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田島 照久(たじま・てるひさ)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

聖マルティン祭―愛と慈しみの聖人の祝祭―

田島 照久/早稲田大学文学学術院教授

 農作物の収穫も済み、秋に摘み取ったブドウを搾った発酵したての甘いワイン(neuer Süßer)が街に出回る頃、今年も聖マルティン祭がやって来る。

 11月11日の聖マルティン祭は収穫期の終わりと共に、冬の季節の到来を告げる日でもある。11月は12月と並び古くは「屠殺の月」(Schlachtmonat)とドイツの農民たちの間では呼ばれていた。夏から秋にかけて丸々と太らせて育て上げた豚や牛、ガチョウ、鶏をこの時期に村人総出で屠殺し、ベーコンやハム、ソーセージ、干し肉などの保存食へと加工するが中世以来のヨーロッパ農民のしきたりであった。習慣法(Weistum)によって屠殺に定められた月以外には勝手な処分は許されなかったのである。

 ドイツの古い伝統では、この日は2月2日のマリアの光のミサの日と並んで、一年の労働に対する賃金決算の日とされていた。農耕牧畜の仕事が終わり、厳しい冬への準備を始める生活の節目の日を人々は愛と慈しみの聖人、聖マルティンの祝祭日に重ね合わせてきたのである。

聖マルティン伝説

 ヤコブス・デ・ウォラギネの『レゲンダ・アウレア』(黄金伝説、13世紀)から聖マルティンの生涯をまとめると、聖マルティン(マルティヌス、マルタン)は316年頃生まれ、ローマ帝国の騎士となったが、ある冬の日のこと、馬でアミアン(パリの北150キロ)の城門にさしかかったとき、寒さにふるえている乞食に出会い、ほかに施すものがなにもなかったので、着ていたマントを剣で二つに裂き、一方を与えたとされる。その夜、半分のマントをまとったキリストが彼の夢枕に立ち、まわりの天使たちに 「マルティンはまだ洗礼を受けていないが、このマントをわたしに着せてくれた」と語ったという。後にマルティンは軍籍を離れ、ポワティエの司教聖ヒラリウスのもとで司祭に任じられた。後年、固辞したにもかかわらずトゥールの司教に選出され、郊外に修道院を建て、80人の弟子たちと厳格な修道生活を送り、397年81歳ぐらいで没したと伝えられる。伝承によれば、聖マルティンの怒ったり、悲しんだり、笑ったりした姿を見かけた者は誰もなく、彼の口から出るのはキリストの御名だけであり、心にあるのは柔和さと平安と慈愛だけであったと伝えられる。

聖マルティン祭

聖マルティンと迎えの子供たち

 現在ヨーロッパ各地で行われている聖マルティン祭の主役は子供たちである。思い思いの手作りの提灯(ラテルネ)に火をともして、雪の中、マルティン祭の歌を口ずさみながら、町の城門、村の入口まで、馬にまたがった聖マルティンと従者を迎えにいく。子供たちは喜びの声をあげ聖マルティン一行を迎え、教会へと進んでいく。教会ではかがり火が焚かれ、鐘が鳴り、お菓子や果物が子供たちに贈られる。子供たちは古いローソクを置き、新しいローソクに、この日教会で切り出した新たな火をともして家路につく。この日にはガチョウを食べる習慣が伝わるが、これは司教を乞われたマルティンが身をかくしたときガチョウが鳴き騒いで居所を教えたという伝説に基づくとされている。しかし、ガチョウを食べる習慣は、キリスト教伝来以前にまで遡ることができ、ゲルマンの神々への捧げ物を家族で食するという習俗の名残りであるとされている。

スイス、ズールゼーのガチョウの首切り(Gansabhauet in Sursee)

スイス、ズールセーの「ガチョウの首切り祭り」、市庁舎前の舞台

 スイス、ルッツェルン近郊のズールゼーで毎年11月11日の聖マルティン祭の日に「ガチョウの首切り」という祭りが執り行われる。市庁舎前の広場に舞台がしつらえられ、目隠しをされ太陽の仮面をつけた若者たちがそこに吊るされている死んだガチョウの首をサーベルで切り落とすことを試みるもので、チャンスは一振り一回のみ。成功すればガチョウが賞品としてもらえる。腹痛を防ぐためにマルティンにガチョウや鶏を捧げる習俗が他の地域であることからこの祭りは収穫祭の供物の伝統に連なるものとされている。続いて子供たちのための祭りが催され、おかしな顔をすればチーズがもらえるという伝統ゲームに子供たちは興ずる。

失敗して戻ってくる試技者

変な顔をするとチーズがもらえるKäszännetに挑戦する子供

守護聖人マルティン

 11月11日はマルティンの命日である。聖母マリアや洗礼者ヨハネなどの例外を除いて、教会暦では一般に聖人の祝祭日はその聖人の命日とされている。誕生日を祝うという習慣はもともとキリスト教にはなかったもので、誕生したことよりもどんな一生を終えたかということのほうが重要であり、聖人の命日は永遠の生命への移行の日と考えられていたからである。

 コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313年)によりキリスト教が公認された直後の時代に生きたマルティンはペトロ、パウロ、ヤコブなどの使徒聖人とは違い殉教聖人ではなかった。しかしキリスト教最初期の聖人として、またその類まれな長寿も手伝って様々な奇跡譚が伝えられている。彼は異教の地への伝道に力を入れ、異端であるアリウス派の改宗にも力を尽くしたとされる。禁欲的修道理念と使徒職とを結び付け、西ヨーロッパ修道生活の模範となったとされる。マルティンのcappa(マント)は聖遺物として保存され、その保管場所をcapellaと呼び、現在の礼拝堂(チャペル)の語源となった。

 聖マルティンはフランスやハンガリーの国の、またアミアン、アヴィニヨン、コルマール、カッセル、マインツ、パリ、ザルツブルクなど多くの都市の守護聖人であり、浮浪者、困窮者、織物業者、武具製造者、兵士、馬、ガチョウなどの家畜、ハンセン氏病患者、病気の子供のための守護聖人としても崇敬されているなど民衆の内に深く浸透した聖人としては他に類を見ない。

田島 照久(たじま・てるひさ)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】
1947年東京都出身
早稲田大学第一文学部哲学科卒業
ドイツ・フライブルク大学第一哲学部哲学科卒業(Magister)
明星大学専任講師、早稲田大学商学部専任講師・助教授・教授を経て現職。
博士(文学)

【主要業績】
著書『マイスター・エックハルト研究―思惟のトリアーデ構造esse・creatio・generatio論』(創文社 1996)
編訳書 岩波文庫『エックハルト説教集』(岩波書店 1990)
共編書 岩波文庫『禅林句集』(岩波書店 2009)
編訳書『ドイツ神秘主義叢書4 タウラー説教集』(創文社 2004)
分担執筆「クリスマスと病なおし奇跡譚の不思議」(『聖書をめぐる九の冒険』文芸春秋 1995)
分担執筆「マイスター・エックハルトの本質的始原論」(『中世における信仰と知』 知泉書館 2013)
分担執筆「ドイツ神秘思想の経歴と現代への寄与」(『岩波講座 宗教4 根源へ』 岩波書店 2004)
分担執筆「ドイツ神秘思想における時間把握―マイスター・エックハルトの瞬間論」(『ヨーロッパ中世の時間意識』知泉書館 2012)