早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

読売新聞オンライン

ホーム  > オピニオン  > 文化・教育

オピニオン

▼文化・教育

真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

渋沢栄一と大隈重信

真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院教授
2021.7.26

二人の出会いと対立

 幕臣であった渋沢栄一が、明治に入って大蔵省に出仕するきっかけをつくったのが大隈重信であったことは、すでにご存知の方も多いことであろう。一八六九(明治二)年一〇月、大蔵省出仕の命を受けた渋沢は、その命令を断るつもりで大隈に面会した。当時、大蔵省のトップは宇和島藩主の伊達宗城であったが、実質的なトップとして大蔵省を取り仕切っていたのが、大輔(次官)の大隈であった。大隈は渋沢の考えを消極的な発想だとした上で、新日本の建設に従事することのほうが遥かに大きな意義を持つものであると渋沢に呼びかけて、渋沢を翻意させたのであった。

 新しい日本を作るためには、過去を問うている場合ではない。有能な人材を一人でも多く集めて、近代化を進めていこうという気概が、当時の新政府には溢れていた。実をいえば、大隈自身が、もともと幕末に志士としてのめぼしい経歴を持っておらず、長崎で井上馨に見出され、外交、ついで財政の場で能力を発揮し、わずか二年ほどで新政府の幹部に上り詰めた人物であった。渋沢もそうした能力ある大隈の言葉だったからこそ、動かされたのである。

 渋沢が奉職した当時の大蔵省は、大隈の言葉通り、大蔵大輔(次官)に大隈(三二歳)、その下の少輔には伊藤博文(二九歳)、さらにその下の大丞の役職に井上馨(三四歳)が就任、さらに多くの旧幕臣も出仕し、少し前までの立場の相違を問わず、新しい日本を作ろうという若手俊秀の集う場となっていた。渋沢は上司に遠慮することなく、思ったことは憚ることなく直言、その議論の鋭さには、大蔵省の先輩達も皆閉口するほどであった、とのちに大隈は回想している(『大隈侯一言一行』)。渋沢の協力のもと、大隈ら若手官僚たちは数々の事業を実行に移していく。

 しかし、一八七三(明治六)年、大隈と渋沢の間に亀裂が入る。正確に言えば、渋沢の上司であった井上馨と、その頃は参議になっていた大隈との間に亀裂が入ったのであった。原因は、近代化のための多額の支出を求める大隈や各省と、政府収入からみて過大な支出はできないとする井上と渋沢とが対立したのであった。意見が受けいれられないとみた井上と渋沢は、一八八三(明治六)年五月、辞表と意見書を政府に提出した。またこの意見書は都下の新聞にも掲載され、政府の機密の暴露として大きな騒ぎとなった。こうして渋沢は大蔵省を去ったのである。

waseda_0726_img_1.jpg

井上馨・渋沢栄一奏議(両人が辞職に当たって提出した意見書の写)
(早稲田大学図書館所蔵)

 激しく対立した両者であったが、政府を去るにあたって渋沢は大隈に対し「辞職に際して個人的な不平も不満もない」と伝え、「現在の政府のやり方は多少軽はずみだと危惧するが、きっと今後大隈の力で挽回してもらえると信じている」とエールを送った(『大隈重信関係文書』)。『大隈重信関係文書』を紐解けば、辞職後、本来の志願であった民間での経済活動に従事した渋沢が、大隈としばしば連絡を通じており、その後も親しい関係を続けていたことがわかる。後発資本主義国としての日本は、経済発展に際して政府の果たす役割が極めて大きかったから、民間で渋沢が活動するにあたっては、政府がインフラなどの基盤の整備や補助を行うことが不可欠であった。大隈は渋沢の事業を支え、また渋沢も、例えば第一国立銀行の頭取を務めるなど、大隈の殖産興業政策を民間から支えた。のち一九〇七年に大隈が日本の発展の歩みを記すべく『開国五十年史』を編集した際には、大隈は渋沢栄一に「銀行誌」「会社誌」の執筆を依頼している。渋沢の斯界において果たした役割を高く評価して、是非にと依頼したのであった。

