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見市 建(みいち・けん)/早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授  略歴はこちらから

インドネシアにおけるフェミニズム運動の「新しい日常」

見市 建(みいち・けん)/早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授
2020.10.19

 例年であれば大学の休業期間が始まると、すぐにインドネシアでのフィールドワークに繰り出す。しかし今夏は、日本はおろか東京からも出られなかった。鬱憤が溜まるといいたくなるところだが、こんな状況でもスクリーンの向こうのインドネシアの社会運動は活発である。労働組合や人権団体は、マスクを装着してデモを続けている。10月上旬には、海外からの投資促進のために事実上労働者の権利を制限する法律が国会で可決され、大規模かつ激しい抗議活動が起こった。コロナ禍の新しい現象といえるのは、ソーシャルメディアのタイムラインに流れてくる、ズームやインスタグラムを利用したウェビナーの予告である。私が現在調査をしているフェミニズム関連のものだけでも、ほぼ毎日(誇張ではない)開催されている。ウェビナーで行われる議論は、果たして社会運動にどのような新しい意義を与えうるのだろうか。小文では、インドネシアのフェミニズムを例にウェビナーがもたらす「新しい日常」について検討してみたい。

性暴力排除法案をめぐる攻防

 インドネシアでは1998年の政変と民主化以降、女性の人権擁護とジェンダー公正を目的とするフェミニズム運動の組織化が進んだ[1]。なかでも特徴的なのは、イスラームへの帰依を前提に、その平等主義の原則を武器とするイスラミック・フェミニズムの発展である。国民の9割近くを占めるムスリムのマインドセットを変えるためには、宗教的な裏付けが不可欠なのである。

 近年フェミニズム運動が共通して訴えているのは、性暴力排除法案の成立である。インドネシアでは、報告されているだけで年間43万件(2019年)の女性に対する暴力事件が起こっており、その数は毎年増え続けている。さらにコロナ禍による隔離によって、家庭内暴力や性暴力の状況悪化が危惧されている。性暴力排除法案は、現行の刑法では十分ではない性暴力への対処、具体的には性暴力の処罰範囲の拡大、被害者保護、加害者のリハビリテーションなどを規定している。事実上草案を作成したのはフェミニストの活動家らである。

 法案推進のためのパンフレットには、以下のように書かれている。「性暴力排除法案の可決は国家にとって、創造主であるアッラーによって栄誉を与えられた、人間としての国民の福利向上につながる。性暴力は人間の栄誉への裏切りである。なぜなら加害者の態度は人間性を欠いたオスあるいはメスであり、被害者は非人道的な扱いを受けるからである」。そして、クルアーン(コーラン)を根拠に、人間は神に創造された特別な存在であり、その特別さにおいて男女は対等であると主張する(資料1)。

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(資料1)「なぜ性暴力排除法が支持されなければならないのか?」
出典:Jaringan Kerja Prolegnas Pro-Perempuan (JKP3), "Mengapa DPR dan Pemerintah harus segera membahas dan mengesahkan RUU Penghapusan Kekerasan Seksual Vol.1-3," 2019.

 フェミニスト活動家らは20199月を会期末とする国会で、性暴力排除法案が成立することを期待していた。しかしながら、同年4月にあった大統領選挙を前にこの法案が政争の具とされたことで、急速に雲行きが変わった。法案に反対する保守的なイスラーム勢力が、フェイクニュースも使って、法案が「フリーセックスやLGBTを助長」「道徳を崩壊させる」「反イスラーム」などとソーシャルメディアで宣伝し、かなりの人々がこれを信じた[2]。こうした宣伝に与野党を問わず国会議員は可決に尻込みしたため、国会の不作為で法案は継続審議となった。さらに20207月には、コロナ禍による国会の活動制限を理由に、性暴力排除法案は「優先法案リスト」から外され、法案成立はさらに遠のいてしまった[3]

イスラミック・フェミニズムのオンライン講座

 こうした状況に対して、フェミニズム運動は性暴力排除法案の成立を求めるキャンペーンを行い、その一環としてウェビナーを頻繁に開催している。実際、ウェビナーはこうしたアドボカシー活動に適している。というのも、ソーシャルメディアのコミュニケーションは、短文がほとんどである。これが加工され、ワンクリックで拡散され、各自の手元に届く。根拠が薄弱でも、うまく受け手の直感にアピールすればウイルスのごとく蔓延する。昨年の性暴力排除法案の不成立はこうしたソーシャルメディアの性質に足元をすくわれたものだった。他方で、時間がかかる議論はほとんどがオフラインで行われてきた。セミナーのウェブ中継はこれまでもあったが、冗長で音声も悪く、内容が伝わりにくかった。ウェビナーはこの点で大きく改善されている。話が比較的短く、簡潔になりやすい効果もある。双方向性もそれなりに保たれている。登壇者を含め、参加の敷居も下がった。なにより、世界有数といわれるジャカルタの交通渋滞をくぐり抜けて1カ所に集まる必要がなくなった[4]

