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大門 泰子(おおかど・やすこ)/早稲田大学歴史館非常勤嘱託   略歴はこちらから

佐野 智規(さの・とものり)/早稲田大学歴史館助教  略歴はこちらから

父から子への手紙

歴史館寄贈資料にみる学費負担者のオピニオン

大門 泰子(おおかど・やすこ)/早稲田大学歴史館非常勤嘱託 
佐野 智規(さの・とものり)/早稲田大学歴史館助教
2022.7.19

 2021年度、歴史館(当時「大学史資料センター」)は篤志の方より資料232点の寄贈を受けました。うち227点は、本学教育学部教員であった陣内宜男氏(以下「宜男」)に関係する資料で、父・多三から息子・宜男に宛てた書簡が180通ありました。書簡は、宜男が早稲田大学第二高等学院の入学試験を終えたばかりの1926327日に始まり、二度目の兵役についた1941年夏までの長期に及ぶものです。「父から子への手紙」をご紹介する前に、簡単に経歴を見ておきましょう。

 長崎県諫早町(現・諫早市)に住む父・多三は、資料から推察できる限り、宜男の在学時は地代収入を得ていましたが、大地主ではなく、貸家業、共同購買会や繭販売利用組合の仕事、諫早町災害復旧耕地整理組合での期限付きの嘱託などから現金収入を得ていたようです。1927年には町議を務めています。

 子・宜男は1906年(明治39)、諫早町に生まれました。県立大村中学校を卒業後、1926年に早稲田大学第二高等学院へ入学、早稲田大学文学部文学科国文学専攻を1931年に卒業しました。卒業後は半年余り中国で学んだ後に兵役につき、退役後の19332月に早稲田大学学生課に就職、1941年からは第二高等学院専任講師となり、1949年には早稲田大学教育学部の助教授となりました。

「卒業を遂げ数千金の学資を意義あらしめ」

 父は宜男にどのような手紙を書き送っていたのでしょうか。卒業を目前とした日の書簡をみてみましょう。

愈待ちに待ちたる卒業を向へ、嬉しく喜び合居り候。五年間毎日新聞記事を隈なく見、早稲田校に事件は起ぬかと心配致、只無事に卒業期を一日千週と待居たるに、卒業を遂げ、数千金の学資を意義あらしめ、大学出身としての子を持つ親の心は感慨無量。(1931年3月23日、適宜句読点を補った)

waseda_0719_img_1.jpg【卒業を喜ぶ書簡(1931323日)】

 宜男の卒業は、学業の成就・大学卒業資格の獲得を意味するだけでなく、父にとっては仕送りからの開放でもあることが痛切に伺えます。早稲田大学の学費は、宜男が在学した1926年度から30年度にかけて、高等学院が年に120円、大学文学部は年に140円。すなわち授業料が月平均10円から12円程度で、ほかに制服・制帽などの負担が必要でした。みずからの生活が苦しくなっても父は「学費は可成値切せざる積り」(1927年9月28日)と、宜男に送金しつづけました。

 書簡は仕送りの金額を明記するだけでなく、家政の問題、家計の厳しさ、やり繰りの困難さも伝えようとしています。父にとって宜男への仕送りは、書簡による定期的なキャリア指導の機会でもありました。

「学費は私の汗油である」

 不況が深刻化するなか、金策と送金をひたすら繰り返す父の仕送りモチベーションも揺れ動きます。「学費は、父が貯へて居る丈は御前たチに、やるから、むだつかいさエ、せネば、 宜しい」(1926327日)と鷹揚に書き送った次便で、はやくも「入費は成可く節約され度候。此頃は収入なき上に支出多く困り居候。光子も四月一日より入学致候」(42日)と釘を刺しています。

 モチベーションが著しく低下することもありました。4年目の新学期を迎えた19294月から5月にかけて、父は75円・50円・50円の計175円の送金をしています。一息つくまもなく617日付で、大学から学費金52円の催促が送られてきました。5日後、父は大学会計課宛に為替を組み宜男へ送金しましたが、入れ違いに今度は宜男から70円を要求する書面が届いたのです。その時の父からの手紙を見てみましょう。

