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松永 美穂(まつなが・みほ)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

暴力と文学

松永 美穂/早稲田大学文学学術院教授
2019.1.28

 2007年に文化構想学部がスタートして以来、ずっと「暴力と文学」という授業を担当している。「物騒なテーマですね」「先生のイメージと合いませんね」などと学生からは言われ、最初は自分でもこの授業の担当となったことに戸惑いがあった。(文化構想学部の場合、それまで文学学術院にいた教員たちにはカリキュラムを作っていく準備期間があった。「暴力と文学」という科目が設定されたときの委員会にわたしも出席していたのだが、担当が自分になるとはその時点では思っていなかった。)しかし、何年も教えるうちに、このテーマの重要性を強く意識するようになってきている。

 わたしが大学院生のころ研究していたクリスタ・ヴォルフという作家が、「ヨーロッパの文学は戦争の記述から始まった」と言っている。彼女は『カッサンドラ』という作品でトロイア戦争を女性の視点から語り直す試みをしているが、彼女の指摘通り、ホメロスの『イーリアス』はギリシャ軍がトロイア城を包囲する戦争のさなかの時点から始まっている。敵方の家畜だけでなく、女性をも「戦利品」として分け合う兵士の態度に違和感を覚える現代の読者も少なくないだろう。

 初期の文学はしばしば歴史記述と結びついており、戦争の勝者の立場から英雄を讃え、戦いを正当化するものであることも少なくなかった。そもそも文字を知り、書いたものを記録として残せること自体が、権力と結びついていたとも言える。当授業では、担当者の専門であるドイツ語文学に範例を多く求めながら、文学の担い手、受け手の階層がどのように変化してきたかを眺め、戦争を記録することの意味について考えている。

 そんななかで、履修する学生に対して、毎年二つのアンケートを行っている。まず新学期には、「日本が今後五十年のあいだに戦争に巻き込まれる可能性はあると思いますか?」と尋ね、学期の中頃には、「もし戦争が起こったらあなたは亡命しますか? 亡命するとしたら、どの国に行きますか?」と尋ねる。学生がそうしたテーマについて想像したことがあるかどうかを問うまでで、何らかの政治的立場を問題にしているわけではない。このようなアンケートでも、十年あまり続けて行っていると、変化が見えてきて興味深い。たとえば冒頭の質問に対しては、二、三年前までは「そのような可能性はないと思う」という答えが圧倒的に多く、七割から八割を占めていた。それが昨年、「ない」「ある」の割合がほぼ同数になった。トランプ大統領登場後の、世界情勢における緊張の高まりを反映した数字と言えるかもしれない。

 亡命については、当然ながら「考えたこともない」という学生が多い。しかし、授業ではナチ時代の亡命作家(たとえばトーマス・マンやベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガースなど)の話を扱い、強制収容所のこと、現代のシリア難民の話も紹介している。時事問題を扱う授業ではないが、文学作品が書かれることの意味、作品の背景、それが読者に求める想像力について考えるうちに、亡命者の立場を理解しようとする気持ちが学生のなかにも生まれてくるようだ。

 戦争の記憶の仕方についても、ドイツ語圏における記念碑や警告碑、ドイツ各都市にある「躓きの石」の試みを紹介している。「躓きの石」は、ナチ時代に連行されたユダヤ系市民の住宅前の舗石に埋め込まれた、その家族の名前や運命を記したプレートだ。たとえばベルリンのオラーニエンブルガー通り周辺にはこうしたプレートを多く見出すことができる。

筆者が撮影した躓きの石。この家族は1939年に逃亡して生き延びた、と記されている。

 また、戦争を描いた映画は今日でも多く作られているが、そのなかで、たとえばヒトラーがどのような人物として描かれているか、にも注目している。ヒトラーが戯画化しやすい(いじりやすい)キャラであることは、チャップリンの「独裁者」を見ても明らかだ。二年前に日本で公開されて話題になった「帰ってきたヒトラー」は、現代ドイツにおける右傾化や政治不信を実感させる、観る者に考えさせるところの多い映画でもある。

 こうして、当授業では戦争文学だけではなく、映像も駆使しているが、実際にあった戦争だけでなく、バーチャルな戦争、もしくは近未来の戦争を描いた現代文学も扱っている。たとえば三崎亜記の『となり町戦争』は、課題図書のなかでも人気の高い作品だ。ある日、自分の住む町が隣町と戦争を始めてしまう。目的は町興し、はたまた予算消化? わからないままに戦争に巻き込まれていく青年の姿がここでは描かれている。

 高橋弘希の『指の骨』や古処誠二の『接近』『線』など、戦争を体験していない世代が描いた太平洋戦争。ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』におけるイラク戦争。中村文則『R帝国』やロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』などが描く近未来の戦争。題材には事欠かない。学生には、文学作品に触れることで自らの生きる時代についての考察を深めていってもらえればと思っている。

松永 美穂(まつなが・みほ)/早稲田大学文学学術院教授

東京大学大学院人文科学研究科博士後期課程満期退学、専門はドイツ語圏の現代文学と翻訳論。現在の所属は文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系と大学院の現代文芸コース。訳書にベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社)、ウーヴェ・ティム『ぼくの兄の場合』(白水社)、アンゲラ・メルケル『わたしの信仰』(新教出版社)など。