早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

読売新聞オンライン

ホーム > オピニオン > 文化・教育

オピニオン

▼文化・教育

永井 保成(ながい・やすなり)/早稲田大学理工学術院教授  略歴はこちらから

数学者は何する人ぞ

永井 保成/早稲田大学理工学術院教授
2018.2.26

 数学の研究に関することが報道にのることはほとんどない中で、近年ABC予想にまつわる話題が新聞紙面に掲載されるなどしたことは記憶に新しい。2012年に望月氏のプレプリント(暫定版の論文)が出て以来、その正しさを確かめる査読に5年もの月日が費やされてきたことは、確かに数学者業界の標準から見ても普通のことではなく、また、漏れ聞こえてくるところ、大部な論文で構築された新理論構想の壮大さなど、破格なことづくめであることは確かだと思う。しかし、筆者はその筋の専門ではないので、残念ながらその程度の感想以上にこの件について特に何か述べる見識を持たない。

 しかし、気になるのは、この件にまつわる新聞報道などの書かれ方である。ABC予想がどれほどの難問であるのか、望月氏の論文がいかに難解であるのか、また、望月氏がいかに天才数学者らしい経歴やエピソードの持ち主であるのかといったことを述べるばかりなのは、なんとなく残念である。「数学の問題」というものがまずそこには必ずあって、数学者たちは競ってそれを解こうとしている。数学者たちは数学の問題を解くことにすべてを捧げている世間離れした奇想天外な人たちで、数学者の仕事の価値は、彼/彼女の解いた問題の難しさで測られる。そんなつまらない理解が通底しているようにも思われるからだ。

 筆者の意見では、この理解は半分正しいが、半分しか正しくない。なるほど、多くの人たちにとっては、数学とは「問題を解くことが全て」なのかもしれない。小学校の算数の手ほどきから始まって、大学入試の勉強でも、果ては大学入学後の数学の講義でも、いかにして問題を解くか、その操作法ばかりが教えられている。そんな数学体験を十数年にわたって続ければ、「数学は問題を解くコンテストだ」と思うようになるのは自然なことだ。しかし、ABC予想でも他のどんな数学の予想でも同じことであるが、数学の予想や未解決問題というのは、誰も何もしなくても天から降ってくるようなものではない。どんな大予想や未解決の難問もそれを発見した人がいる。その人たちはどのようにしてその問題を発見したのだろうか。あるときだしぬけに、なんの脈略もなくふと大予想を思いつくのだろうか。

 数学の予想が「解くべき数学の問題である」という状態でいること自身、実は非常に難しいことだ。なぜなら、その予想・問題が述べる内容が直ちに解けてしまうようなものではなく、かといって直ちに反証されることもなく、それでいて、その正しさが多くの人々に信じられるような形で提示されなければならないからだ。その予想を完全に証明することはできなくても、どうやら成り立ちそうだと思わせるような例を作って見せたり、特別な場合の証明を与えたりすることがなければ、それは「数学の予想」たりえないのである。このような予想を予想として成り立たせるような数学的な議論を、数学者たちは「証拠 (evidence)」と呼ぶ。

 数学の予想や問題が提起されるためには「証拠」がなければならないとすれば、予想や問題の発見というのはすなわちその「証拠」の発見に他ならないが、これがまた、誰にでもできることではない。ある種の数学的能力、それは時には並外れた計算力であったり、並外れた直感の鋭さであったり、あるいは長年にわたる数学的考察の積み重ねであったり様々であるが、そういう才能や努力の裏打ちなしに数学の問題を発見することは決してできないのである。ガウスやオイラーが超人的な計算力をもっており、膨大な計算に支えられて得た「証拠」をもとに新たな数学の定理を発見していったことはあまりにも有名だ。現代の数学者は時にコンピュータを用いるなどして新しい数学的発見を目指している。それまでだれも気づかなかった数学の事実を自分が発見することは、既に知られた問題を解くのとはまた違った格別の喜びがある。

 ひるがえってみれば、実は数学の問題を解くという営みも、数学の問題を発見する営みと表裏一体のものである。一見して当たり前ではない数学の問題が解ける、ということは、その問題を別な問題に置き換えたり結び付けたりすることを繰り返し、最後にはごく簡単に解ける問題に帰着している場合がほとんどだ。これは、大学入試の問題を解くような場合でも全く同様である。つまり、私たちは、数学の問題を解く時にも、それを解くための新しい数学の問題をつねに作り出しているのである。その意味では、数学者は数学の研究をする時間のほとんどを、新しい問題を作り出すことに費やしていると言っても過言ではない。数学の研究を生業とする者にとってみれば、数学の研究の成否は「いかに良い問題を見つけるか」という一点に懸かっている。そして、良い問題というのは多かれ少なかれ「自然に」解けてしまうものだ。数学の仕事の創造性というのは、良い問題を見つけ、あるいは、それまで解けなかった問題を解決する新しい「問題の立て方」を発見する時にこそ発揮される。

 陳腐ではあるが、数学の創造的な営みは芸術に例えるのがふさわしいと思うことは多い。例えば音楽になぞらえるなら、数学の問題を発見することは作曲家の仕事に近いと思う。歴史上の名曲を評して、「神様の音楽を書き写してきた」などと形容することも多いが、数学の問題の発見もそれによく似ている。数学はある一定のルールの中で行われる論理的なゲームである以上、意味のある問題やそれに対する結論というのはあらかじめ定まっているようにも思える。数学の発見というのは、あらかじめそこに存在しているが地中や海中に埋まっていてだれも気が付かない定理を掘り起こしてくるような営みなのだと思う。

 数学の話題を耳にしたら、どんな人たちがどんな風にしてその数学を発見してきたのかについてもぜひとも想いを馳せて欲しいと思う。そこにこそ、単に知られた道具の組み合わせでアクロバット競技のようにして問題を解くこととは別の、壮大な数学のロマンがあるのだから。

永井 保成(ながい・やすなり)/早稲田大学理工学術院教授

2005年東京大学大学院数理科学研究科博士課程修了。博士(数理科学)。
日本学術振興会特別研究員、韓国高等科学院研究員、マインツ大学数学研究所研究員、
東京大学大学院数理科学研究科特任助教を経て、2011年早稲田大学理工学術院専任講師。
その後、同准教授を経て、2017年より同教授、現在に至る。