

 しかし日本では、個別省庁の原局が、業界など社会の関係アクターと連携するとともに、いわゆる族議員との折衝を繰り返して政策案をつくりあげている。政官業の「鉄の三角同盟」が個別政策ごとにできあがっている。官僚が自分の使用者である大臣よりも先に族議員と接触していることは、上の本人=代理人の流れを損なうものである。このような慣行のもとでは、大臣も内閣総理大臣も調整能力を発揮することは困難であった。

 この負の連鎖を断ち切り、議院内閣制本来の主権者国民から内閣総理大臣、大臣、官僚という本人=代理人の流れを取り戻すためには、官僚と個別政治家(特に族議員)との接触制限が必要不可欠であるが、基本法の立案過程および修正協議でなし崩しになってしまった。英国がそうであるように、政治と官僚の接触制限は絶対に譲ってはいけない一線であった。制限のないところでは、個別省庁の官僚が与野党の関係議員と太いパイプをつくってしまうために、中央人事機関をどのように設計しても結局官僚は個別利益に走ってしまう。

強大な中央人事機関の創設―先進諸国の改革とのズレ

 先進諸国でも、1980年代以降、公務員制度改革が進められた。英国ではサッチャー改革以来次々と改革を進め、国家公務員の4分の3をエージェンシーの職員とするとともに、各省・エージェンシーへ人事給与の決定権限を大幅に委譲する改革を行ってきた。ニュージーランドでは、各省庁の事務次官にあたる事務総長に大幅な権限を委譲し、各事務総長が自省庁の人事給与・組織制度を作ることができる。米国では、非政治任用者である職業公務員について、全連邦政府共通の人事管理規則の例外を認め、国土安全保障省や国防総省など省独自の人事給与制度を採る省庁を次第に増やしていっており、その対象者は連邦政府職員の半数にのぼる。

 このように、諸外国の公務員制度改革を通覧した場合、人事権限の各省庁への分権化が共通している。だが日本の改革は逆に、人材バンクにせよ、内閣人事局にせよ、内閣への人事権限の集権化を目指しており、諸外国の分権化の動きとは逆行している。

 これが実効性のあるものになった場合に、次に懸念されるのは、公務員人事への政治の過度の介入である。近代公務員制度は長年月かけて公務員の政治的中立性の確保を追及してきた。情実任用や猟官制による悲惨な結果を教訓として、成績主義と政治的中立性を大原則とする近代公務員制度が形成されてきたその歴史を忘れてはならない。日本でも1920年代の政党政治の時代に、政友会と民政党の2大政党間で頻繁に政権交代が行われたことにより、大半の省庁が政党人事の波におそわれ、多くの官僚が休職や退職を余儀なくされた。これにより行政の連続性が失われ、結局、国民がその犠牲となった。

 米国の政治任用に関する最近の注目される研究は、政治化が進んだ省庁や機関では、パフォーマンスが低下するということを実証的に明らかにしている(Lewis、2008)。政治化が進んだFEMA(連邦危機管理庁)は、ハリケーンカトリーナの際に極めてお粗末な対応をすることになり、大勢の犠牲者を出してしまった。その他の数多くの証拠が政治任用の多用は、行政パフォーマンスを低下させることを実証している。

 政治的な応答性を重視しようとする場合でも、公務員の政治的中立性を念頭に置き、また、組織のパフォーマンスを低下させないためにはどうすればよいか、制度設計および運用において、十分な配慮が必要である。

集権的な人事管理からの脱却へ

 日本の組織では、本人の異動希望は聞き置く程度で、一斉の定期人事異動ならびに昇進管理を、人事セクションの強い権限で実施してきたが、この慣行は諸外国の実態とは極めて対照的である。英米の公的部門では、(軍隊組織を除いては)空席ポストが公募され、それに本人が応募するという手続きが基本となっている。公募ポストへの応募というアクションを待って、異動が行われることになる。公募ポストの公開範囲が部内限定か省内限定か、公務員一般か、あるいは、民間も含めた一般公募とするかを各マネジャーが判断することになる。

 定期一斉人事異動は、日本独自の風景である。今後、このような慣行を継続しつつ、さらに内閣人事局による専権的な人事異動を可能にすれば、きわめて強大な権力を有する、諸外国(軍事政権を除く)に類例のない組織となるだろう。米国におけるOPM(人事管理庁)も、実は、幹部人事を一元管理する機関ではない。

 仮にそのような改革を推し進めるのであれば、人事セクションによる専権的な人事異動というこれまでの人事慣行そのものを抜本的に改め、公募が原則ということにするような検討が必要となってくるだろう。これも日本の雇用慣行(官民ともに人事集権)のもとでどこまで機能するかの吟味が欠かせない。

◆◆◆

 人事行政は行政の「核心」である。質のよい公務員を採用し、トレーニングして、彼らに国益のために働いてもらう必要がある。我々国民は、使用者としてそれを監視する権限と責務があるはずである。国民的見地から、共有財産である公務員制度をいかに良いものにするのかについて冷静な議論が進められることを切に願う。

参考文献

村松岐夫編『公務員制度改革―米・英・独・仏の動向を踏まえて』(学陽書房、2008年) David Lewis, The Politics of Presidential Appointments: Political Control and Bureaucratic Performance, (Princeton University Press,2008) 稲継裕昭監訳『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(ミネルヴァ書房、2009年)

稲継 裕昭(いなつぐ・ひろあき)/早稲田大学政治経済学術院教授

【略歴】

1958年生まれ。京都大学法学部卒。京都大学博士(法学)。地方自治体勤務の後、姫路獨協大学法学部助教授、大阪市立大学大学院法学研究科教授、同法学研究科長・法学部長などを歴任。2007年より現職。

【主著】

『プロ公務員を育てる人事戦略』(ぎょうせい、2008年)、『自治体の人事システム改革』(ぎょうせい、2006年)、『公務員給与序説』(有斐閣、2005年)、『人事・給与と地方自治』(東洋経済新報社、2000年)、『日本の官僚人事システム』(東洋経済新報社、1996年)。共編著に『包括的地方自治ガバナンス改革』(東洋経済新報社、2003年)。共著書多数。