 こうした特性も活かし、性暴力排除法案についてのウェビナーでは、「内輪」の活動家だけではなく、国会議員なども招いている。これまで国会議員はロビー活動の対象であったが、知りうる限り、フェミニスト活動家たちのオープンな議論の場にはあまり参加してこなかった。直接のロビー活動が難しい状況で、議員本人たちをオープンな議論の場に引っ張り出すのは妙案である。

 ウェビナーのほとんどが単発なのに対して、際立っているのが啓典解釈(タフスィール)学者でイスラミック・フェミニズムの論者であるヌル・ロフィア(Nur Rofiah)の活動である。彼女はこれまでイスラーム大学の大学院で教鞭をとるかたわら、イスラームにおけるジェンダー公正をテーマに自宅で私塾を開いてきた。昨年から各地でワークショップも開催しており、地方都市の大学生やイスラーム学校の生徒をターゲットに20カ所以上を巡回した。性暴力排除法案の理論的根拠となるイスラミック・フェミニズムについての理解を深める内容である。


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(資料2)ウェビナーに出演するヌル・ロフィア
著者撮影。本人の許可を得て掲載している。

 現在、ワークショップはズームで開催されている。「アラビア語におけるジェンダー間関係」、「女性の人権を説く教義システムとしてのイスラーム」といったテーマで毎回2時間半のセッションを6回で修了する無料のオンライン講座である。例えば、626日のプレ講座では、これまでほとんど男性のみのウラマーが発出してきたファトワー(一般信徒の質問に対して示される宗教裁定)の変革が説かれた。具体的には、男性だけでなく女性が法学的議論に参加し、女性は法的解釈の客体ではなく主体になる、女性の身体的経験や不公正についての経験を法解釈に反映する、といったことである。8月末からは同じ内容で、第2シリーズの講座が行われた。第1シリーズは500人、第2シリーズには850人以上の受講申込みがあった。オンラインになったために(しかも毎回手話通訳がついている)、飛躍的にオーディエンスが広がったのである。

 以上のように、ウェビナーはこれまでのアドボカシー活動に比較すると利点が多い。「コロナ後」にも継承されるであろう、社会運動の手段の新しいレパートリーである。そしてこうした状況に対応できる柔軟さと、連日ウェビナーを開催できる組織的、人的なネットワークこそが、インドネシアのフェミニズム運動の資源だといえるだろう。


[1] 19985月の政変に際して起こった暴動では、組織的に女性が強姦される事件が起こった。これをきっかけに、女性への暴力に反対する国家委員会(Komisi Nasional Anti Kekerasan terhadap Perempuan)が設立され、フェミニズム運動の制度的支柱となっている。また政治的な自由が大幅に拡大したことで、多数のNGOが結成された。2005年には41団体が集まって女性支援立法活動ネットワーク(Jaringan Kerja Prolegnas Pro-Perempuan: JKP3)が結成され、女性の権利保護を目的とした法整備を求めて国会や官庁へのロビー活動を行うようになった。
[2] インドネシアにおける同性愛やLGBTに対する偏見は根強く、許容度は極めて低い。ただ、これまで同性愛者の存在は映画の脇役や「夜の街」の普通の風景だった。近年使われるようになったLGBTという略称は、性的少数派の人々というより、しばしば彼らを支援する政治運動を指している。そしてこの政治運動は西洋を起源とする、非道徳的な文化的侵略であるという陰謀論が蔓延している。この傾向はフェミニズムについてもある程度当てはまる。こうしたLGBTをめぐる言説を分析したものとして以下を参照。 Michael Ewing, "The use of the term LGBT in Indonesia and its real-world consequences,"Melbourne Asia Review, May 6, 2020. https://melbourneasiareview.edu.au/the-use-of-the-term-lgbt-in-indonesia-and-its-real-world-consequences/
[3] 性暴力排除法案をめぐる攻防について詳しくは以下の拙稿を参照。見市建「ジェンダーの政治と大統領選挙―分極化の犠牲となった性暴力排除法案」川村晃一編『2019年インドネシアの選挙』IDEアジア経済研究所、2020年。Ken Miichi, "Post-Islamism Revisited: Response of Indonesia's Justice and Prosperous Party to Gender Issues," The Muslim World (forthcoming).
[4] 課題は、大学のオンライン授業同様、インターネットへのアクセスと参加者同士のインフォーマルなコミュニケーションの困難さであろう。

見市 建(みいち・けん)/早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授

千葉生まれ、神戸育ち。2002年神戸大学大学院国際協力研究科博士課程後期修了、博士(政治学)。京都に3年半(京都大学東南アジア研究所)、シンガポールに1年半(在シンガポール日本国大使館)、盛岡に10年(岩手県立大学)を経て、2017年から早稲田大学大学院アジア太平洋研究科准教授、2019年から現職。

専門は、インドネシアのイスラーム運動を中心とした東南アジア現代政治、比較政治学。

主著に『新興大国インドネシアの宗教市場と政治』(NTT出版、2014年)、Dynamics of Southeast Asian Muslims in the Era of Globalization(Omar Faroukとの共編、Palgrave Macmillan, 2014)、『ソーシャルメディア時代の東南アジア政治』(茅根由佳と共編、明石書店、2020年)などがある。