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松永 美穂(まつなが・みほ)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

海外文学との長くて楽しい付き合い

松永 美穂(まつなが・みほ)/早稲田大学文学学術院教授
2022.5.26

 わたしの所属は2007年にスタートした文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系。いま、そこで「翻訳・批評ゼミ」を担当している。今学期は『日本の翻訳論』(法政大学出版局)を題材に、明治期の翻訳者たちがどのような立場で翻訳を行なっていたかを探り、現代の翻訳とも共通する視点があるかどうか、考察している。後期にはゼミ生たちに、本邦未訳の絵本や小説を訳してもらう予定だ。

 誰にでもわかりやすい言葉使いの翻訳を心がけ、「通俗伊蘇普物語(イソップ物語)」を明治六年に出版してベストセラーにした渡部温。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を歌舞伎の台本風に訳した坪内逍遥。西洋の思想を紹介するために新しい翻訳語を作り出した福澤諭吉。『日本の翻訳論』には、近代化に影響を与えた人々が続々と登場する。一方、苦労してアメリカに留学した内村鑑三は「外国語之研究」で、翻訳に頼らず自ら語学を習得することを強く勧め、「外国語を学ぶことは一つの新世界を得ること」というゲーテの言葉を紹介している。

 翻訳大国と言われている日本では、大きな書店に行けばいろいろな国の文学が翻訳されて棚に並んでいる。そもそも子どもの絵本や児童文学にも、翻訳作品は数多い。幼いころから、わたしたちは知らず知らずのうちに、そうした書籍を通して、またテレビの映像などを通して、外国の風景や人々に親しんでいる。そうした段階から一歩進んで、自らが翻訳者となって外国の文学を日本に紹介する――ゼミでは、その楽しさや大変さを味わってもらい、翻訳文学の単なる読者だったときには気づかなかったような発見をしてもらえれば、と思っている。

 わたし自身は地方都市で育ち、大学に入るまで海外旅行の経験もなく、第二外国語でなんとなくドイツ語を選択した。ドイツ人の知り合いなんて、一人もいなかった。強いて言えば高校生のころ、カフカやヘッセの文学、そしてドイツのクラシック音楽に親しんでいた。ドイツ語の成績も最初はパッとせず、試験があるから仕方なく勉強するという感じだった。しかし、大学三年生のとき、思い立って他大学の「ドイツゼミ」なるものに参加し、三か月間ドイツに行ってきた。そのうち二か月は、「オ・ペア」と呼ばれるホームステイだった。一般家庭に住み込み、滞在費を払う代わりに一日四時間、家事を手伝った。当初は会話もあまり理解できず大変だったけれど、少しずつ慣れてきて、一か月経つとドイツ語で夢を見るようになった。ホームステイ先の子どもたちは、わたしが習ったとおりの文法を駆使して喋っていた。それまでは教室で学んでいた机上の言語が、初めて生きた言葉になって迫ってきた。

 まだ日本語になっていない原書を読みたいという思いが強まり、そのときドイツで購入した現代小説について卒論を書いた。その後大学院に進学し、運よく就職もして、ドイツ語圏の現代文学について発言する機会が増えていった。1990年代にはハンブルクに留学し、ライプツィヒのブックフェアにもしばしば足を運んで、たくさんの作家の肉声を聞くことができた。クリスタ・ヴォルフ、シュテファン・ハイム、ユーディット・ヘルマン、ベルンハルト・シュリンク、ギュンター・グラス......。ドイツは朗読会が盛んで、作家自身の朗読を聞く機会が多いのも楽しかった。

 ドイツ留学をきっかけに、当時ハンブルク在住だった多和田葉子さんとも交流が始まった。多和田さんは早稲田の第一文学部ロシア文学専修を卒業したあと、ハンブルクで書籍取次会社の見習い社員として働き始め、後にハンブルク大学で文学修士、さらにチューリヒ大学で文学博士の学位を取得している。研究だけではなく日本語とドイツ語による文学作品の創作も行なっていて、わたしが留学したころは講談社の「群像」新人賞を受賞し、日本でも作家デビューをしていた。独自の視点から発信を続ける多和田さんの姿勢はとても刺激的だったし、1990年代以降の多和田さんは芥川賞に続いて泉鏡花賞、伊藤整賞、谷崎潤一郎賞、ドゥマゴ賞など次々に日本国内の賞を受賞したのみならず、ドイツ語圏でもシャミッソー賞やゲーテ・メダル、クライスト賞などを受賞。2018年には『献灯使』で全米図書賞も受賞したことは記憶に新しい。早稲田生のみなさんには、こんなすごい先輩がいることをぜひ知ってほしい。また、多和田さんには毎年11月に早稲田でパフォーマンスやワークショップを行なっていただいている。今年は三年ぶりに小野講堂で対面イベントを計画中なので、ぜひ文化企画課のHPに注目してほしい。

 わたしの場合、海外文学(ドイツ文学)を専攻したことで、一気に世界が広がった。さらに、歴史や文化政策など、日本との比較で考えさせられることがたくさんあった。それもこれも、大学でゼロから学び始めた第二外国語が起点になっている。コロナ禍で減速してしまった国際交流もまもなく本格的に再開されるだろうし、現代はインターネットでニュースや映像にアクセスしやすくなり、外国語が習得しやすくなっていると感じる。単位をとるためだけではなく、一生付き合える相手として外国語と向かい合っていけば、とても豊かな出会いがあることを強調しておきたい。

松永 美穂(まつなが・みほ)/早稲田大学文学学術院教授

東京大学大学院人文社会研究科博士課程満期退学、フェリス女学院大学助教授を経て1998年より早稲田大学勤務。
ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の翻訳で毎日出版文化賞特別賞受賞。カトリン・シェーラー『ヨハンナの電車のたび』の翻訳で日本絵本大賞翻訳絵本賞受賞。2015年より日本翻訳大賞選考委員。