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真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

巷に溢れる「猫の歴史」に異議あり! 

真辺 将之/早稲田大学文学学術院教授

「猫の歴史」に欠けているもの

 空前の「猫ブーム」と言われて早十数年、もはやブームとは言えないほどに、巷には猫関連の記事やらグッズやらがあふれている。書籍の世界も例外ではなく、毎年かなりの量の猫本が出版されている。その波は歴史書の世界にも押し寄せており、ここ最近、猫の歴史に関する本が次々に出版されている。

 しかし、これまで出ている猫の歴史に関する書物は、有名人に愛された猫を取り上げたものか、前近代までで記述が終わり近現代についてはあまり深く記述されていないものかのどちらかが中心となっている。有名人とは比較的上流階級の人々であり、それだけでは「普通の猫」がどのように生きていたのかはわからない。また猫の生活にとってもっとも変化が激しかったのは近現代という時代である。近現代史のなかでの猫のあり方を追わなければ、現在の人間と猫の関係がどのような歴史的経緯のもとで形づくられてきたのかということを知ることもできない。何より、これまでの猫の歴史は、猫と人の良い関係ばかりを取り扱っている。しかし猫は愛されたばかりでなく、人間によってひどい目に遭わされることも多かった。それを抜きにして猫の歴史は語れない。

猫は道徳的に劣る?

佐賀県杵島郡白石町の秀林寺の猫大明神。化け猫や妖怪「猫又」に関するさまざまな伝説は江戸から明治にかけて書籍や演劇となり、猫に狡賢い・恐ろしいというイメージを付与するのに寄与した。これは佐賀の化け猫伝説にまつわる猫塚に彫られたもの。尻尾が裂け牙を向いて鋭くこちらを睨みつけている(明治4年建立)。

 一例を挙げてみよう。国芳の猫や、養蚕地帯の猫神様ばかりで語られがちな江戸から明治の猫だが、実は江戸から明治にかけての文筆家の世界では、猫は犬よりも評価が低かった。その代表例は、『日本外史』の筆者として知られる頼山陽の「猫狗説」である。頼山陽は、忠義の心を持つ狗(犬)が家の外で飼われ、外面ばかりよく自分勝手な猫が家の中でかわいがられることを批判、人間の世界でも、外面のよい者、媚び諂う者ばかりが用いられる傾向にあると論じたのであった。これ以降、明治初期に至るまでの犬猫の比較論の多くはこの頼山陽の議論の影響を強く受けており、明治中頃までの猫は犬との道徳的比較において連戦連敗を喫していた。もちろん、頼山陽が攻撃するように、猫を愛する人も多くいたことは事実であるが、それがこうした猫を貶める言説の横行するなかでの行為であったことを知らなければ、たとえば江戸から明治の民話によく見られる「猫の報恩談」が、こうした猫イメージに対する猫好きからの反発であったことも理解できなくなってしまう。

『吾輩は猫である』下編表紙(橋口五葉画)。可愛らしい猫の絵は近現代猫イメージの先駆と言える。しかし小説内での猫の描き方は必ずしも愛らしい描き方となっておらず、愛猫家は苦情を述べた。

 猫を主人公に描き、猫の地位を文芸の世界で押し上げたように語られることもある夏目漱石『吾輩は猫である』も、実は今述べたような旧来の猫観と無縁ではなく、当時の愛猫家達からの評判は悪かった。当時の愛猫家は「夏目氏の猫は遂に悪人なり」「余輩は夏目氏が愛らしき猫とならずして、悪むべき猫となりて家庭の内秘を発きたるを恨む」(石田孫太郎「小猫を迎ふ」、『衛生新報』1906年7月)と恨み言を述べている。確かに猫が愛らしく描かれている部分はあまり見当たらず、どちらかといえば非道徳的な存在として描かれており、また、猫の頭を撲るシーンや、猫を煮て食べたという人物まで出てくる。当時の愛猫家が気分を悪くしたのは無理もないことだった。

猫は国家にとって有用だ!