最早六十才近くになり、収入は月に五十円斗り。此れとても毎日/\耕地組合に腰弁当にて出勤して貰ふ御金にて、漸く学費に充て居る訳にて、学費は私の汗油である。(中略)此の模様にては、親譲りの田地でも売却セネばならぬ事と、なりは、せまいかと心苦しい思いをして居る。夫れで本年は東京で何か内職でもして老父を助くる計画を立てヽ貰いたい。(中略)熟々/\考るれば吾々中産階級の人民では大学ニ入学は考へ物と思ふ。世間を見渡セば、人間は学問のみでは駄目である。活社会に出ては、常識ある人が能く世渉りが上ずである事が目に付く故、其積りで考へて貰いたい。(1929年6月26日)

waseda_0719_img_2.jpg【我慢の限界を伝える書簡(1929626日)】

 残された書簡を見る限り、以後送金額は少なくなります。むしろ19301月には父の方から「是非金が入用ナレバ送ルガ如何」と尋ねていることからすると、父の厳しい指導に宜男は自身の生活態度をあらためたのかもしれませんね。

「我々親子の苦心も水泡になる」

 卒業まで残り半年となった頃、事件が起こります。さきほどご紹介した卒業直前の手紙中に「早稲田校に事件は起ぬかと心配致」とありましたが、じっさい事件は起きていたのです。

waseda_0719_img_3.jpg【早稲田大学の騒動を伝える新聞(昭和6年卒業アルバムより)】

 193010月、早慶野球戦のチケット配布をきっかけに学内で騒動が起こり、10月21日には同盟休校に発展しました。「早稲田校生徒一万三千の同盟休業」と大書きされた新聞を見て心配になった父は、「如何の事あるも、貴下は決して軽率の事はなきものと安心は致居るも、矢張り親御心として不安」と、事態の詳細を知らせるよう宜男に書き送ります。

他は置いて、我々中産階級は毎月の学費としても汗と油で送金しツヽ ある故、最早後と四五ヶ月にて一生の栄誉を極むる時機と相成、寝ても起きても後何月と夫れのミ老の身に楽み居候条、決して/\軽率の挙動に加盟しては出来ず。国家の為め同志を善道に導き、名を挙げ、万事に卒業証書を頂く様、神かけて祈り申候。下級の学生は前図暸遠、何とか后始末も着く訳けなれど、卒業間ぎわ上級生は一歩を過まれば取返しの付かぬ羽目と相成、生涯芽を出す事の出来ない不幸の人も数多有之。我々親子の苦心も水泡になる事を深く考へ、善所せらるゝ事を幾重にも/\御頼み申候。(19301025日)

 これまでの書簡で、父が宜男の学問や大学の様子、都市生活について言及したことは、管見のかぎりありません。私たちにとっては新鮮に見えるほど、父は宜男に信頼を置いています。そんな父であっても、宜男がこの騒動に加わりはしまいか、卒業がフイになってしまわないか、という不安はぬぐいきれなかったのかもしれません。

 紙幅も尽きましたので、父から子への「オピニオン」のご紹介は残念ながらここまでです。このような資料をご紹介できるのは、父からの書簡を大切に保存した宜男がいて、何らかの事情で世に出た書簡を入手し大学へ寄贈された篤志の方がいて、そのような多くの方の篤志に支えられる歴史館があって......という幾重にも重なった歴史的なめぐりあいによるものです。そのめぐりあいの奇跡を、ぜひ歴史館新収資料展にてご覧ください。

 本稿は、大門泰子「息子を遊学させること──昭和初頭の恐慌期、長崎から東京へ──」(『早稲田大学史記要』53、2022年2月)を、著者の了解を得て佐野智規(歴史館助教)が編集・再構成したものです。なおご紹介した「陣内宜男関係資料」の目録は、資料整理後に文化資源データベースへ掲載する予定です。

大門 泰子(おおかど・やすこ)/早稲田大学歴史館非常勤嘱託 

日本女子大学大学院文学研究科修士課程修了。日本女子大学成瀬記念館での学園史アーカイブズ業務と並行して、田無市、小平市、中野区、杉並区で自治体史・女性史編纂事業等に従事。2020年10月より現職。

佐野 智規(さの・とものり)/早稲田大学歴史館助教

早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学広報室広報課常勤嘱託、民間企業を経て現職。アーカイブズ担当。