大隈の苦境と渋沢のサポート

 いわゆる明治一四年の政変で、大隈が政府を去ると政府は大隈を疑い、金融機関に圧力をかけるなどして財政的に苦しめたが、この時大隈を支えたのが渋沢であった。すなわち、一八八七年、資金困難に陥った大隈を救うべく、雉子橋にあった大隈邸のフランス公使館への売却を渋沢が仲介したのである。この売却により、大隈は早稲田大学の前身・東京専門学校の会計に三万円の公債証書を組み入れることが可能になり、法学部移転論争などの内紛で経営難に苦しんでいた学校経営を軌道に乗せることができたのである。

 その後もたびたび渋沢は大隈を救った。たとえば一九〇一年三月、ストーブの出火に端を発した火災で大隈邸が半焼すると、渋沢は無抵当で一万五〇〇〇円を貸与した。大隈といえば常に三菱との関係を噂されるが、実際には三菱はこの火災の際にも東京馬車鉄道株を抵当に入れてようやく金を貸してくれたような有様で、その後、株価が下落すると抵当を増やせと猛烈に督促するなど、必ずしも大隈の「味方」ではなかった。むしろ渋沢の友情の方が大隈にとっては極めて大きな助けになっていたといっていい。

 渋沢は大隈の創設した早稲田大学に対しても複数回に渡って多額の寄付を行い、のちには基金管理委員会の委員長も務め、また「校賓」に推されている。一九一七年からは早稲田大学の維持員(現在の評議員)に就任し、また早稲田大学を真っ二つに割った「早稲田騒動」の後始末を大隈から依頼されると、渋沢は校規改定調査委員会の会長となって善後処理にあたった。さらに大隈没後も、現在の早稲田大学の象徴である大隈講堂の設立に際して故総長大隈侯爵記念事業後援会の会長としてバックアップ、また、大隈講堂とならぶ早稲田の名所である演劇博物館の建設に際しても、坪内博士記念演劇博物館設立発起人代表として尽力した。

国民教育と国民経済・民間外交

 むろん渋沢が一方的に大隈をバックアップしたわけではなく、大隈も政治の立場から渋沢の活動をサポートした。例えば一八八八年に大隈は外相として政府に復帰するが、任期中に通商局長の佐野常樹を綿業調査のためにインドに派遣、その調査の結果として日印貿易の端緒が開かれることとなり、それが渋沢も関与する海運業の発展のきっかけになった。これ以外にも大隈は、内閣の一員として、あるいは議会に大きな足場を有する政党の党首として、民業を支える政策立案を行いつづけたのであった。また大隈の設立した早稲田大学は、渋沢のかかわった事業に対して多くの人材を供給した。高等教育の普及度の低い当時において、こうした人材の供給は貴重であったし、だからこそ渋沢も早稲田大学に対して多くの貢献をしたのであった。

 なお、二人のコラボレーションが及んだ教育機関は早稲田大学にとどまらない。大隈の外相時代、新島襄によって同志社大学設立運動が起こされると、大隈はこれに賛同し、渋沢もまた大隈の依頼を受けて多額の寄付金を行った。またその後、日本女子大学校の創立に際しても、大隈は創立委員長として資金集めに尽力したが、渋沢も創立委員兼会計監督として大隈を補佐した。一九一三年からは、大隈を総裁、渋沢を副総裁として、帝国実業講習会が組織され、社会人向けに働きながら学べる通信教育雑誌『実業講習録』を発刊、職業教育の普及が図られた。

waseda_0726_img_2.jpg

「実業講習録」
(筆者所蔵)

