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時代のなかの大隈講堂―講堂の歩みと早稲田の歴史―

嶌田 修/早稲田大学大学史資料センター助手

はじめに

 早稲田大学といわれて、何を思い浮かべるであろうか。大隈重信(銅像も含む)であろうか。それとも「都の西北」ではじまる校歌の一節であろうか。おそらく、それらとともに、青空を背景に聳えたつ大隈講堂をイメージされる方も多いのではなかろうか。

 大隈講堂(正式名称は、早稲田大学大隈記念講堂)は、1927年に開館し、以来90年以上変わらぬ姿で在りつづけている。早稲田に学んだ人にとって、“心のふるさと”を体現した存在ともいえるであろう。しかし、講堂建設のいきさつや、設計・建築の実際、そして完成後にたどった道のりなど、大隈講堂をめぐる歴史は、その知名度に比してそれほど知られてはいない。ここでは、早稲田の歴史とともにあった大隈講堂について、その歩みをたどってみたい。

“センター”としての講堂を求めて―講堂なき時代―

 早稲田大学の前身である東京専門学校が創立されたのは1882年である。もちろん、創立当初から大隈講堂があったわけではない。学校創立後、学生数の増大や組織の拡張にともない校舎は増えていったが、学生たちを一度に集めることができる「講堂」については、建設には至らなかった。大隈重信が1889年に寄進した大講堂も、キャパシティとしては十分ではなかった。また、1900年代はじめには、校舎増築の計画のなかで、「中央講堂を構内中央の大敷地に建設し以て早稲田大学全校舎の整頓を期せんとす」(『第廿一回早稲田大学報告』1904年)との記録はあるが、実現はされていない。この時期、多くの人が集まる式典などの行事は、野天で行われるか、あるいは大学の中庭に天幕(テント)を張り、さしあたり雨露を凌いで開催されていた。

卒業証書授与式(大テント内・大隈重信総長の訓辞)1919年 早稲田大学大学史資料センター所蔵(以下、掲載資料の所蔵は全て同じ)

 大隈重信は、晩年、「俺に屢々演説をさせるが、天幕の中や野天では困るではないか、俺も八十以上になって居るから家の中で演説をさせて呉れないか」と語ったといわれている。もっともなことであるが、それとともに大隈は、「学校という共同体の中心は講堂である。〔中略〕総て物には中心がなくてはならぬ、センターがなくてはならぬ」(「始業式に臨みて」『早稲田学報』第315号、1921年5月)と、多くの人が集合・共同する力を重視し、大学にとって、“センター”としての講堂を持つことの重要性を力説した。

 結局、大隈は講堂を見ることなく世を去った。しかし、その思いは周囲の人々に受け継がれていく。大隈の没後まもなく記念事業が計画され、講堂の建設が決定された。建設資金などの募金活動は、教職員をはじめ、在学生、校友、各地域の人々が関わるなど大規模なものとなった。大隈の死が求心力となり、事業が進められていったのである。

 他方、講堂のデザインについては、理工学部建築学科出身の校友からの提案で懸賞募集が行われ、応募数は145点を数えた。当選3点、佳作6点など選考が行われたが、最終的にこれらの案は、隣接する庭園等との調和の関係で参考意見にとどめることとなった。

 こうして、紆余曲折はありながらも、講堂建設への第一歩が踏み出された。

宿願をかなえる―大隈講堂の誕生―

 講堂の建設に向け、建設資金の募集やデザインの検討などを進めていた矢先に、関東大震災が発生した(1923年9月1日)。学内でも大講堂の倒壊や各学部の校舎の破損など被害は甚大であり、講堂の建設についても計画を中断せざるをえなかった。