猫イラズの広告(『読売新聞』1912年11月14日)。猫は「免職」、ねずみ捕りは「ハライモノ」と書かれている。死んだ鼠が腐敗しない効果もあり、死骸を散らかす猫による鼠駆除よりも衛生的であった。

 しかし明治末に至り、その道徳的に劣るとされた猫が、国家から有用な存在とされる日が来る。ドイツの細菌学者コッホが、ペスト対策として飼猫が有効だと主張し、これを受け内務省・警察が猫の飼育を奨励したのである。従来、道徳的に劣ると散々に貶められてきた猫の飼育を、国家が有用なものとして奨励するに至ったのであるから、猫の地位における革命的な転回であった。これにより海外から猫の輸入が行われたほか、猫の値も騰貴し、浅草千束町、本所松倉町などに猫の販売店が出現し、それらの店は大きな利益を上げたという。

 しかしこの猫飼育奨励に後日談があることも、従来ほとんど語られていない。実は、猫飼育奨励は長く続かなかったのである。それは殺鼠剤が登場したためである。なかでも一世を風靡したのが「猫イラズ」であった。ちなみに、大正から昭和にかけての新聞を見ていると、「猫自殺」「猫心中」というような見出しがしばしば見える。これは、もちろん猫の自殺が記事になったのではなく、猫イラズを使った人間の自殺が横行したのである。さらに、猫イラズは猫をも殺した。政治評論家の阿部真之助によれば、猫が殺鼠剤を誤食して死に、場合によっては鼠が生き残って村中の猫が死に絶えるような場合すらあったという(阿部真之助「猫のアパート」、『文芸春秋』1951年12月)。先述した国家による飼猫奨励という猫の天下は、三日天下にして終わったのである。

 殺鼠剤が広まった要因としては、それが手に入りやすく手軽だった、という理由とともに、コッホの大きな誤算も一因であった。コッホは西洋家屋と日本家屋の違いを計算に入れていなかったのである。

 西洋風の家屋ならば、殆んど何の心配もありませんが、所謂木と紙で出来て居て、内には畳といふものを敷いて、素足或は足袋で歩き、又人が座わる処になつて居るのでありますから、外を歩き廻つて来た猫が、その足で同じく歩き廻る。何が著くか分かつたものでありません。〔中略〕健康な鼠でも腸管などの出掛つたものを畳の上に曳ずられてはたまりません、況や若しそれが「ペスト」に罹つてゐる鼠でもあつたならば、それこそ危険至極で、「ペスト」予防どころではない。(『婦人衛生雑誌』1916年7月)

 もともとの猫好きであれば、この程度は我慢するか、猫の上がれる場所を制限するなどの手段で対処したのであろうが、衛生のために猫を飼う場合には、これは我慢ならないものとなる。つまり衛生のための猫の普及は、衛生的観点から否定されることになったのである。

人間社会の変化に翻弄される猫

大阪市西成区の松乃木大明神境内にある猫塚(明治34年建立)。三味線の胴の形をしているのは、三味線の皮の原料として殺された猫の慰霊のために建てられたからである。全国に類似の塚が多く見られるが、三味線製造のための猫狩りは、戦後に至るまで愛猫家との間に多くのトラブルを引き起こした。

 紙幅に限りがあるため詳しくは触れられないが、これ以降も猫は受難の連続であった。関東大震災や第二次世界大戦によって猫も大変な被害を受けた。戦争中の食糧難の中で、猫を飼う事への非難は高まり、軍用毛皮の供出のためにと猫狩りが組織的に行われた。食糧難は戦後にまで続き、猫食いも横行した。その後、日本経済が高度成長を遂げるなかでようやく猫の生活も豊かになったかといえば、必ずしもそうとばかりは言えない。それまで猫は外で飼うことが当たり前で、家猫と飼い猫の中間領域が広く存在していた(それゆえ、複数の飼い主を持つ猫も多く、猫を運び手とする文通まで行われた)のだが、この頃から、住環境の変化とあいまって、家猫と野良猫の二極分化が顕著になっていく。

