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小川 利康(おがわ・としやす)/早稲田大学商学学術院教授  略歴はこちらから

コロナ禍とディストピア ── 中国武漢で起きたこと

小川 利康(おがわ・としやす)/早稲田大学商学学術院教授
2021.1.12

  10月5日時点で、日本における新型コロナウィルス感染者数は8万5569名に達し、中国全土の総数8万5489名をついに上回った。10月29日に10万人を突破すると、旧年12月21日には20万人をついに突破し、「第3波」に歯止めがかからない状況である[1]

 日本とは対照的に中国が感染拡大をいち早く終息させられたのは、湖北省、とりわけ武漢(図1)での爆発的感染を抑止できたからだ。湖北省の感染者数68139名は中国全土の8割を占め、さらに武漢の感染者数が50340名と大部分を占める。だが、その対策として施行された「ロックダウン」は武漢市民の自由を大幅に制限し、現代中国が抱える病巣を露わにした。

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図 1湖北省武漢の位置
提供:共同通信社

 2020123日朝10時、武漢は「ロックダウン」された。コロナ禍による世界初のロックダウンである。武漢市は中華人民共和国建国後に武昌、漢陽、漢口の3都市が併合されて誕生した長江中流に位置する湖北省の省都で、人口1100万超の中国有数の大都市である。ロックダウン後、武漢滞在の邦人が日本政府チャーター便で帰国したことは記憶に新しい。

 「ロックダウン」は中国語で「封城fēngchéng」と表現する。この言葉を私は「ニューヨーク・タイムズ」123日付記事で初めて知った。見出しには「武漢"封城"控制新型冠状病毒疫情」(武漢「封城」で新型コロナウィルス蔓延を抑止)とある。原文記事でも「封城」はカッコ付きで記載する。オンライン版「ニューヨーク・タイムズ」は記事内容に応じて中国語あるいはスペイン語と英語の2言語で掲載する。この記事も2言語で掲載されるが、英文記事の方は"Wuhan, Center of Coronavirus Outbreak, Is Being Cut Off by Chinese Authorities"(コロナウィルス爆発的感染の中心地の武漢は中国当局によって交通遮断)とのみ記した。「ロックダウン」が「封城」の対訳として定着するのは少し後のようだ。

 当初「封城」の訳語が定まらなかった理由は2つ考えられる。第1には「封城」が今回のコロナ禍で生まれた新語だからだ。中国語の「城」が都市を意味することは初学者でも知っているが、「封城」となると、大部の『漢語大詞典』にもなく、前代未聞の状況で生まれた新語であり、「ニューヨーク・タイムズ」記者も戸惑ったことだろう。だが、より注目すべきは「封城」の実態の不明瞭さだ。交通網停止や外出禁止が報じられたが、大都市がヒトの移動(交通)とモノの移動(物流)を完全に止めたら、誰も生きてゆけない。ならば、感染防止と「封城」をいかに両立させるか。123日の段階では誰も答を知らなかった。

 その知られざる武漢「封城」の実態を明らかにしたのが『武漢封城日記』(郭晶著、潮出版社20209月)である。著者は女性の権利擁護のために活動するソーシャルワーカーである(写真1)。

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写真1:著者郭晶近影(本人提供)

 前年末に広州から転居したばかりのところで突然遭遇した「封城」体験をSNS(微博)上で日記として公表し、大きな反響を呼んだ。無名の29歳女性が語る孤独な日常は武漢の「封城」生活の現実を虚飾なく伝えており、その反響に注目した海外メディアが競って報じた。まず『BBCニュース』(130日付)がいち早く紹介すると、『ニューヨーカー』(27日付)、『ガーディアン』(315日付)が続いた。この紹介で読者はさらに増えたが、中国当局は繰り返し著者の日記を削除、ブロックして、ネットでの拡散を阻んだ。日本ではNHKがドキュメンタリー番組「封鎖都市・武漢~76日間市民の記録~」(BS1スペシャル、54日放送)で報道し、著者は番組のなかでオンライン・インタビューに答えている。放送直後、台湾では単行本として刊行され、9月に本学名誉教授稲畑耕一郎氏によって翻訳されている。