 こうした活動の背後には、国民の成長こそが国家の発展に繋がるという彼らの強い信念が存在した。そしてそうした共鳴は経済だけでなく、外交においても見られた。すなわち、渋沢も大隈も、政府間外交だけではない「民間外交」の必要性を高唱し、それを実践していた。渋沢は一九〇九年の渡米実業団以降、移民排斥運動などで関係の悪化する日米両国間に民間レベルでの友好関係を確立するため力を尽くした。大隈もまた自邸に訪日した外国人をしばしば招いて友好に務め、その自邸は「私設外務省」とも呼ばれた。二人が最後に言葉を交わしたのは、一九二一年一〇月、ワシントン会議視察のため日米関係委員会の一人としてアメリカへ旅立つ渋沢栄一が、病床にある大隈を訪問した際であったが、この時大隈は、自らの没後の早稲田大学への後援を依頼するとともに、日米関係を非常に心配し、何としてもアメリカと戦争にならないように尽力を頼むと述べたのであった。

waseda_0726_img_3.jpg

大隈・渋沢と外国人夫妻
(早稲田大学 大学史資料センター所蔵)

「分断」の世の中で大隈・渋沢に学ぶもの

 このように協力し合った二人であるが、必ずしも意見の一致することばかりだったわけではない。渋沢の下野の際の衝突をはじめ、二人の意見は必ずしも一致しないことも多かった。大隈没後、渋沢は大隈を「博愛の人」として追懐している。渋沢によれば、「大隈さんと私とは多少性格の異なつた点、意見の相違した点もあつた」「説を異にし、議論がましいお話をしたことも少くない」。が、しかしそれでも、「親交は益々深まり、爾来五十年余り大隈さんの亡くなられた日まで親密な間柄を保持してきた」。というのも大隈は、「或場合には人を論難し人を駁撃するけれども」同時に「仮令どう云ふことがあつたにしても、愛情を有ちつゝ人と接する」人であったからである。だからこそ大隈は「博愛の人」だというのである(『早稲田学報』19224月)。

 博愛とは相手を全肯定することではない。渋沢が言うように、大隈は遠慮することなく自らの見解を直言するのを常とした。しかし他方で自らへの批判に対しても寛容で、田中正造や尾崎行雄といった、いわゆるやかまし屋の人々を側に近づけて可愛がった(こうした大隈の姿勢については詳しくは拙著『大隈重信』参照)。そしてこうした「博愛」は、実は渋沢のものでもあった。職を賭して戦うほどの激論を交して大蔵省を去りながら、しかしそれでも相手への信頼と敬意を忘れず、大隈と生涯親しく交わり続け、助け続けたことからもそれは明らかである。

 近年、「分断」ということがしばしば言われる。しかし分断を避けるために意見を発しないことは、社会の発展にはつながらない。自分の意見を明確に声高に発しつつ、しかしそれと同時に、他者からの批判に自らを開いていき、意見の違うものとでも関係を続けていくことこそが社会を発展させる。渋沢や大隈が作り上げた明治の社会の力強さの源は、こうした開かれた多事争論の姿勢にこそあった。近年のSNS上での人々の振る舞いや政治家の振る舞いには、こうした姿勢の対極にあるものが非常に目につく。批判に耳を傾けずに自らの体面ばかりを繕う人々が横行する国に未来はない。批判者とも真正面から向き合いつつ、互いに敬意と信念をもって応対し助け合うことをやめない姿勢こそ、我々が大隈と渋沢の関係から学ぶべきもっとも大きな点なのではないだろうか。

waseda_0726_img_4.jpg

大隈講堂バルコニーに座る渋沢
(早稲田大学 大学史資料センター所蔵)

真辺 将之(まなべ・まさゆき)/早稲田大学文学学術院教授

1973年生まれ。日本近現代史専攻。早稲田大学百五十年史編纂専門委員。

著書に『大隈重信―民意と統治の相克』(中央公論新社、2017年)、『東京専門学校の研究』(早稲田大学出版部、2010年)、『西村茂樹研究―明治啓蒙思想と国民道徳論』(思文閣出版、2009年)など。東アジアの動物慰霊碑に関する研究や、猫の歴史などの研究も進めており、近著に『猫が歩いた近現代―化け猫が家族になるまで』(吉川弘文館、2021年)がある。