 そうしたなかで猫をめぐるトラブルやそれによる猫の虐待も頻発する。戦前に存在した虐待の多くは、猫を「畜生」と蔑む気持ちが根本にあり、かつ飼い主と虐待者とが顔を突き合わせて口論を交わした果てに起こることが多かった。しかし、高度成長期以降のそれは、社会から疎外された人や、地域社会の共同性が失われたことに起因するトラブルや虐待が主で、虐待の多くは陰で行われるようになった。また新聞や雑誌などに、猫が「迷惑」という投書も頻繁になされるようになる。川崎市で猫の脚を切断する事件が多発した際、保健所の担当者が「猫好きは連帯するけど、猫嫌いは孤立するから心配」と話したように(『週刊読売』1983年7月23日)、こうした虐待行為に出る人には共同体から疎外され孤立している人が多かった。逆に、猫の多頭飼い、飼育崩壊などもこののちたびたび問題になるが、そうした人もまた、社会的に孤立した人であることが多い。都市化のなかで、地域の共同性が薄まっていくしわ寄せが、猫に大きな被害をもたらすことになったのである。

 高度成長期には、猫の生活も大きく変わった。トイレは「猫砂」になり、食事も、従来の「猫まんま」から、キャットフードへと変化していった。それは猫自体が商品経済のなかに巻き込まれることでもあり、室内飼いや避妊去勢手術の影響もあってメタボの猫が増えるとともに、猫ブームの後には大量の捨て猫が発生したりもした。また自動車の流行と交通網の整備で猫の交通事故も飛躍的に増えた。猫の歴史はことほどさように一筋縄ではいかないのである。人間に翻弄されながら、幸と不幸のはざまで、猫の歴史は形作られてきた。

これからの「猫の歴史」のために

 猫の歴史に限らず、世の中には綺麗ごとだけで歴史を書きたがる人がいる。そういう人々は、自国の負の歴史に言及することを「自虐史観」として批判したりする。しかし都合の良いことだけを見て、都合の悪いことから目を背ける社会に、明るい未来があるだろうか? 例えば、自社や自社製品の素晴らしさだけを見て、自社の持つ欠点を直視しない企業があれば、そんな企業はすぐにつぶれてしまうだろう。社会や国も同じことである。だからこそ、猫を心から愛する私は、猫と人の日本近現代史を、負の歴史も含めて、総合的に描きたいのである。そのことこそが、人間自身の反省につながり、猫にとってより良い社会の実現につながると考えるからだ。

 このような観点から私は、「猫、その受難の歴史―日本近現代史のなかで―」と題する小文を雑誌『文芸ラジオ』3号に発表させていただいた。本稿と論旨は重なるが、ご興味のある向きはお読みいただきたい。とはいえ、そこで描いたものも、猫と人の日本近現代史のなかのほんの一コマに過ぎない。今後はさらに書物としてまとめていきたいと考えている。手元に、1~2冊の本を書けるぐらいの材料は既に揃っている。いわば本稿は、吾輩の「猫の歴史家」宣言である(笑)。しかし、「吾輩は猫の歴史家である」と述べたその後に、漱石の猫よろしく、こうも付け加えねばならない―「出版元はまだ〔決まって〕ない」。あとは書いて出すだけである。どうぞわが社でという出版社があれば、ぜひ一声かけていただきたい。猫招きしながら、お待ちしている。

真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院教授

1973年生まれ。日本近現代史専攻。著書に『大隈重信―民意と統治の相克』(中央公論新社、2017年)、『東京専門学校の研究』(早稲田大学出版部、2010年)、『西村茂樹研究―明治啓蒙思想と国民道徳論』(思文閣出版、2009年)など。近年は東アジアの動物慰霊碑に関する研究や、猫の歴史などの研究も進めている。