 著者はマスクが買えず、日用品も欠乏するなかでも、外出の機会をうかがっては路上で仕事を続ける清掃作業員から話を聞いている。フェミニズム活動家である以前に弱者を助けることが使命であると考えたためだという。だが、このわずかな自由もほどなく失われる。感染状況が深刻化した2月初旬から武漢政府は管理を強化、住民の外出を完全禁止する「封閉管理」へと移行した。禁じられたのは外出だけではない。言論も厳しく制限された。27日未明、「笛を吹く人」李文亮[2]の死が報じられると、SNS上には哀悼の声が次々と湧き起こったが、相次いで削除された。著者の追悼文も3度書き込み3度とも削除された。ここに私は中国の感染管理の本質を見る。中国はたしかに感染拡大をいち早く抑止できたが、それは中国共産党の施策に合致しない言動を排除するデジタル監視システムがコロナ禍以前に完成していたからである。

 その核となるのがアリペイ(支付宝)やウィチャット(微信支付)である。いずれも中国社会で暮らすうえで絶対必要不可欠なもので、キャッシュレス決済機能を軸とし、各種予約システムから公共料金支払いまでワンストップで完結するようサービスが提供される。小さなスマートフォンのなかで個人情報が集中管理され、社会と個人をつなぐ広大な網の目というべきシステムである。

 特にアリペイは、セサミ・クレジット(芝馬信用)が人々の支払い実績に応じて、AI(人工知能)が個人ごとに信用スコアを判定し、高スコアを得ると、ローン金利など種々の優遇が受けられる(図2)。逆に支払いを怠ればスコアは下がる。今後、人々は差別待遇を避けるため、政府の意向に逆らうことは一層困難になるだろう。コロナ禍以降は非感染を証明するアプリ「防疫健康碼」が追加され、この証明書なしで公共の場に出入りできなくなった。

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図2 :セサミ・クレジットのスコア(図の中等スコアで前金なしでホテルに宿泊できる)

 広大な国土に14億の人口を抱える超大国でありながら、この利便性を兼ね備えた監視システムから逃れられる中国人は極めて少数である。アリペイを拒絶すれば社会的サービスから疎外されるからである。思えば、ジョージ・オーウェルの描く『一九八四年』は牧歌的であった。デジタルデータを利用する「ビッグ・ブラザー」の監視システムから逃れるのは極めて困難である。

 このディストピア的状況を映像として結実させたのがドキュメンタリー映画「Coronation」(艾未未アイ・ウェイウェイ監督、2020821日)[3]である。中国からイギリスへ移住した芸術家艾未未は、中国で密かに撮影された素材をもとに映画を制作した。説明抜きで流れるICU(集中治療室)から火葬場までの実写映像は、医療崩壊の凄惨さを無言のうちに語り尽くし、武漢コロナ禍の死者は独裁権力の犠牲者であると告げている。

 中国と同様、私たちもデジタルがもたらす社会の利便性を手放すことはできない。しかし、そのサービスを支える個人情報を一部の企業や国家権力の手に委ねてはならない。その結果が招来するディストピアの恐ろしさをロックダウン下の武漢は私たちに教えてくれている。

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[1] 感染状況データは日本「東洋経済オンライン」特設ページ「新型コロナウイルス国内感染の状況、中国「国家衛生健康委員会による。
[2] コロナウィルス感染拡大の危険性に気づき、いち早く警鐘を鳴らした武漢市中心医院の眼科医師。20191230日、感染症拡大の危険性を微信のグループ・チャットで発信したところ、「事実無根のデマを拡散した」として公安当局から譴責された。その後、自らも診察中に感染、死亡した。
[3] Vimeoオンデマンドで公開

小川 利康(おがわ・としやす)/早稲田大学商学学術院教授

1963年東京都生まれ。大東文化大学外国語学部専任講師を経て、1996年早稲田大学商学部専任講師、1999年同助教授を経て、2004年より現職。専門は中国近現代文学、日中比較文化論。

主要編著『叛徒と隠士 周作人の一九二〇年代』(単著、平凡社2019年)、『周作人致松枝茂夫手札』(共編、中国広西師範大学出版社2013年)など

主要論文「「人的文学」的思想源脈論析——藹理斯與新村主義的影響」(『長江学術』66号、20206月)、「周作人と大逆事件──永井荷風との邂逅をめぐって──」(『野草』102号、20193月)、「文白の間──小詩運動を手がかりに」(『中国古籍文化研究 稲畑耕一郎教授退休記念論文集』下巻、東方書店、20183月)など