 建設計画があらためて動き出したのは、震災から1年半ほど経った1925年4月であった。講堂の設計は、佐藤功一をはじめとする理工学部建築学科のメンバーによって進められ、仕切り直しとなったデザインは、当時助教授であった佐藤武夫が中心となり、数か月間で講堂全体の設計図や照明など各意匠の図面を書き上げた。その際、高田早苗から出された、「ゴシック様式であること」、「演劇にも使えるように」という意見も盛り込まれた。また、時計塔の高さは、大隈重信が唱えた「人寿百二十五歳説」にちなみ125尺(約38メートル)としたことは、ご存じの方も多いかも知れない。デザイン(製図)のほかでは、構造設計を福島雅男(当時助教授)、衛生換気設備を大沢一郎(同前)、音響効果を黒川兼三郎(同前)が担当し、そこに顧問陣として岡田信一郎、内藤多仲、吉田享二の各教授が名を連ねるかたちとなった。このように講堂の建設は、佐藤功一のもと、当時の建築学科の若手メンバーが中心となり再開されたのである。

早稲田大学故大隈総長記念大講堂設計図(断面図)佐藤功一・佐藤武夫 1925年

建築中の大隈講堂 1927年3月頃

 他方、建設資金については募金の目標額への見通しがつき、1926年2月に工事が着工され、1年半後の1927年10月に無事竣工を迎えた。そして同月20日、創立45周年記念式典とともに大隈講堂開館式が行われ、多くの人が講堂に集まり、亡き大隈重信を偲んだ。高田早苗は開館式に際し、「天にます みたまよしかと みそなはせ もろ人つとひ きみしのふなり」(天上にいらっしゃいます大隈老侯の御霊よ、しかとご覧ください。完成した講堂に多くの人がつどい、あなたのことを偲んでおります)と歌を詠んだ。ここに、積年の宿願が果たされたのである。

高田早苗短歌(「高田早苗他書画帳」1927年)

さまざまな“場”として、シンボルとして―講堂が刻む歴史―

 講堂の完成以後、そこでは入学式・卒業式をはじめ、講演や演説会、映画や演劇、教員の最終講義など、さまざまな行事が行われた。また、学内外の冊子などに講堂が描かれることで、早稲田をあらわすモチーフのひとつとなった。講堂が表紙を飾る本やパンフレットを一度は目にした方も多いと思われる。また、受験雑誌などでも講堂は取り上げられ、早稲田を目指す人にとっても、早稲田=大隈講堂というイメージがつくられていった。

 一方、大隈講堂は、各行事の会場であるとともに、そこで起きたさまざまな出来事を通して、早稲田の歴史を刻む“場”となっていく。すなわち、各種講演会や大学紛争など、それぞれの時代において早稲田にとって歴史的意味をもつ出来事の舞台となった。そして、それらの“経験”を経て、大隈講堂は早稲田のシンボルとなっていったのである。

 いくつかの例を挙げるとすれば、坪内逍遙の最終講義(1927年)、ロバート・F・ケネディの講演・討論会(1962年)、大学紛争時(第二次)における革マル派の占拠と警察による封鎖解除(1969年)、森繁久彌の公演「屋根の上のヴァイオリン弾き」(1981年)など、それぞれの時代のなかで、早稲田の歴史にとって大きな出来事が、講堂を舞台に起きている。

大隈講堂占拠〔1969年〕

おわりに

 その後、キャンパスの整備がされるなかでも、講堂の位置づけは変わらない。1957年に戸山キャンパスに記念会堂(現在は早稲田アリーナに姿を変えた)が完成してからも、著名人を招いての講演会など、重要な舞台としての役割は変わっていない。1999年には東京都選定歴史的建造物に、2007年には国の重要文化財に指定され、現在も大隈講堂は早稲田の歴史とともに歩みつづけている。

 ※本稿は、大学史資料センター春季企画展「時代のなかの大隈講堂」(2019年3月22日~4月21日 ※終了しました)の展示図録における文章を加筆修正したものである。

 *過去の展示図録は以下のサイトでご覧いただくことができます。
https://www.waseda.jp/culture/archives/news/2018/06/21/2505/

嶌田 修(しまだ・おさむ)/早稲田大学大学史資料センター助手

2014年3月 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学
2014年4月~2016年3月 早稲田大学図書館(特別資料室)常勤嘱託職員
2016年4月より現職